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2015年7月 3日 (金)

山内史朗「天使の記号学」(23)

3.<存在>の中立性

<存在>の一義性とは、乖離だけを語る思想なのではない。むしろ、そこには媒介の思想、それどころか内在的超越の思想が込められているのだ。媒介の側面が現われるのは、一見すると理解し難いが、<存在>は中立無記的なものだということに見られる。もちろん、上位の類、例えば「動物」は「無脊椎動物」と「脊椎動物」のいずれにも中立的だという事例を参考にして考える途はあるが、トリヴィアルである。さらに重要なのは、スコトゥスにおける<存在>の一義性とは、<存在>の中立無記性だけを表わすのではないこと、中立無記性の論点を含みながら、それは表層でしかないことだ。

ガンのヘンリクスは、アヴィセンナから<存在>の中立無記性の論点を継承し、そして、スコトゥスも、アヴィセンナとヘンリクスから、<存在>の中立無記性という論点を受け継いだ。アヴィセンナが、「馬性それ自体は馬性に他ならない」(馬性の格率)と述べ、「馬性自体は一でも多でも、精神のうちあるのでも外にあるのでも、可能態でも現実態でもない」と述べたとき、「馬性自体」は一とか多とかいった、矛盾対立する選択肢のどちらにも中立的なものとしてあることを述べていた。ヘンリクスが、この「馬性」にこだわるのは、「馬性自体」や「馬性である限りの馬性」が、個々の具体的な馬ばかりでなく、特定の馬に述語が付与されて成立する命題の原初的・始源的なあり方、つまり中立無記性を表わしているからだ。ここには、一般的なものが限定されて、個別的なものが成立する機序が問題となっていることは明らかである。この過程は、現実化でもあるし、個別化でもあるわけで、形而上学の枢要点になるものだ。ヘンリクスは、その際、<存在>が無限存在と有限存在に限定される場合、二重否定によって生じると考えた。ヘンリクスの議論もなかなか複雑だが、行き着くところは、神と被造物の関係を、類似性によってではなく、模倣の関係として捉えることだ。ヘンリクスによれば、一義性の関係を考えることは、ある共通の形相、実在的な共通部分を考えることになる、という。もちろん、神と被造物の差異を強調しようとして、<存在>を多義的なものと解することは厳に避けられる。ヘンリクスがアヴィセンナに見出したのは、「馬性である限りの馬性」の次元であり、そういう中立無記性の次元を設定することで、(1)神と被造物の絶対的差異を解消しない、(2)<存在>を多義的なものとしない、という相対立する条件を満たすことができると考えた。

ところが、スコトゥスによれば、<存在>の中立無記性は、決して<存在>の一義性の十分条件ではない。重要なのは、中立無記的な<存在>の限定が、積極的・肯定的なものによってなされるということである。スコトゥスは、最も普遍的な場面においても。最も個体的な場面においても、限定は積極的なものによってなされると考えたが、この積極的なものは、事物を構成する要素としての形相のようなものではない。スコトゥスは決して要素主義的実在論を主張するのではない。内部/外部、肯定性/否定性、という二項対立を受け入れ、一方が否定されるが故に、もう一方の項を選択するというのではなく、二項対立を越えて、新たな「積極的な」次元を見出そうとしたのがスコトゥスであり、それがスコトゥスの真骨頂なのである。しかし、ヘンリクスにおいて、中立無記性は「いずれでもないが、いずれともなりうる」ということを述べていた。言い換えれば、現実性においては否定されるが、可能性において肯定されるということだ。スコトゥスが主張しようとしたのは、そのような可能なものが現実化する過程において、事物に内在する積極的なものが現実化を為すということだ。

<存在>の一義性が、中立無記性ということを越えて、何を述べていたかを垣間見る枠組みを考えてみよう。(1)限定されるもの=被限定性、(2)限定するもの=限定項、(3)限定されてある=限定態という三項図式を考える。この例としては、(1)生命、(2)生きること、(3)生物というのがある。<存在>の場合であれば、(1)<存在である限りの存在>、中立的なものとしての<存在>、(2)内在的様態、具体的には超越概念や「このもの性」などが入る、(3)具体的なものとしての<存在>。(1)のレベルの<存在>は、限定されて(3)のレベルの<存在>となるということだが、要点となるのは、(2)の限定項も<存在>であるということだ。<存在><存在>によって<存在>へと限定される、いや<存在><存在>において<存在>に至る、ということになる。たしかに、「白いブランコ」であれば、「白い」が外部から限定しているが、「白い白雲」では冗語であり、無用な修飾である。<存在>の一義性は、(1)(2)(3)のいずれもが<存在>であり、<存在>の限定が冗長なものになることを述べているようにも見えるが、(2)の限定項を「内在的様態」と捉えることで、冗長な構造を免れることができる。スコトゥスは、「内在的様態」をなどとも言い換えているが、要するに内包量的な度合いのことだ。飽和度、つまり色の純度・濃さは、内包量の典型であり、「白」の色が特定の飽和度を有することで、特定の白さとなるとき、概念規定では何ら付加されてはいない。しかし個体化は生じている。白の飽和度は、白という基体とは独立にあるわけでもないが、白そのもののうちには含まれていないものだ。これは内在的様態でも同じことだ。「内在的」とは、構成要素となるということで、内在なのではなく、別個のものでありながら、「潜在的」に含まれている、ということだ。潜在的に含まれているものは、概念規定において、別個であっても、不可分な仕方で結合し、一なるものを形成しているのだ。

すると、<存在>の一義性は、<存在>はすべてのものに潜在的にか、または形相的に含まれ、その意味で一義的なのである。ここでは、一義性の意味は明らかに拡張されているのだ。一義性の意味を拡張してまでスコトゥスが述べようとしていたのは、<存在><存在>によって<存在>となることだ、とのべてもそれほど誤りではないだろう。要するに一義性は、共通の地平を造る発想にも見えるがそうではない。たしかに、神=無限存在、被造物=有限存在という対立において、<存在>が中立無記であることは、<存在>が共通の基体となることを意味する。しかし、神と被造物について、<存在>が一義的であるというは、<存在>を上位の類とすることで共通の地平を作ることではない。全く逆に、共通の地平を否定することだ。共通の地平が可能であると、妄想したとたんに、他者を自分のうちに取り込むことであれ、自分が他者の内に融解することであれ、二つのものを一つのものに吸収させようとする危険が現われる。他者とは離れたものであり、離れているがゆえに、絆が必要となる。被造物から神に至る認識可能性の道を開くことは、一種の尺度を設定することである。もちろん、両者に共通の尺度があるといいたいのではない。決して共通の尺度は存在し得ないながらも、一種の尺度があるといいたいのではない。決して共通の尺度は存在し得ないながらも、一種の尺度があるといわざるを得ないのは、尺度がないまま、見出された無限の距離は、直接的であるが故に、無媒介的に近接せしめられる場合があるからだ。ほんのわずかな隙間にも、人間は無限の奈落を見つけることができる。無媒介に設定された無限の距離は、いとも安直に媒介が設定される。神と被造物の間には共通の尺度も比例的関係もないが、無媒介的な無限に陥らないために、一種の尺度、思惟の尺度として、<存在>の一義性が立てられねばならない。

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コメント

申し訳ありませんが次々に理解不能の言葉が続いてさっぱり分かりません。

すいません。分かりにくくて、耳慣れない概念用語に惑わされず、じっくりロジックを追いかけていただくと、よいと思います。

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