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2015年7月 6日 (月)

山内史朗「天使の記号学」(26)

第7章 「私」というハビトゥス

「私」ということのリアリティのなさ、この出発点に戻ろう。「透明な存在であり続けるボク」という言葉を残した少年たちが、他者や世界の暴力的な破壊、自己破壊に帰着するしかない暴力的破壊に及びながら、背後にリアリティの欠如を抱えていたことは、偶々のことにすぎないのだろうか。もしかすると、リアリティの欠落に駆り立てられて、天使が墜落する刹那に味わう、激しく、熱い時間を求めたためだったのではないか。

透明であること、純粋であることは、無垢・イノセントの象徴として捉えられてきた。もし純粋なままに生まれ、純粋に生き、死の穢れ帯びぬまま純粋に死ぬことが、人間の理想であるとすると、人間とはこの世に存在しない方がよかったのかもしれない。近代以降、死体や汚物が人目から遠ざけられるようになり、しかもタブーの領域は幾重にも及ぶ外装によって蔽われるようになってしまった。文明化・近代化とはそういうものなのだろう。思惟の主体としての近代的意識概念は、そういった時代を背景にして生まれてきた。例えば、近世以降に強まっていく脱呪術化の過程は非科学的、非合理的思考を除去してきた。そういった流れと、身体を持たない、純粋な意識形態としての超越論的統覚に至る流れは、私には無関係には思われない。その延長線上に、現代に瀰漫するリアリティの空白があるのか、よく分からないが、少なくとも作業仮説として考える者がいてもかまわないだろう。その際、近世が中世という歴史空間を捏造し、仮想的な負の空間を背景にして己の姿を浮かび上がらせたように、「近代」という負の空間を作り上げ、その裏返しとしてのポストモダンを僭称することは、あまり好ましい方法とは思えない。先行する時代と後続する時代との間には、非連続性より連続性の方が多く見出せるのが常だからだ。連続性を閑却して、後の時代が直前の時代を批判するのは、「遅れてきた者」の優位さに安住した、ドミノ式時代批判になりかねない。

リアリティの空白は現代に限ったことではない。そんなリアリティの欠如を曲りなりにも埋め合わせ、リアリティをどう捉えるべきか教えてくれたのは、皮肉なことに、西洋中世のスコラ哲学だった。しかし、スコラ哲学のテキストは、言葉と概念の洪水なのに、そして、論証の形式に則った明確な形式に収まりながら、最後まで語りきらず、途中で終わってしまったように感じられることも少なくない。一面において寡黙でありながら、言葉の量の面では、辟易するばかりの言葉と概念の過剰な様を見ると、彼らは、言葉では届かないことに心を向けながら、届かないことを知っていたから言葉のうえに言葉を重ねていたのか、それとも、何も気付かないまま語り続けたのかと考えずにはいられない。言葉では届かないとすると、つい天使の言葉に憧れが起きてしまう。しかし、多弁と寡黙が両立するとはどういうことか。祈るとき、一茶新フランに聖典を誦するとき、それは多弁と呼べるだろうか。祈りの言葉は、発信者と受信者、伝達内容と伝達媒体でコミュニケーションを考える枠組みを越えているはずだ。そこから浮かび上がってきたのが、コミュニカビリティという概念だった。

このような概念を持ち出すのは、最初にあった渾然たるもの・不分明なものが<>を受け取って姿を現す過程に、リアリティがあって、そのリアリティを語るためには、<>に先立つ<かたち>の領野を語るしかない、と思われたからだ。<かたち>とは、<>を持たないが、<>を潜在的に含むものだ。もしそうでなければ、<>として現われることは、単なる偶然となろう。<>な先行するものが、非物体的な概念であって、その概念に、具体的な<>への適用可能性が備わっていなければ、特定の<>が現実にあることの理由は見失われる。事物の<>であれ、人間の<>であれ、思想の<>であれ、表すもの・ことが同じであれば、その<>はどれも同じだということにはなにない。<>にはそれぞれ個体性が備わっており、その個体性を単なる偶然とするのでは、芸術も思想も愛情も成立しないだろう。

<>にも様々ある。「私ということ」のリアリティに関わりのある<>は、現代人にとっては、欲望であったり、自己の身体へのイメージではないのか。欲望の<>の根底にハビトゥスがあり、肉体の<>のイメージとしての<身体イメージ>の根底に<身体図式>があり、結局、この<身体図式>もまた、ハビトゥスに至るのではないか。

そういった欲望、肉体、聖霊、コミュニケーションという、具体的な問題から、なぜ<存在>という最も抽象的なものに飛び移らなければならないのか、訝る人も少なくないだろう。<存在>とは最も豊饒なものだ、<存在>とは抽象的ではなく、最も身近な事柄だと述べても、すべての人がそう感じるわけではないだろう。近世以降、存在論や形而上学が形骸化してゆく様を見ていると、<存在>の豊饒性が中世から近世を介して現代にまで伝わったなどとは、なかなか考え難い。<存在>の豊饒さを受け入れないと、具体的な問題から抽象的な問題への移り行きは理解できないということだろうか。

