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2015年8月

2015年8月31日 (月)

鴨居玲展─踊り候え─(1)

2015年7月東京ステーションギャラリー

Kamoipos毎年、この時期は6月末の仕事上の大規模なイベントが終わり、一息つくころなのだ。無理というわけではないが、外出の用事があれば率先して引き受けて、オフィスの外の空気を吸って、ちょっとした解放感を味わうことにしている。そのついでに、たまたま東京駅の改札を出たところで、ちょうど、この展覧会を開催していたので、この時期なら立ち寄ることができる、ということで寄ってみた。平日の夕方だったにもかかわらず、比較的入場者が多く、しかも年齢の高い人が多いようでした。ある程度の知名度のある人であるのは何となく分かりました。

さて、鴨居玲という人のことはよく知らず、この展覧会で初めて見たという始末なので、その紹介も兼ねて、主催者のあいさつを引用します。“1985年に鴨居玲が57歳でその早すぎる生涯を閉じてから30年目の年となりました。画家の内面性の表現であった自画像は、彼の美男でエキゾチックな風貌とはうらはらに、醜態をさらし自虐に満ち、時に死神と格闘する姿でもありました。死を意識しているような苦しい表情で、画家は何を訴えようとしていたのでしょうか。神とは何かを問い続け、描いた教会は不安定に傾き、やがて神の救いは無いかのように宙に浮遊しました。彼の孤独は彼の生きる姿そのものでありました。生の儚さと向き合いながら人間の生きる苦しさ、弱さ、醜さといった部分を包み隠さず描ききり、生きた痕跡を遺したのでした。描き終えた作品たちは言葉を発することなく静かに時を過ごしてきました。本展は没後30年にあたり、初期の作品から絶筆となる自画像まで各時代の代表作を中心に、鴨居展初出品の作品を含めた油彩、水彩、素描、遺品などの90余点から、本質的な自己投影の制作者であった鴨居玲の芸術世界をご覧いただきます。”

まあ、こういうところで、展覧会ポスターなどから何となく、画家のイメージが湧いてくるのではないかと思います。そして、展覧会場に比較的年を召した人影が目立ったのも、何となく理解できるような気がします。最初に断っておきますが、私が、いつも展覧会の感想としてここで書き綴っているのは、画家に対して何の利害関係もなく、自腹を切って入場料をはらって単に時間と空間を消費したという立場で、感じたことをまとめているだけです。また、この書き綴ったものを公開する時期を展覧会が終わった後にするようにして、そういう影響とは無関係のところで、感想をここに残しているというだけのことです。だから、今までもそうですが、画家や作品に対して見当違いのコメントや、不当と思われる感想も結構ありますが、それがたとえ肯定的出ない評価に感じられることであっても中傷とかそういう意図はなく(そういうものであれば、書きませんし、書いても公開しません)、あくまでも個人的な感想であるということを了解していただきたいと思います。

私が、この鴨居玲という画家の作品を、没後30年の回顧展ということで代表作が余さず並んでいたということでしたが、見た全体的な印象を一言で言うと、“ステレロタイプ” ということです。それはよい意味でも、悪い意味でもあります。主催者のあいさつの中で“生の儚さと向き合いながら人間の生きる苦しさ、弱さ、醜さといった部分を包み隠さず描ききり、生きた痕跡を遺した”と書かれているのは、作品を見る人に、いかにもそのような印象を残すようなパターンというか雰囲気が、鴨居の作品に共通して濃厚に現われていたということです。私には、そう見えました。それは、画家である鴨居が自覚していたというよりも、鴨居自身がそのパターンの中に囚われていって、その中でものを観て描くというような、パターンを充実させていって濃密になっていった反面で、袋小路にはまっていくようにパターンから抜け出せなくなっていったような印象を受けました。そこには、画家の持つ一種のナイーブさというのか作品とか、自らの認識に対しての距離の置き方が、自覚的でないというのかダイレクトである、ある意味、自分を客観視しないという感じが見えます。それは、作風は全然異なりますが、日本で人気の高い画家である、ファン・ゴッホに通じる雰囲気があるように思えます。そのあたりが、年齢の高い美術ファンの姿が会場に多かった理由ではないかと思うのです。

展示は次のような章立てでした。

Ⅰ.初期~安井賞受賞まで

Ⅱ.スペイン・パリ時代

Ⅲ.神戸時代─一期の夢の終焉

Ⅳ.デッサン

それでは、これから上記の章立てに沿って具体的に作品を見ていきたいと思います。

2015年8月30日 (日)

説得、分かってもらう・・

私もそうだけれど、目の前の見るべきものを見ないで、ないものを見ようとするところがある。例えば、映画なんかがそうで、そういうことに警鐘を鳴らすように、見る者を絶えず混乱させるような画面を制作しつづけた映画作家に小津安二郎という人がいるのだけれど。例えば、映画の画面上では恋人同士は絶対に向き合わないのに、映画館で見る者は向かい合う二人見てしまう。だから、小津の恋人や夫婦は必ず、向き合うことなく、同じ方向を向いて横に並ぶ、まるで同志のように。

そのときに、説得ということを考えてみる。辞書の意味では、相手にこちらの主張を伝え、理解し、納得させるということになろう。しかし、上記のように人というのは、あるものを見ないで、ないものを見てしまうものだとすると、こちらの主張を正しく伝わるということは、期待できない。通訳不可能性というのはクワインの主張だけれど、一つの思考実験として、全く異なる言語の二人が並んで座っている前に突然、一匹の動物が現われた。一人は「うさぎ」と叫び、もう一人は「gavagai」と叫んだ。このとき、二人のそれぞれのことばで「うさぎ」と「gavagai」は同じ意味になるだろうと想像する。それが異言語理解→翻訳のはじまりというわけ。しかし、そうは単純にいくのか。そのときの二人の言葉が動物の種を指すかどうかわからない。もし、片方が狩猟民族だったら「gavagai」は獲物という意味内容かもしれない。あるいは、神話的な不吉な動物で忌の意味だったかもしれない。だから、そのときの異言語理解→翻訳は誤解でないことを保障するものは何もない。クワインは、その時に異言語でコミュニケーションするのは、互いにその意志があること、互いを信じようとすることが一番重要だという。

そうであれば、説得というのは、正しい情報を伝え、理解してもらう以前に、納得しても気分になってもらう、相手と信じ合う関係になることの方が重要な要素ということになる。そんなこと、いちいち説明されなければ、分からないのか、とバカにされそうな気もするが。

2015年8月29日 (土)

過去と未来はおんなじ?

日本語では時間は一直線に過去から未来に流れるということはないのでは、と思っていた。そう考えないと矛盾が多いのだ。例えば、先日というのは過去を指す。しかし、先行きというと将来を指す。「先」というのは、過去にも将来にも、なる。また、過去を振り返るという言い方をするけれど、振り返るのを空間に置き換えると後ろということになるけれど、その後という字を使うと、後日というと将来を指す。「後」も「先」とおなじように過去にも、将来にもなる。英語なんかでは、そういうことはないと思う。Beforeafterを考えてみればよい。それで、どう考えればよいのか、「先」も「後」も空間を指す語でもある。つまり、私が向く方向が先(前)で、その逆が後だ。だから、私が居る地点以外のところ、私はどの方向にも向くことができる。つまり、前後というのは相対的なのだ。それが時間に当てはまるのではないか、と。私が居る現在、以外は、過去でも未来でも、直線ではなく円環的な時間の捉え方であれば、未来と過去は入れ替わることができる。

そうではなくて、人の未来や過去の姿勢の違いが反映している、ということを聞いた。つまり、未来は見えない。だから手探りにならざるをえない。そこに危険があるかもしれない、その際には素早く逃げなければならない。どこに逃げるかというと良く知ったところ、すでに見たところである過去だ。だから、未来にたいしては後ろ向きで対するという姿勢があるのだという。そういう人にとって、未来は「後」であり、過去は「前」ということになる。つまり、その姿勢によって、言葉の意味あいが、受け取られ方が異なってくることになる。

そういえば、「めっちゃ」という言葉の使われ方で行き違いを経験したことがあった。めっちゃというのは目茶苦茶のことだろう、目茶苦茶というのは酷いとかどうしようもないという意味だから、強い否定的な意味合いと思っていた。「めっちゃ旨い」というのは旨いの否定で、不味いという意味と思っていて、会話をしていたらちぐはぐになってしまった。あとでわかったけれど、50年代の黒人のジャズ・ミュージシャンがhardとかbadというような否定的な形容詞を、当時の支配的な白人に反抗するとか、白人にない音楽性というニュアンスで肯定的な意味にしていたのと同じような意味合いで使われているらしいことがわかった。

