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2015年7月13日 (月)

ボッティチェリとルネサンス─フィレンツェの富と美(6)~第6章 メディチ家の凋落とボッティチェリの変容

Bottirolenフィレンツェはサヴォナローラの登場によって、いわゆるルネサンスに対して異議が唱えられ、ボッティチェリのパトロンであったメディチ家が退場する事態となります。そこで、ボッティチェリの晩年の苦境が始まる。そういう説明があっての展示です。

『ロレンツォ・デ・ロレンツィの肖像』を見てみましょう。前回に見た『受胎告知』の方向性を進めていった作品にように、私には見えます。例えば、顔を描く際の線の存在感が強くなってきていること、悪く言えば、塗り絵の感じを強める傾向になっていること。顔の陰影のつけ方が線に付随するようになっていること。それだけパターン化されている。ということは、見る人には単純化して、わかりやすくなっているということです。絵の具の塗り方も、精細さよりも、単純化による分かりやすさを前面に出してきているようで、肌の柔らかな触感を想像させることはなくなっています。聖母像では印象的だった肌色の色合いが、ここでは喪われてしまったのでしょうか。近くに展示されていたロレンツォ・ディ・クレディの『ジャスミンの貴婦人』と比べて見たいと思います。『ジャスミンの貴婦人』も奥行きを感じさせることの少ない、どちらかというと平面的な作品です。背景の窓外にひろがる風景は遠近法を意識した奥行きが意識されてはいないし、隔てている空気感もありません。中心の人物と背後の壁との間の間隔も感じられません。その中で、女性の顔と首から肩にかけての陰影と、肌色の色合いのグラデーションは点描をみているような、あるかないか分からないほど精細に描きこまれています。それゆえか、この肖像画はパターン化された図案のようでありながら、不思議な息吹を感じさせ、個性のある人間を想像Bottijasminさせるものになっています。女性のポーズとか描いている角度などが、ダ=ヴィンチの『モナ=リザ』に似ていますが、似て非なる独特の輝きを放っている作品であると思います。私は、ボッティチェリの『開廊の聖母』でやっていたことの普及版のように、この肖像を見ていました。ボッティチェリには、こういう肖像を描く方向性もあったのではないか。彼なら、この作品以上に繊細なものを描けたかもしれなかった。私には、そう思えます。しかし、彼は、その方向に行かなかった。その結果として、ボッティチェリの描いたのは『ロレンツォ・デ・ロレンツィの肖像』ではないか。展示の説明では、メディチ家というパトロンを失い、サヴォナローラの宗教的な狂信の影響によってボッティチェリの芸術は混迷していくということでした。しかし、私には、『受胎告知』の装飾やきらびやかな色彩を追求していくような方向で、その派手な部分を取り去ってしまった残りが、これ以後のボッティチェリの作品傾向となってしまったのではないかと思えるのです。それは、この展覧会のポスターでも使用された『聖母子と洗礼者聖ヨハネ』にも、そのような兆候は見えると思います。この作品での聖母の衣装の青と赤は、これまで見てきたボッティチェリの聖母像に比べて、派手できらびやかです。それだけアピールするところが大きいと思いますが、反面、その色に頼っているところがあります。それ以前のボッティチェリの聖母像にあった絵の具の塗りの精細さは、むしろ減退しているように見えるのです。多分、精細に塗りをやってしまうと、きらびやかな色彩の効果を生かせなくなることになるからでしょう。そのため、塗りがパターン化として、衣装の布地の触覚がなくなってしまって見えます。それ以上に、聖母の顔の肌の柔らかさとか細かな陰影が感じられなくなっています。そのため、全体としてノッペリとしてきています。私には、ボッティチェリは、この方向に進んで行った挙句、袋小路にはまっていった。そのプロセスにおいて『ロレンツォ・デ・ロレンツィの肖像』のような作品が生み出されたと思うのです。

Botti6nin『聖母子と6人の天使』を見てみると、正確には、ボッティチェリと工房ということなので、彼一人の責任に着せられるものではないでしょうが、明らかに形態は崩れて、描かれている人物は人形のようにパターン化されて生彩がありません。陰影のつけ方にしても、ベタッとした塗りにはならないように形式的につけられているおざなりのようです。

私の好みの偏向したところで、ボッティチェリに対しては、不当に貶めるようなことを述べていると思います。今回の展覧会は、ある程度のまとまった点数の作品を見ることで、彼の作品を見るための手がかりは得られたと思います。しかし、私にとっては、相変わらず、他の画家を差し置いてまでも、積極的に見たいと思う画家ではありません。

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