近代的思考では、思惟主体─思惟作用─思惟対象という枠組みが強く見られる。近世的主体主義というものだ。そして、そこでは思惟の主体としての「私」が原点に置かれた。感覚や肉体への顧慮が欠けていたわけではないのに、上記の基本的枠組みの中には収まりにくい。ところが、中世的思考では別の枠組みが支配的だったのだ。そこには、肉体にしても感覚にしても、被限定項─限定項─限定態のいずれの項にも入り込む余地がある。「存在論の三項図式」は原点・始点を特有の領域に限定しているわけではないからだ。この「三項図式」を<存在>において考えれば、本質─存在・存在作用─存在者という枠組みが得られる。そこでは<本質自体>といった未規定的な次元が持ち出され、その次元をめぐって、<本質存在><共通本性><絶対的に捉えられた本性>といった諸概念が考案されたという経緯を垣間見た。最初に、現実化はしていないが、規定性を備えた次元として本質があるというのではなく未規定的なものが自己限定すると語るしかない事態がそこには見られる。実はこのことが、コミュニケーションの領域でも成立し、伝達されうるもの─伝達作用─伝達結果という図式を考え、「伝達されうるもの」を、<本質自体>と同じように、自己限定の始源にある状態として考えた場合に、「コミュニカビリティ」が得られるのである。

始源にあるものは、それ自体で取り出せば、いかなる述語であれAでもなく~Aでもないと語るしかないが、そういうものも、現実性に至り、具体的なものとなる。その現実性は、必ず何らかの<>をとることで実現する。私は、その<かたち><>に転じる場面が、存在と本質の問題においても、個体化の問題においても、扱われていたと思う。「形」になる前の「かたち」ということ、現実性の前にあるというより、現実性を準備し、生み出すものとしての「可能性」ということが問題なのだ。「可能性」とは、確かに、未だ現実化していないことであり、従って現実性の相において捉えれば、たかだか「…でないこと」になってしまう。現実化していないことが、リアルでないとすれば、世界とは陰影を持たない、平板な、分かりやすい空間であろう。しかし、現実化とは、「彼は生きていない」事態から「彼は生きている」事態への瞬時の変化でも、或る時点において「彼は生きている」という命題の真理値が偽から真へと変化するということでもないだろう。当然のことながら、事態の方は徐々に進展し、それを言葉で切り取った場合に「である/でない」という対立が現われるということなのだろう。すると、可能性とは現実化した途端、消滅するのではなく、現実化の働きの中でもとどまるものだ。言い換えれば、現時性は必ず幾ばくかの可能性を含んでいるし、可能性も、現実化し得ないものを除けば、必ず幾ばくかの現実性を含んでいるということになる。可能性は、現実性を準備し、しかも同時に支えている。

可能性が現実化への志向性であり、現実性が可能性を含んでいるとしたら、可能性が未来に投影されは場合、それは目的として映じることになる。目的論的記述には危ういところもあるが、現実に成立していることを記述さえすればいいというのでなければ、そういった記述も必要だろう。目的は、観察し、記述する能力を持った存在者がいるという条件が満たされている場合には、可能性にとどまりながらも、現実性に含まれているばかりでなく、現実性の表現の中に登場する。その場合には、最後に現われるものが、最初にあたかも原因であるかのごとく、いや多分実際に原因として存在する。

私には、目的論と欲望、最普遍者としての<存在>と個体、言葉と肉体といった問題が、からまった糸のように、一つのかたまりとなって与えられることが多いと思われる。当然のことながら、混乱した思索にならざるを得ない。とりわけ、<存在>への関心と、個体性への関心が同時に現われるとき、対応は簡単なことではない。だが、ドゥンス・スコトゥスが、<存在>の一義性と、<このもの性>に見られる個体性の重視を提唱しているのを見ると、手がかりがあるように思われたのである。やはりスコトゥスに見られる主意主義と実在論も、一つのシステムを形成しているとすれば、絡まり合った思索も解きほぐせるもしれないと感じたのである。その際、<存在>の豊饒性を思わずにはいられなかった。<存在>にエロティシズムがあるのは案外当然のことだろう。性的事象が扱われたのは、日本の民間信仰のせいばかりではなく、媒介のメカニズムに見出される。生物学的性には無縁でありながら、その性を依代として現われ出るしかない「性=本性」のことが語りたかったのである。

こういう存在論や形而上学のモデルを通して、リアリティの問題に踏み入った場合、リアリティは、被限定項─限定項─限定態─という三項図式においては限定項に現象するものであると考えている。

結局のところ、私は「私」とはハビトゥスであるということが表現したかったのだろう。「それをいっちゃあ、おしめいよ」で、事実を言っても仕方がない、いや言説の流通過程に流すべきではない。「私」は必ず具体的な姿で、形をもって存在するしかない。子供でも大人でも、女でも男でもない、健康でも病気でもない「私」というのは、現実には存在しない。「今・ここ」にいる「私」以外に「私」は存在するはずもない。

にもかかわらず、「今・ここ」に与えられているものがリアリティであのアクチュアリティであるということに満足できず、「なぜ今・ここにいるのか」と問いたくなるというのはどういうことか。なぜ「なぜ?」ということを問うのだろう。おそらく、「なぜ?」ということへの答えは、問いの向こう側にあるのではなく、問いの手前あるのだろう。ちょうど、「私とは何か?」という問いの答えが、問いの手前にあるように。そして、手前にあるものが<ハビトゥス>であって、問いの可能性の条件を構成しているのだ。<存在><存在>において<存在>に至るという、多くの人には愚かしい命題にしか見えないテーゼによって、私はそういうことが確認したかったのだろう。なぜ、こんな風に考える<ハビトゥス>を身につけてしまったのだろう。ここまで来ても、こういう困ったことを考えてしまうのだから、我ながら、私とはなかなか手に負えない<存在>である。

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