2015年8月28日 (金)

ジャズを聴く(35)~アート・ファーマー「The Summer Knows」

Jazfarmar_summerThe Summer Knoows    1976年録音

The Summer Knows

Manhã Do Carnaval

Alfie

When I Fall In Love

Ditty

I Should Care

 

Sam Jones(b)

Billy Higgins(ds)

Art Farmer(tp)

Cedar Walton(p)

 

アート・ファーマーが全編でフリューゲル・ホーンを持って、自身の持つリリカルな特徴を前面に打ち出した作品。人気スタンダードのバラードやスロー・ナンバーを並べ、ワン・ホーンでメロディを歌う。とはいっても、ジャケットの少女趣味のセンチメンタルなムードに流れることはない。そこにファーマーのリリシズムの特徴がある。ファーマーは自己のエモーションをストレートに表出することはせずに、それをいかにコントロールして印象的な響きに結びつけるかに腐心している。自己抑制の姿勢はクールなプレイとなって結実する。だからこそ、これ見よがしにビブラートをかけてみたり、音色に変化をつけてみたりといった余計な装飾をつけず、シンプルな美しさで勝負している。表現を抑えることで、余韻がうまれ、言わば行間を想像させるのである。言うなれば抑制の美。そこに、ファーマーの真摯さがあり、聴く者に品格すら感じさせるものとなっている。

1曲目の「The Summer Knows」は、ちょっとベタな感傷的なメロディを、フリューゲル・ホーンの柔らかなトーンを生かして、クールにメロディを吹いている。ここでの、ファーマーは、フレーズのちょっとした間の取り方が絶妙で、わずかな間が聴く人をググッと引き寄せ、しみじみとした余韻を生み出している。このメロディを何度も繰り返すが、時に即興的なフレーズがメロディから流れように続けて挿入される。この即興が短いながら無機的といえるほどクールで、テーマのもつ感傷的なものに対して中和作用の効果をだして、感傷に没入する歯止めになっている。それが、聴く人に対して、演奏との間にほどよい距離感を与えていて、その距離感があってはじめて余韻を感じることができる。さして、バックのリズム・セクションが渋く堅実なリズムが、メリハリを与え演奏をキリッとしたものにしている。これが、2曲目の「Manhã Do Carnaval」では、テンポが上がりボサノバ調のハードめの演奏に違和感なく続く。ファーマーは、今度はエッジの立った、切り込みの鋭い音で、控え目ながらもホットなブロウを繰り広げている。リズムが煽ることはないが、決してムード・ミュージックではなく、ジャズを演奏している、と襟を正すものとなっている。ここから、間断することなくピアノの印象的なイントロから3曲目の「Alfie」にぐっとテンポを落として、ファーマーのフリューゲルホーンが歌い出すところが、このアルバムの中でも白眉と言えるのではないか。ファーマーは過去に、スティーブ・キューンとかビル・エバンスのような抒情的な持ち味のピアニスト組んで良い演奏を残しているが、この曲でのピアノは彼らに似た抒情的なテイストを持っている。ファーマーがうまく引き出したのか。また、ベースのアコースティックの弾むような弾力性の高い伸びる音が時折印象的で、ファーマーが上手くバックを生かして、全体として、ファーマーのフリューゲルホーンがバックと一体となって、厚みのある音楽を作り出している。

2015年8月27日 (木)

ジャズを聴く(34)~アート・ファーマー「Art」

Jazfarmar_art_2Art    1958年3月録音

So Beats My Heart For You

Goodbye, Old Girl

Who Cares?

Out Of The Past

Younger Than Spring

The Best Thing For You Is Me

I'm A Fool To Want You

That Old Devil Moon

 

Art Farmer (tp, fh)

Tommy Flanagan (p)

Tommy Williams (b)

Albert Heath (ds)

 

アート・ファーマーは1950年代にはサイド・メンとして様々なセッションに参加して、言わば売れっ子だった。しかし、50年代の終わりごろから自身のリーダー・アルバムをレコーディングし始める。その際に、彼のトランペットによるワン・ホーンの録音が、最も彼の特徴をよく表している。アルバムを通してトランペット一本で聴く人を飽きさせないで惹き付けるというのはたいへんなことだ。実際、トランペットのワン・ホーンでアルバムを録音している奏者は少ない。しかも、このアルバムのようにスローやミディアム・テンポの曲が多いと、アップ・テンポの乗りで押し通すこともできず、トランペットの語り口に大きな負荷がかかってくる。このアルバムはさりげなく作られているように見えるけれど、実はたいへんなものなのだ、と私は思う。

アルバム全体はミディアムあるいはスロー・テンポのスタンダード・ナンバーが中心になっている。例えば、2曲目の「Goodbye, Old Girl」はスロー・バラードで、ファーマーが長いフレージングで訥々とトランペットを吹いていく。5曲目の「Younger Than Spring」では冒頭のピアノのイントロがビル・エヴァンスの有名なマイ・フールッシュ・ハートを想わせる繊細な始まり方をして驚かされるとファーマーのトランペットがユーモラスにバラードのフレーズを吹き始めるといった楽しみもある。1曲目の「So Beats My Heart For You」は弾むような軽快なベースのイントロに乗って、少し気だるさのある軽快なトランペットのテーマから、訥々とした中音域での上下動の少ないアドリブから、同じようなトーンのピアノに引き継ぐと、曲全体を弾ませていたベースのソロと順々にきて、導入としてはアルバムにすんなりと入れるようになって、次の「Goodbye, Old Girl」で、先ほども述べたように、訥々としたトランペットのメロディが余韻をもって、響いてくる。このとき、ファーマーのフレーズとフレーズがわずかにズレて、フレーズとフレーズとが途切れていること間があいていることが、ハッキリと分かる。しかし、トランペットの音が丸く滑らかなため、ブツブツと断絶した印象までは至らず、フレーズの間を認識させることで、その間の認識から余韻の生まれてくる隙間を作っている。メロディーが滑らかに流れないことで、ムード・ミュージックに堕してしまわない歯止めにもなっている。また、つかず離れずのピアノが繊細で、終わり近くのトランペットが高音に飛んでの軽いブローがちょっとしたアクセントになって終わる。だから、ファーマーのバラードは決してムードに浸かって酔い痴れるといつたタイプの演奏ではない。あくまでもジャズの演奏として聴き手に向き合うものなのだ。3曲目の「Who Cares?」でテンポが戻って、アドリブは落ち着いた感じで、これまでの雰囲気を壊さない程度のところで展開させている。全体として、丁寧に演奏している感が強い。4曲目「Out Of The Past」、5曲目「Younger Than Spring」も雰囲気を引き継いで、6曲目の「The Best Thing For You Is Me」でテンポが最も上がり、アルバム全体でも相対的にハードなプレイで、小さいながらも一番の盛り上がりとなる。次の「I'm A Fool To Want You」が一転してスローナンバーでマイナーなテーマをまた、訥々と吹く。この曲などは、もっと切々と訴えるような吹き方をしてもいいのに、そこは抑えていて、このアルバム全体が行き過ぎを抑えて、統一的な雰囲気の中で、トータルに考えてプレイされている。

2015年8月26日 (水)

ジャズを聴く(33)~アート・ファーマー「Modern Art」

その形成期に大部分が見落とされてしまって、アート・ファーマーのコンスタントで創意に富んだ演奏は、彼が成長し続けるにつれてようやくその評価が大きくなっていった。クラーク・テリーと共にブラス奏者の間にフリューゲルホーンを一般化させるのに大きな貢献を果たした。彼の持つ抒情性はバップに根差したスタイルに個性を与えている。ファーマーはトランペットに定着する前には、ピアノ、バイオリン、チューバを学んでいる。1945年からロサンゼルスで演奏活動を始め、セントラル・アベニューで定期的に、特にジョニー・オーティス、ジェイ・マクシャン、ロイ・ポーター、ベニー・カーター、ジェラルド・ウィルソンのバンドとプレイした。時には双子のベーシストのアディソンとも一緒だった。1951~52年にワーデル・グレーとプレイした後に、ライオネル・ハンプトンの楽団と1953年にヨーロッパをツアーし、その後ニュー・ヨークに来ると、1954~56年にジジ・グライス、1956~58年にホレス・シルバーのカルテット、1958~59年にジェリー・マリガンのカルテットでプレイした。1950年代後半には多くのレコーディングに参加している。中にはクインシー・ジョンズやジョージ・ラッセルやブレステイジ・レーベルでのジャム・セッションもあった。1959~62年にはベニー・ゴルソンとジャズテットを結成し、1962~64年にはジム・ホールとグループを作った。1968年にはウィーンに移り、オーストリア放送楽団に加入し、ケニー・クラークとフランシー・ボーランのビックバンド、自身のユニットで現地ツアーを行った。1980年代以降、ファーマーはアメリカを訪れ、現代まで売れっ子でいる。彼は、様々なレーベルに多くのセッションを録音している。

Jazfarmar_modern

Modern Art    1958年3月録音

Mox Nix

Fair Weather

Darn That Dream

Touch of Your Lips

Jubilation

Like Someone in Love

I Love You

Cold Breeze

 

Addison Farmer(b)

Art Farmer(tp)

Benny Golson(ts)

Bill Evans (p)

Dave Bailey(ds)

 

ジャズの名盤案内などでは、アート・ファーマーというと、まず紹介される一般的には彼の代表作。アート・ファーマーが1958年に録音したアルバム。当時の時代はハード・バップが盛んだった時で、ファーマーも、そういう状況の中でハード・バッパーとして売り出していた時期だった。でも、テクニックではクリフォード・ブラウンに及ばず、リリカルなプレイではマイルス・デイビスのようにクールにできない。言ってみれば中途半端だった。しかし、それは悪いことではなく、その中途半端さがファーマーの個性として結実したのがこのアルバムと言える。後のアルバムでは持ち味を最大限に生かしたリリカルな演奏を追求する彼が、この時点では、その道を見出すに至っていなくて模索していた形跡がある。例えば、後には演らないようなホットなプレイが見られる。後にそれなりに洗練されていくが、ここでは元々の不器用さがそのまま出ていて、その訥々としたところが、後年にない味わいを時折垣間見せるものとなっている。その辺りが、ハード・バップの好きなジャズ・ファンには受け容れ易かったのでないか。

ファーマーは、一時期、テナー・サックス奏者でもある編曲家のベニー・ゴルソンとジャズテットというグループを組んで活動したが、このアルバムはそれに先駆けたものとなった。ゴルソンのサックス・プレイは横の流れを重視したもので、人によってはメリハリがないと好き嫌いが分かれる人ではあるが、ファーマーのどちらかという控え目なプレイを邪魔することがなかったため、双頭コンポとして協調的なプレイを続けていたと言われる。また、ビル・エヴァンスが、ちょうどマイルス・デイビスのもとで“Kind of Blue”のレコーディングに参加する直前状態でプレイしている。ここでは、後年のエヴァンスらしいプレイは未だ見られないけれど。1曲目の「Mox Nix」のピアノのイントロがユニークで、スィングしながらコードを崩した装飾的な響きは、後年のエヴァンスにつながるような印象的なプレイで始まる。ここからファーマーのトランペットとゴルソンのテナーがマイナーなテーマをユニゾンで入ってきて、ファーマー、ゴルソンの順にソロをとっていく。ここで活躍しているのはドラムス、シンバルが全体を煽り気味にリズムを引っ張っている。そこでのファーマーのプレイは、後年のメロディを歌わせるというよりは、バップの分析的な細かいフレーズを訥々と吹いている感じが、これが妙に味わい深い。これは、続くゴルソンが逆にメリハリのないほど滑らかに吹くことで、ファーマーのプレイを結果的に補うような効果を上げることで、その特徴が引き立てられたと言える。この曲と2曲目は入りのピアノのユニークさが特徴的だが、あとは典型的なマイナーのバップのナンバーで、それを味わい深くプレイしている。3曲目の「Darn That Dream」がスローなナンバーで、ファーマーのリリカルなプレイが、この辺りから表われてくる。このナンバーにおけるファーマーの淡々とメロディを吹くプレイは、抑え気味でシンプルすぎるところに、行間の想像を促すような余韻を生んでいる。それが、ファーマーの抒情性の特徴だろう。このアルバムでは、後年の吹っ切れたように抒情性を追求していくだけではなく、1曲目のようなハード・バップのジャズのプレイも行っている。それを後年の吹っ切れたような作品から見れば中途半端に姿勢に映る。しかし、どちらにも共通しているのは、絶対に手を抜かない丁寧で誠実なファーマーの姿勢であり、それが味わい深いものに結実していると思う。

2015年8月25日 (火)

ジャズを聴く(32)~アート・ファーマー「Sing Me Softly of The Blues」

Jazfarmerトランペットの音色は声でいえばソプラノにあたる高音域で、音色も派手で輝かしい。ブラス・バンドでは一番目立つパートになっているのが普通で、ジャズのトランペット奏者もフロントにでてソロをとる花形のタイプが多い。しかし、アート・ファーマーというトランペット奏者は、あまり派手な印象がない。彼の特徴といっても、スタイルや奏法といったところで目立つところが少ない。それが、サイド・マンとして様々なレコーディングに起用されている所以だろうか。それだけに、彼のプレイは柔軟で、共演しているプレイヤーと合わせるのが巧みで、自分のソロも、周囲から浮き上がるようなことはせずに、アンサンブルのなかで生きすのが上手いタイプだ。そのため、共演者とのインタープレイというプレイの上で会話のようなやり取りをして、いくこともできる。彼の特徴は、そういう自己抑制のダンディズムにある。そこにそこはかとなく「趣味の良さ」のようなものがある。彼のソロは吹きすぎてしまうことや、下品に味付けすることはまずない。僅かにかすれた音色とハーモニーの余白を考えながら、手さぐりしながら進む感じの心もち中心をずらしたメロディで、誇張や過度な熱気も差し挟まない。そのメロディは中音域を安定して動いているため、ソリストが他にいる時には決してその人のソロを邪魔しない。

これは、ファーマーがプレイした時代や環境を考えてみると、実は大変なことなのではないかと思う。ファーマーが自分のスタイルを形成していく初期にクリフォード・ブラウンと一緒にプレイした時期があるという。ブラウンというトランペット奏者は、それこそ当時の人々にとってはひときわ輝く太陽のようなプレイヤーだったようで、伸びやかで輝くような音色で即興的に独創的なフレーズをビシバシキメるプレイに、多くの奏者は大きな影響を受けたという。実際に、後世のトランペットはブラウンのスタイルがスタンダードになっていく。ファーマーはブラウンを間近に見ながら、自身と異質なブラウンの影響に呑み込まれることなく、独自のメロディを歌うスタイルを熟成させていった、といえる。

聴く人によっては、ファーマーのさりげない表現に込められた滋味をじっくり味わうのを楽しみしている。

Jazfarmar_sing

Sing Me Softly of The Blues    1965年3月録音

 

Sing Me Softly of the Blues

Ad Infinitum

Petite Belle

Tears

I Waited for You

One for Majid

 

Art Farmer(tp)

Pete La Roca(ds)

Steve Kuhn(p)

Steve Swallow(b)

 

ファーマーの抒情的な面がよく表われた作品で、ファーマーのワン・ホーンでのリーダーであるのに、ピアノやベースといった人々が前に出て、アンサンブルとしての面白さが、抒情的な中でダイナミックな躍動感と緊張感に溢れた録音となっている。ここでは、ファーマーは、中低域の音が柔らかいフリューゲルホーンを演奏している。それが2曲目の「Ad Infinitum」では星降るようなクリスタルなピアノの分散和音から一般的なジャズのイメージとは異質な響きが聞こえくるなかで、ファーマーがフリューゲルホーンでテーマをクリアに吹いて入って来ると、驚いたことにピアノが寄り添うように一緒にテーマを弾いている。これも、ちょっとないことだ、この後、分散和音の洪水のようなピアノのソロが入り、ファーマーのアドリブが始まるが、ピアノの音がうるさいくらいよく聞こえてくる。3曲目の「Petite Belle」では、はファーマーのソロで始まり、ソフトな音色が特徴のフリューゲルホーンでほとんどストレートに歌い上げる。それだけでアート・ファーマーでしか表現できない、穏やかで味わい深い世界が広がってくる。続くアドリブでも、テーマの雰囲気を壊さずに、控え目で品の良い感じのフレーズが続く。このような言葉で書くと茫洋とした取り留めのない、メロディ垂れ流しにように思わせるかもしれないが、それに鮮明な輪郭を与えているのが、ピアノのクリスタルなサウンドとドラムスのユニークなプレイだ。4曲目の「Tears」では、そのピアノの洪水のような分散和音から、物憂げなファーマーのフリューゲルホーンが入って来ると、にわかに耽美的かつ退廃的な雰囲気が漂う。その後のアドリブのピアノとドラムスのハードな展開に、ファーマーもつられるかのようにプレイする。しかし、全体としてホットな熱さというよりは、ファーマーの自己抑制的な姿勢と、全体のクリスタルな響きからか、熱気は内に秘めた理知的な感じがしてくる。決してクールではなく、妖しく燃えるというのが適当かも知れない。それは次の「Petite Belle」でのハードなプレイでも分かる。ファーマーのリーダー・アルバムというよりは、ピアノのスティーブ・キューンのトリオにファーマーが参加したような仕上がりになっている。これは、ファーマーが彼らをうまく引き立てたのだろうと思われるが、そういうことができるところに、ファーマーの特徴がよく表われていると思う。かれらを引き立てることによって、ファーマーの時には妖美ともいえるサウンドが表われたと思う。

2015年8月23日 (日)

平等とみんないっしょ(2)

ある人類学者によると、動物に対して人間の“食”ということの特異性を、“食”の革命として次の4点を指摘する。第一に、例えば、チンパンジーは食物を採った場所でしか食べないが、人間は採った場所から別の安全な場所に運び、そこで仲間と一緒に食べることを始めた。すると、いろいろな木の実とか葉や茎など食物を持ち寄り“食”という場をアレンジすることができる。そこから人間の社会性が始まった。“食”の社会化によって相手との関係をつくることができた、この食物の「運搬」が第1の革命。第2の革命は「肉食」。肉食動物が食べ残した肉を食べ、骨を石で割って内部の骨髄を食べた。これに対して、肉食動物は石という道具を使えないので、骨を割ることはできない。骨髄は非常に栄養価が高く、これにより、人間はエネルギーを多く消費する脳を大きくすることができました。このことが、脳のキャパシティが増大し、集団生活の社会的複雑さに対応できるようになり、人間の集団は次第に大きくなった。第3の革命は火を使った「調理」。火によってこれまで食べられなかったものも容易に食べられるようになった。さらに消化率の向上は胃腸を小さくできる。これで、人間は消化に費やすエネルギーを節約でき、そのエネルギーで脳をさらに大きくするチャンスに恵まれた。採食にかける時間も短くなり、余った時間で社会的な行動ができるようになる。集団は大きくなって、脳を使う必要性が高まる。第4の革命は「食料の生産」。つまり、人間が集団内で食物を分け合うことから、社会的な行動が始まったという。(確かに、猿の群れを見ていても、群れで集団で食物を得るが、群れの中で個々の猿は個々で食べて、分け合うことをしない。群れ内で食物の奪い合いすらする)以前、触れたが部落の人々の間で、狩りの獲物をみんなで分け合うのは、人間が動物から分かつものであるのに、資本主義の始まりは、その分け合いを崩壊させてしまう。ある意味、動物への逆戻りという視点もあると思う。

2015年8月22日 (土)

速水御舟とその周辺─大正日本画の俊英たち─(4)~良きライバル─速水御舟と小茂田青樹

Hayami2015moonhayaHayami2015moonkomodaこの展覧会を見ていると、速水という画家のアイデンティティは集団的と言うのでしょうか、人間は多からず少なからずあるのかもしれませんが、とりわけ、この人に特徴的と思われるのは、集団とかグループの特定の人に寄りかかるように、その人物との距離感から画家としての自我を形成していったという依存的な性格であったと思われるところです。解説本などでは、速水に対する形容として“孤高”という言葉が使われることがありますが、この展示を見ていると、そういう“孤高”という言葉のイメージとは正反対の面影が見えてきます。前章では今村というグループのリーダー的な人物に寄りかかるような自我の形成がみられ(ただし、私には、この今村という画家のどこが良いのか、さっぱり理解できませんでした。これは、今村の作品をそれほど見ていないのか、後知恵で作品を眺めているからで、同時代の人が見ていたのは、別の姿だったのかもしれません)、その後、今村が亡くなってしまうと、今度は、同じグループで同年代の小茂田青樹との関係から、それまでは違う方向に画家としての自己を発展させていった、というのが見えてきます。その後、小茂田も夭折してしまって、取り残された速水は、こんどこそ自立するということだったのが、数年を経たずに亡くなってしまった。この展覧会もそうですし、以前に見た展覧会においても、速水の作品の変遷をみていると、様々なことを試行しながら、あっちこっちに寄り道するようにかわっていくのが、どこか取ってつけたような、表層の小手先をいじっているような、浮ついた印象を拭えないでいるのは、そういう速水が、自立して自らの根元から核心を吐出すような画家としての自己が形成され得なかったというように、私には見えてくるのです。こんなことは、一般的な速水像から見れば、言いがかり、中傷以外の何ものでもないかも知れませんが、だからこそ、そういう表層に終始している点に、実は速水という画家の魅力があるのではないか、そう思わされたこともまた事実です。何か、屈折して、わかりにくい言い方をしています。

速水の『仲秋名月』(左側)という作品です。会場では、この作品と並んで小茂田の『月涼』(右側)という作品が展示されていました。両者を見比べると、二人の画家の違いは、私には全く区別できなくて、同じ画家の作品と言われても、疑うことはできないでしょう。これらを見ると、二人の同質性ということが、よく分かります。むしろ、このように同じようだということは、二人とも分かっていて、それゆえに互いに危機感を持っていたのではないでしょうか。他の画家と同じようだというとは、個性がないと同じことです。他の画家とは違うから、その画家の作品を買ってもらえるのですから。そこで、速水にしろ、小茂田にしろ、急き立てられようにして互いに違いを追求しようとして、個性化の方向性を探っていったのではないか、私はそんなストーリーを想像してしまいました。

Hayami2015catkohayamiHayami2015catkomodaそこで、また、二人の似た傾向の作品を見比べてみましょう。速水の『山茶花に猫』(左側)という作品と小茂田の『朧日』(右側)という、猫を題材にした作品です。この二つの作品についても、私には、はっきりと区別することができません。作者名を伏せられて、どちらが速水の作品で小茂田の作品であるかと、問われれば答えることはできないでしょう。私の知識が貧弱で、鑑識眼がないことを棚上げして言うわけではないのですが、いろいろと尤もらしい解説はあるものの、速水とか小茂田という画家の作品の個性とか、いわば作品のブランドとしての差別化というのは、その程度のものかもしれません。後は、作者名というラベリングと、それにサイドストーリーを批評家とか評論家とか学者といった業界人が箔付けするように、あたかも付加価値があるようにして、商品価格を引き上げている。ちょっと口が過ぎますでしょうか。私自身も、そのような口車に乗って、あたかも歴史上の大家の名作であるかのように考えて、わざわざ美術館に足を運び、入館料を支払って、頼まれもしないのに、こんな文章をネットに出しているのですから、片棒を担いでいると同じなので、あまり、大それたことを言うと、天に向かって唾を吐くようにことになってしまうことになります。さて、ここで、速水の『山茶花に猫』という作品ですが、猫の位置が変な感じがしませんか。顔を仰向けにして視線を上に向けているようですが、その先には山茶花の花があるわけでもなく、意味不明なのです。また、全体のバランスを考えてみても、画面左側は山茶花が占めていて、それと対峙させるように猫を右側に置くのでもなく、画面の中心は猫であるとして中央に置くのでもなく、こころもち左寄りに山茶花に寄りかかるような位置関係になっています。これでは、画面が左に傾いているような印象で、右側に空間を取りたかったのか、そうだとしても余白の分量が中途半端です。画面下方を見てください。足元です。山茶花の根元が前面で猫はそこから少し上、つまり足元を見ると後ろの方に位置することになります。それでいて、全体として猫が山茶花の奥にいるような描き方になっていないし、そういう位置関係が考えられていないような、ちぐはぐさがあって、画面全体が、なんとも居心地の悪いものになっています。これは、速水という画家に画面を全体として構成させるパースペクティブの能力を欠いているためなのでしょうか。私には、そうではないとは、言えないとは思えるところもあります。それよりも、私には、速水の中には、そうせざるを得ないものが、やむにやまれぬところがあったのではないか。あえて言えば、速水と小茂田を分かつのは、そのやむにやまれぬものの有無ではないか、と私には思えるのです。

そういう、速水のやむにやまれぬものが、ある面ではっきりと、しかも、画面にポジティブな効果をもたらしたのが、有名な『洛北修学院村』という作品ではないかと思います。この作品の、画面全体を見ていると、ちょうど上部の4分の1ほどのはるかな山の風景は見上げるように描かれているのに、その下の村の風景は見下ろすように描かれています。では、速水は、このような風景をどこから見て描いたのでしょうか。そういう統一した視点が、この作品にはないのです。もちろん、この作品のそういう特徴は、多くの人の気付いているところで、それがこの作品の特徴とされていて、村を見下ろすようにして描いたのは、村のあちこちのたたずまいを同時にくまなく描こうとしたから、とか細密描写がリアリティを与えているとか解説が付されていることが多いのではないかと思います。私には、そういうことは、速水があとから効果として附加したことで、速水は、このようにしか描けなかったのではないかと思えるのです。というのも、もし、解説されているような効果を狙って意図的に、このように描いたとしたら、速水のほかの作品では、きちんとした視点がはっきりしていて、それでかっちりとした画面構成が為されているはずです。ところが、さきほど見た『山茶花と猫』にしても、前章の展示で見た『暮雪』や『短夜』にしても、視点が統一されていないのです。前章で芥川龍之介の「羅生門」の一節を引用しましたが、その文章は下人が羅生門の梯子を上がって見えてくる風景について、下人が見ているところに、話者の主観が混入し、それだけでなく別に芥川龍之介の主観が入り込んできて、風景をみている主体が分裂して、視界の意味づけが二重三重に過剰に溢れてくる、どこか病的なものとなっています。多分、そういうところが芥川の作品が思春期の若者の不安定な感性に適って、未だに支持を得ている理由なのではないかと思います。そういう芥川の性向というのは、時代環境の影響もあると思われ、ほぼ同年代で、同じ東京銀座界隈という環境で育った速水にも共有されていたと考えられなくもありません。速水の画風から想像するに、繊細で感受性が強いのも芥川と共通していると思われます。

Hayami2015rakuhoku前章の芥川龍之介の「羅生門」の文章と、そのネタ本である「今昔物語集」との比較で一目瞭然ですが、芥川の「羅生門」の文章は細部を微に入り細を穿つように、重箱の隅をつつくかのように執拗に描写し、その各々に心情を仮託したりして過剰に意味づけていきます。同じように、速水の『洛北修学院村』の農村風景の描写は精緻を極め、田んぼの稲の一本一本、畦の葉っぱの一枚一枚まで執拗なほど丹念に描き込まれています。芥川の「羅生門」の文章のような分裂した心情を押し込めたような過剰な意味づけがされているようには見えませんが、田んぼの稲の一本の茎にまで丁寧に細い緑色の線を丁寧に描いている様は、多少の病的な印象も与えるものです。このような肥大した細部に充たされた画面全体は、分裂した歪みがあるのです。おそらく、芥川は過剰な細部を内に抱え込んで、それをまとまった作品として統合することができず、古典にすがるようにものがたりの骨格を借りて、いわばヤドカリのようなやり方で小説を書いたように、速水は同じグループにいた今村の作品の骨格を借りて、自身の細部を、そこに置いて行くというやり方で作品を作ろうとしたのではないかと思います。それは、速水のこの作品を見ていると、画面全体のプロポーションだけでなく、それこそ細部の各部分のパーツに眼をやると、ひとつひとつの形状がしっかりしていないで歪んでいるのです。たとえば、作品の一部を取り出してみた3人の農夫の描写を見てみると、サラって形状をなぞっているようで、存在感も動きも感じられません。3人の位置関係での人物の大きさも背景との関係を考えるとバランスが取れているようには思えません。また、田んぼの周辺の草原や森の草木は田んぼの稲との大きさが不釣合いですし、木の形は外形をなぞったようなパターンを繰り返しているようで、もうちょっと描き込んでもいいのでは、と思わせるところがあります。これだけ執拗に細部に筆を入れているにもかかわらず、形状への配慮は無頓着のようにも見えてくるのです。

Hayami2015rakuhoku2_2だから、この『洛北修学院村』という作品を、パッと一見した印象は風景画とか作品タイトルのような農村というのではなくて、青い靄がかかった幻想絵画というのか象徴的な心象風景のように見えるのです。全然関係はないのでしょうが、マルク・シャガールが異郷のパリで故郷の農村を思いつつ描いた幻想画に似ているような気がしてしまいます。それは、シャガールと似たようなブルーの色調でグリーンを効果的に使っている点も似ているせいかもしれません。これは、ひとつの妄想なので、そういうことで聞いていただきたいのですが、前回の展示でみたように今村のグループにいた速水は、今村をはじめとした他の画家たちとの関係の中から、自己の居場所をつくるように彼らと差別化するプロセスの中で自身の個性を作ろうとしていったと思います。つまり、グループの中で自分の個性を作ろうとしたら、他の画家にないもの、他の画家では弱くて自分でもこでは勝てるだろうと思われるところ、それがグループの中の彼の個性と言うことになっていったのではないかと思います。その一つは色遣い、とくに明暗や同系統の色のグラデーションを効果的に配することで独特の雰囲気をつくりだすことでした。それはまた、今村が始めた点描的に色をまとまって画面に置いて行く方法で、陰影とか移ろう感じをうまくかもし出すことができたのでした。そのような、個性を前面に出して、一種開き直ったような作品が、この『洛北修学院村』ではないかと思いまHayami2015rakuhoku3す。だから、上で述べてきた、速水の弱点というべきものが、実は個性であるグラデーションを活かした色遣いを際立たせる結果となっている、というより色彩のグラデーションの注目してもらうために、ほかの要素は目立たなくされている。例えば、ブルーの濃淡とグリーンとの対照を見てもらいために、人物とか森の木々の形体をはっきりさせると見る者の視線がそっちに行ってしまうので、曖昧になって、しかも形状がしっかりしていないので、見る者の注目を集めない結果になっている、というわけです。しかし、よく見ると細部の線は細かく引かれているので、全体として画面が濃密な感じをかもし出して、青の色彩が分厚く浮き上がってみえるような錯覚を見る者に起こさせる。たぶん、作者である速見の当初の意図を超えて成功してしまった作品になったのではないと思います。

Hayami2015gyoson風景画であれば、小茂田青樹の『漁村早春』という作品を見てみましょう。この作品も、速水の『洛北修学院村』に負けず劣らず、細かい描写が追求されています。例えば、茅葺屋根の茅の一本一本が細かく描かれて、そのケバ立った様子が目立つほどです。しかし、一見した印象は、速水の『洛北修学院村』が全体に薄ぼんやりして見えるのに対して、小茂田の『漁村早春』ははっきりしすぎるほど明確に見えます。一点の曇りもないほど、タイトルの早春のもやっとした空気はあまり感じられず、言いすぎかもしれませんが地中海の透き折るような明確な輪郭の風景を想わせるところがあります。それは、ひとつには画面の切り分けがスッパリと気持ちいいほど為されていることと、構成の主だったところに直線が効果的に配されていて、それが明確な印象を強調しているためだと思います。速水の作品に見られる点描的な絵の具の置き方は、グループのリーダーだった今村がパリの印象派に倣ったということらしいのですが、印象派の作品はそういう絵の具の置き方をしていった挙句が画面全体がぼんやりとした作品、たとえばモネが典型的ですが、全体が靄のような画面に至ってしまいます。速水の『洛北修学院村』などは同じようなものです。それは、絵の具をダイレクトに画面においたり滴らせたりすれば、画面上で滲んだりして塗った境界が曖昧になってしまいます。これに対して、この小茂田の『漁村早春』では違う色を塗ったところとの境界線がはっきりしています。例えば、画面右上から左下に向かって民家の屋根から土手の輪郭が対角線のように一直線になって青い空と茅葺屋根と草叢の土手の茶系統の黄色と明確な境界わけが為されています。その対角線に水平線がくっきりと交叉して空と海を区分しています。さらに、右側の屋根の斜線との間で海の部分が下向きの青い三角形を形作っていますが、これは手前の部落の民家の屋根の茶系統の三角形と対照的で、この画面が三角形の配置で構成されていることがまた、構築的な印象をさらに強くしています。このような、まるで設計図のような構成的な画面で細部を詳細に描き込む筆の動きは、あまりに明確なために、却ってうそ臭ささえ感じさせ、不思議と現実感を感じさせません。それは、ある意味で非現実の幻想的要素を速水とは正反対の方向で見る者に抱かせる作品となっています。速水と小茂田が、細密な画面を追求したと解説されていますが、その作品から受ける印象は、このように異質です。

Hayami2015season2小茂田の作品をもう少し見て行きましょう。『四季草花図』という屏風です。『冬図』の方を見てみましょう。左半分を占める赤い実をつけ、雪を乗せた木が前景に中景に雪の中の川の流れが左上から右下に流れて画面を分けるようにして、右上の部分は後景の上から雪の積もった葉が垂れ下がるような高木の枝と、三景を中計である川の対角線を境界として、そして、一面の雪の白で、その境界を曖昧にすることで、平面的で装飾的な描き方でありながら、重層的な奥行きを備えた画面を作り出しています。これらの作品を見ると、小茂田という人は、画面に描く時の全体の設計とか構成に先に考えるタイプで、特に幾何学的な秩序を志向するところがあって、そこに細部を当てはめて、そのなかで全体の構成の中での意味を考慮しながら細かな描写とか、色合いとか陰影を加えていった人のように思えます。それ故にでしょうか、速水の作品のような細部が暴走してしまって、画面全体のバランスが崩れてしまうような不安定さを感じさせることがありません。『夏図』の方を見ると、金色の靄の中に色とりどりの朝顔のHayami2015season花が浮かび上がるというものでしょうが、左手前に垂れ下がる木の枝と葉が輪郭くっきりと描かれて、その奥に靄にけぶるように薄ぼんやり描かれている朝顔を対照をとって、手前の木の葉がぼんやりとした曖昧な、いってみれば幻想的な世界に対して、リアルな現実の世界を対峙させるように構成されているわけです。つまり、見る者が靄の中からぼんやり浮かび上がってくる朝顔の幻想的な世界に陶酔することを、手前の葉が明確な現実を示すことで、引き止めるのです。その結果、幻想的な朝顔の美しさを対象として愛でることを可能としている、そういう構成になっていると思います。ここに見られるのは、現実にしっかりと根を下ろした主体を持った目が、対象を客観性をもって観るという視線です。あとは、その視線に写った対象をいかに描くかということです。だから、小茂田にとって、日本画というのは一つの手段ということになろうとしていたのではなかったのか、と思います。

Hayami2015olvet_3このようにして、他の画家と比較して見てくると、速水という画家の特徴が、私にも、ようやく分かりかけてきたような気がしました。例えば、1930年に渡欧したときのスケッチが展示されていましたが、『オルヴェートにて』という作品は、それらしく仕上げられているようですが、構成とか、つくりをみれば、幼児のお絵かき“おうちの前でパパと遊んでいたら、窓からママが見ていました”とでも言ってしまいそうな、絵画的な思考とか、認識とかの構造的な面が至って幼稚に見えないものです。速水に対して大変失礼な物言いをしていることは百も承知ですが、空間ということが把握されていないし、思いついたものをとりあえず描いた、というようにしか見えません。『彼南のサンバン』という作品などは、古代エジプトの壁画のように見えてきます。画家として、評価を得た後で、渡欧したときのスケッチをもとに描かれた作品に、象徴的に見えてくるのは、こういう姿です。つまり、絵画的な視点とか、認識とかが確立されていなくて、主体的に、自分が何をどのように描こうかというのが、キッチリしていなくて、今村とか小茂田とか周囲の画家との距離感がとれず、そのプロセスで、彼らではない作品を描くことで、ネガティブに自分を差別化していった。けれど、もともとの主体の空虚さを克服しえたわけではなく、その一方で描く技量だけは上達してしまった。その結果として、ひとつの表われが、細部の肥大化、あるいは意匠の独走です。『洛北修学院村』では、それが作品の趣向として許容範囲の中に、結果的に収まるものであれば、個性的な作品として見ることのできるものとなった。しかし、それでも、どこか不安定な崩壊感が底にある、病的なものを秘めている、と私には思えました。端的に言えば、出たとこ勝負です。だから、弟子をとって自らの日本画を教え、継承するということはできなかった。そのため、第4章の弟子という画家の作品展示は、私にはまったく無意味で、興味も湧きませんでした。かつまた、そう見る私を、惹きこむほどの魅力を持った作品ではありませんでしたので、感想を書くほどの印象はありません。

Hayamilady今回の展示でも、『洛北修学院村』と並んで、特別に入り口すぐのロビーに展示されていた『女二題』などは、そのような矛盾が表面化した不安定な作品ではないかと思います。一方、小品では、構成とか視点を、それほど問われることがないので、むしろ技量を活かして、よく見られる作品があったと思います。と、曖昧な書き方をしているのは、あえて取り上げて感想を述べるほど印象に残っていないせいです。ただし、骨董品として市場では高い値段がつくのだろうと想像させる、という程度でした。

速水に対して、ネガティブな物言いをしましたが、ある意味日本画と近代主義の矛盾を真正面から引き受けてしまって、玉砕してしまった潔さは、この展示を見て、何となく分かり、そこが速水という画家の作品を見ていく手がかりになるのではないか、という収穫があった展覧会だったと思います。

読書のスタイル?

小学生は国語の時間、教科書を声を出して読む。朗読だ。近代以前は読書といえば朗読だったという。つまり、人々の集まる広場で、本を声を出して読み周囲の人々に聞かせる。ところが近代になると活版印刷の普及とプライバシーの発生にともない自室で独り黙読するという読書形態に変容した。このとき、読書は目で字を読み、口で声に出して、耳でそれを聞く、という複数の感覚器を動員した認識行為だったものが、目で読むことだけになった。現代は、さらに、書籍に代わってパソコンや端末で読むことに変容が起こった。目で読むことは同じだけれど、書籍という物質性が消失してしまった。書籍には文字が印刷され、それだけでなく、ページという枠があり、そこにレイアウトされ、本文だけでなく注があったり、ルビとかフォントが変わったり、とかあるいはカットがはさまれたりしている。ところが端末で読む場合には、フォントは端末によって書籍という決まった大きさの枠が無くなってしまい、文字の大きさは端末のサイズに左右される。また端末にインストールされていなければ元のフォントでは読めない。ページレイアウトも巻末の画面に連動して変わってしまう。だから、そこにあるのは文字に書かれた内容以外はほとんど伝わらないものとなってしまっている。この時、マラルメの『骰子一擲』というテキストはどうなってしまうのだろうか。このような、変容したものをスタイルとして、実は読書の重要な要素ではなかったか。そして、時代とともに進んだ読書の変容は、実はこのスタイルを切り捨てていくことではなかったかと考えられる。そう考えると、コンピュータというのは心身二元論でいう精神の部分を肥大化させたものだということが、読書という行為に象徴的に表われている。そんなことを考えた。

2015年8月21日 (金)

速水御舟とその周辺─大正日本画の俊英たち─(3)~第2章 赤曜会─今村紫紅と院展目黒派

Hayami2015setaこの展覧会は速水御舟の展覧会であるはずですが、展示の章立てでは今村紫紅がメインのような錯覚をおこすほどです。この展示を見ていると、速水という人が今村などがリードしていたグループの中にいて、引っ張られるようにいて、今村が夭折したり、グループの兄貴分のような画家たちが離れていった後で、いつに間にか残された速水が、その遺産を集約するように成果を一人受け取ったという点が分かります。速水は主体的に自らの個性を追求して行ったのではなくて、今村や他の画家たちが追求していったことに相乗り(?)して、そこで速水は、今村にたいして、いかに差別化するかを追求することが、今村の追求のユニークさをベースに、それに対する差別化を進め、言うなれば二重の差別化を進めていたのに、そこで今村が死んでしまったことで、まるでハシゴを外されるように残された速水の作品が、きわだって差別化されているように見えたという経緯が、想像できます。

Hayami2015shiomi例えば、人家の風景を描いた作品では、今村の大振りな斑点を重ねるようにして、さらにその色を滲ませて、立体の面の存在を前面に出し、線で輪郭を区画させる平面的な書き割りのようなものから、空間を感じさせるようなつくりがベースになって、作品が制作されています。今村の『瀬田風景』や『潮見坂』といった作品を見ると、今言ったような方法の試みが現れていると思います。しかし、私には、その試みが先行して、作品として、どうかと問われれば、立体的な空間が表現されているかということもありますが、空間が感じられるかといって何なのか、という作品自体の魅力というのか面白味が感じられないものに終わっていると思います。傲慢な言い方で、かなり偏った見方であると思いますが、これらの作品を見て、新しいことを試みる必要があるのか、その効果が表われていない、たんにヘタウマの味わい程度のことしか感じられない作品になっていると思います。

ここで、速水の作品を見てみると、今村に対して色遣いの点で繊細な注意を払っているのが特徴的であるように思います。それゆえでしょうか、今村のような空間の追求とか、面で立体的に捉えるという試みよりも、それでつくられた作品画面の完結性に重点が置かれている。つまり、立体的とかそういうことではなくて、結果として画面効果が、幻想的だったり、叙情的だったりに見えるということに重きを置いているように見えるということです。

Hayami2015snow_2『暮雪』という作品を見てみましょう。画面全体がセピア色が基調となって、日暮れの黄昏の薄ぼんやりとした光が、降り積もった一面の雪景色の中で映えている。家々には灯りが点り、それが障子から仄かに漏れている。そういう風景でしょうか。降り積もった雪の蒸気と黄昏の陽光とで、全体に靄がかかったような画面が幻想的な雰囲気をかもし出し、一面の雪が日暮れの陽光でセピア色に染まったなかで、家々の障子の淡い光が映える様は、光の一瞬のドラマを切り取ったような趣があります。まるで墨絵のように色彩を抑えて、セピア色を帯びた雪の白い世界と背後の木々の緑を雪が積もらないでいて、日が暮れて影となったのと、家々の壁を黒くして、モノクロームにすることで、画面は静謐さを帯びて、それは雪の降り積もって音が雪に吸収されてしまったような世界です。その中で、家々の障子に映る灯りは、障子全体ではなく、一部が淡く光が漏れて出しているのは、つまり、一様でないのは、それぞれの家の中の人々の動きを想像させます。このような時間が止まって、音が聞こえてこないような世界の中で、画面の表面には表われてこないような障子の向こう側の家中では人々が動いていることを想像させ、そこに静と動の対照が仄めかされている。そのような、幾つかの点で、対照性が重層的に構成されて画面が作られているように見えます。今村のおおらかな単純さに対して、速水の作品は、神経質なほどです。おそらく、速水は今村に触発されながら、彼に対して差別化を図っていくことで、自らの個性を作ろうとしていたかもしれません。

この『暮雪』を今村の『瀬田風景』を見比べてみると、民家の形や各々の事物を面として描いていく描き方などは、今村の風景画の基本的なつくりを踏襲しているのが分かります。つまり、速水は今村のつくった土台や骨組みに乗って、枝葉のところで今村ではない別のことを試みて、観る者には今村とは違う画面として見せていると見えます。これは、後年まで速水の作品についてまわる印象なのですが、主体がみえないというのか、何を描こうとしているのか骨がわからないという、多分、速水本人にも、強烈な主体のようなものがなかった点はあると思います。それと、この『暮雪』をみれば分かるように精緻で繊細な配慮を細部まで施している細工物のようなことをしていると全体を見通すことが難しくなる。そこで、今村の骨に乗っかるかたちで、細部にこだわった作業を思い切りやってみる、ということではなかったのかと思います。これは、絵画の世界ではありませんが、小説の世界で芥川龍之介のことを思い出します。彼の初期作品は今昔物語などの古典を題材に取って、そこに近代主義的な要素を加えていくことで病的といえるほど精緻で心理的な使用説世界を作っていました。例えば、『羅生門』という小説は、今昔物語の中の「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を題材に取ったといわれています。まず、冒頭について今昔物語ではこうです。

“今は昔のこと、摂津の国のあたりより盗みをするために京へ上ってきた男が、まだ日が高かったので、羅城門の下に隠れて立っていたが、朱雀大路の側には往来が絶えないので、人通りが静まるまでと思い、門の下で待っていると、山城の側から人が大勢近づいていくる音がしたので、姿を隠さなければと思い、門の二階へ音を立てないようによじ登ったところ、かすかに火がともされているのが見えた。”

これを、芥川龍之介の『羅生門』になると、このように膨らんでしまいます。

“ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災いがつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲すむ。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖あおの尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死にをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人とになるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。下人は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶けが欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗かざみに重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患うれえのない、人目にかかる惧おそれのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀たちが鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。下人は、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗のぞいて見た。”

『羅生門』の「今昔物語」の比べて異様なほど、細かくなって、様々な要素が加えられているのが分かります。その一つに、下人の心理が多重人格のように重層的に書き込まれ、羅生門とそれを取り巻く風景までもが、彼の真理の反映か、何らかの意味を与えられたような過剰な心理と意味の象徴が溢れています。そこに、芥川龍之介の病的で神経質な小説の世界が展かれています。

速水御舟の一見、のんびりとした牧歌的な山村風景のように見える『暮雪』には、このような芥川龍之介に通じるような、それ自体で自立できないような不安定で神経質な世界があるように、私には見えます。

Hayami2015short_2『短夜』という作品を見てみましょう。鬱蒼とした木々の中に家が立ち、タイトルが『短夜』ということなので、夏の夜なのでしょうか、その暗いところで蚊帳の中の人影がぼんやりと見えてくるという作品です。ここでは、『暮雪』とは違った暗さの風景です。こちらは、対照の活用ではなくて、暗さのグラデーションのなかで、木の葉の緑や下草の中に青を混ぜたりと、微かな色彩を効果的に使おうとしています。趣向としてはバロックの画家レンブラントの『夜警』のような夜の暗さの中でのかがり火で照らされたところから夜の暗闇までのグラデーションの中で人々を浮かび上がらせたのを、暗さを基調に地味にしっとりと試みたような作品といえるでしょうか。ここでの木々の葉などは、一枚一枚を描くのではなく、点描のように絵の具を落として、その点を重ねて、しかも、それぞれの色を変えていくことで、葉の重なりや月か星明りの光線の陰影を表わしているように見えます。この作品での家は、『暮雪』以上に今村の作品で描かれている家の形や輪郭そっくりです。そこで、速水は同じような形状で描かれている家ですが、夜の帳の中で見えているということからでしょうか、今村の太くたくましい輪郭線に対して、か細い線で輪郭を引いています。それが、今村の作品には、どっしりとした重量感があるのに対して、存在感が薄く、現実か夢かはっきりしないような夜のうつろなフワフワとした雰囲気を感じさせるものとなっています。これは、きわめて繊細なものになっていると思います。その一方で、芥川龍之介の小説もそうですが、作り物めいた作為が感じられるのも事実です。それは、家が、何となく歪んで見えるような、キッチリとした構造物に見えないところ、例えば、開いた戸からのぞいている家の中の床や敷かれた布団が傾いているようにしか見えないことや、蚊帳の中の人物が形になっていなくて雑に見えてしまうことで、私なぞがみると白けてしまうところがある。雰囲気を描こうとして、肝心の本質的な形というのか、核心が等閑にされているように見えてしまう。これは、速水の作品をいろいろ見ていて、共通して感じられることですが、どこか中心的な核が空ろで、小手先のみてくれにはしっているように感じられるところがあり、その核を今村をなぞることで補おうとしている。そういうところが露になっている作品でもあると、私には見えます。

Hayami2015wara_2では、グループのリーダーである今村以外の画家と比べるとどうでしょう。牛田雞村の『藁家』という作品です。速水の『暮雪』の家屋の形状は似ているところがあります。感じでいうと、ホンワカしたテレビアニメの日本昔話のような丸っこい輪郭で、立体とか奥行きを意識していない描き方です。基本的には、今村の『瀬田風景』とも通底していると思います。面でもって、結果的に形状ができてくるという行き方です。それをベースにして、速水は家屋という対象そのものを描くというよりは、我々と対象の間のメディアを描こうとしていたと言えます。言うなれば、対象と我々の間の薄いヴェールのような、“もの”ではない“こと”に近いと言えるような、それは例えば空気であったり、光とそれによって作られる影であったり、陽光によって染め上げられるということであったり、ということです。ただ、速水の場合には、それらを描こうとしてそうなったのか、描き方が色彩のグラデーションとか、色遣いを重視しているうちに、それが効果的に生かせることとして、結果としてそういうことになったのか、私には何とも言えません。それは、この牛田の『藁家』を見ていて、牛田が家屋を描く際のベースとなる面をダイレクトに描き込もうとしていたのと比べるとよく分かります。牛田の場合、家屋全体もそうですが、壁とか藁屋根等がダイレクトに存在感とか、どっしりとした重量感とかそういうものを持っているように見えてくるのです。これは、速水の描く家屋の、どちらかと言うと薄っぺらでフワフワしているのとは全く違うものです。牛田の作品では、そういう存在感に不可欠なのでしょう、例えば藁屋根の藁葺きの質感を藁の一本一本が分かるかのように描かれています。そして、手前の竹の葉の一枚一枚が明確に描かれていることで、全体の基調を決めていて、そういうものとして、この作品を見る者は、その向こうの藁家をみるように準備させられます。実は、私のような鑑賞眼のしっかりしていない人間には、二人の作品をブランドと見分けることはできないほどなのですが、それでも、あえて、この両者の方向性の違いを言うならば、牛田は対象があるということを描こうとしたのに対して、速水は対象が見えることを描こうとしたのではないかと思います。

Hayami2015yokohama風景画では、速水の作品は、他にも『横浜』という作品が展示されています。見る眼のない私には、アマチュアの水彩画だと言われれば、それを真に受けてしまうでしょう。私には、その程度にしか思えない作品です。正直に、誤解を恐れずに申し上げて。同じ、横浜を題材にした作品として小茂田青樹の『横浜海岸通り』という作品も展示されていました。これも、私にはアマチュアの水彩画でしたが。これらを見る限りでは、二人の違いは、よく分かりません。それは、この次の章の展示で追求されることになるので、ここでは、それほど違わないというというのを、二つの作品を見比べてみれば、いいのではないかと思います。

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数字は嘘をつく?

人は1人、2人・・・、犬は1匹、2匹・・・、車は1台、2台・・・というように、日本語では数える際に、その数える対象によって数に個数をあらわすユニークな言葉がつく。これに対して、例えば英語では、人でも犬でも車でも、1、2・・・となる。数は数なのだ。些細なことかもしれないが、英語でもドイツ語でもフランス語でも、日本語以外の多くの語では数は抽象化されているといえる。これに対して、日本語の場合は人は1人であり1匹ではない。ということで抽象化されきれていない。いうならば、実体としてリアルにあると言える。これだけなら、おおきな違いは感じられないかもしれないが、抽象化されているということはリアルな人とか犬とか車と数とは本来関係ないのだ。それを結びつけているのは、恣意でしかない。これは、言葉に似ている。「いぬ」という言葉と犬とは本質的な関係がなく、たまたまそのように使用されているだけだという。ソシュールも指摘しているように、言葉の恣意性、抽象性は通貨の流通に通じる。数というのも、このような言葉と共通するということだ。とすると、言葉は嘘をつくことがあるが、数字にも、それに近いことが起こる可能性はあるということだ。しかし、数字に実体性をもたせリアルに捉える場合、嘘が入り込む余地はない。回りくどい言い方かもしれないが、数字は真実であると無条件に信じてしまう。例えば、東芝の不正会計事件について、会計の数字というのが、それこそ1+1=2というようにキッチリと決まって公式に当てはめると正しい解がでてくるのに、わざと1+1=3という正しくない解を持ってきたかのような捉えられ方をしているように見える。少なくとも、新聞やテレビの報道はそういう視点のようで、それに違和感を抱いている。その影響が、今後の企業に対する監査の面で現われてくるだろう。

速水御舟とその周辺─大正日本画の俊英たち─(2)~第1章 安雅堂画塾─師・松本楓湖と兄弟子今村紫紅との出会い

速水が画家としての修行を始めた時代の師匠や、画塾の人たちの作品です。画塾には粉本が数多くあって、速水を含めた弟子たちは、それらを次から次へと模写をしていくことで、日本画の基礎を身につけていったということです。粉本には、中国絵画や琳派、土佐派や狩野派、円山四条派、浮世絵などあらゆるものが揃っていた(これら列記されたものの違いを、私は見分けられません)と説明されていました。そして、師匠の松本楓湖という人は放任主義で、絵の批評などは全く行なわなかったらしく、それが逆に良かったのか、今村紫紅や小茂田青樹、小山大月、牛田雞村、黒田古郷らが集まって、自由に描いていたようなイメージが湧いてきます。

後年、速水は節操がないといえるほど、一方で写実を追求する方向から、平面的で様式化された作品世界で装飾的な方向まで、広いふり幅で作品を矢継ぎ早に制作して行った素地は、このようにして形成されたのかということが想像できました。そのような視点で見てみると、今村紫紅が提唱して、速水がその流れに乗るように様々な作品を制作していった“日本画改革”で目指したものというのは、日本の絵画のあり方を根本的に見直すというよりは、様々な要素や技法を、それぞれの拠って立つ体系から抽出してきて、ちがった体系の中にぶち込んでみたり、本来ならば異なる体系にある要素を同一の画面の中で同居させたりなどといったパズルの組み方の新しいパターンの模索のようなものであったことが分かります。今村はどうか分かりませんが、速水という人は、そういうことが十分に可能な器用さを持ち合わせていたということは、ここで展示されてた習作ともいえる作品をみてもよく分かります。ただ、作品は習作といえる程度を超えるものではないようなので、個別に取り上げてどうこうということはしません。

平等とみんないっしょ

アフリカ大陸のとある地域で、石器時代そのままに狩猟中心の共同生活をしていた部族があったという。原始コミュニティとでもいうような、獲物を平等に分かち合いしていた社会が、近代的な文明社会に触れたことで、大きく変容したという。まず、一部の人に私的所有という意識が個人の自覚とともに生まれた。そのことによって、平等な原始コミュニティの共同体は崩壊した。私的な所有に目覚めた人は、狩猟で得た獲物は、自分という個人の成果物であるとして所有を独占した。つまり、共同体に分け与えようとはしなくなった。それで、貧しいながらも、僥倖で得た収穫を共同体の皆で分け合い、飢える人はいない穏やかな集団だったのが、飢える人が現われ、獲物を奪い合うという共同体内の諍いが日常化したという。その反面、狩猟に長じたものは、獲物を町にもっていって市場で売ることを覚えた。余剰から利益をつくり出すことを覚えた。それにつれて、以前は空腹の時だけ狩りをしていた、つまり自分たちが食べるに必要な分しか狩猟をしなかったのが、自分の食べるだけの量を超えて、際限なく獲物を狩るようになっていった。そして、獲物を町の市場で売って現金を得ていくようになる。いわゆる、狩猟という事業を成長させるといえた。そこで、持てる人が出現したということになる。他方、以前の共同体の意識のままの人々は、生きるに必要な分だけ狩猟すればよいというまま、得てして、そういう人は狩りに秀でていないで、飢えることもままあった。そこに格差がうまれた。何か社会学のモデルのように見えるかもしれないが、以前、テレビのドキュメンタリーで印象に残った番組だった。

ここで、平等という概念を考えてみると、二つの考え方が見えてくる。一つは、持てる人となった人々の考える平等で、これは欧米の近代的な、自由、平等という考え方に近いもの。そして、もうひとつは、飢えてしまった人々の考えるであろう、獲物をみんなで分け合うという考え方。多分、中国などで、発展から取り残された内陸部の農家の人々などが民主とかを主張するのは、国が発展しているというのに、分け前がこっちに来ないじゃないか、という平等の後者の考えに近いものではないか。だから、習近平政権が、いわば抜け駆けをして富をガメている汚職を追求すると快哉を叫ぶ。かといって、民主政体を求めているわけではない。これは、日本にも言えるような気がする。格差社会の議論でも、二つの平等概念が混同されているような気がする。

2015年8月19日 (水)

速水御舟とその周辺─大正日本画の俊英たち─(1)

2015年5月世田谷美術館

Hayami2015pos_25月のゴールデンウィークに出かけることなどというのは、久しぶりのことだ。世田谷美術館は、私の地元からの交通の便がよいわけではなく、しかもおそくまで開館してくれないので、なかなか訪れることのできないところ。10年以上前に一度訪れたことはあったが、ほとんど初めての訪問のようなものだ。用賀の駅から住宅地の中の道を歩き、世田谷公園の中のある美術館に行くのは、散歩道として、そういう雰囲気が好きな人には、いいのだろうと思う。美術館のロケーション自体は悪くはないと思うが、私には行く難さの方が先にたつ。連休の最終日で世田谷公園は子供連れのファミリーでいっぱいだったが、美術館は展覧会の会期が始まって間もないこともあるのだろうか、人影は多くはなく、静かにゆっくりと過ごすことができた。

速水御舟という画家については、以前に山種美術館で「速水御舟 日本美術院の精鋭たち」という所有コレクションを中心とした展覧会に行ったことがあった。このときは、展示の拙さもあって、近代の日本画に対する違和感と速水という画家が文献等で高い評価を受けていることに対して強い違和感を持った。著名な画家で評価が高いということだが、下手くそで、自分が何をやろうとしたのか分かっていない愚かな人だったと思わせるものだった。つまり、はっきり言って「つまらない!」という印象だった。今回の「速水御舟とその周辺」を見た印象では、速水という人は、それほど酷い画家ではないに変わった。何か、えらそうなことを言っているけれど、私の個人の印象なので、独断と偏見ということです。また、展示によって、こうも印象が変わるのか、ということがよく分かったのと、どちらにしても速水と画家は見せ方によって評価が変わってくると言う、私にとっては、その程度の画家に評価が上がったということです。このあたりの展示の見せ方を含めて、主催者のあいさつを引用します。

“速水御舟は1895年、東京・浅草に生まれ、14歳にして生家の筋向いにあった当時歴史画の大家とされていた松本楓湖の安雅堂画塾に入門し、粉本模写などを通して日本画の基礎を学びました。御舟は師と同様歴史画から出発しますが、兄弟子で後に日本画改革のリーダーとなる今村紫紅と出会い、紫紅の影響から印象派の点描に似た表現を用いて、当時新南画と呼ばれた自由な画風へと作風を変化させてゆきました。紫紅は御舟ら安雅堂画塾の若手メンバーと赤曜会を立ち上げ、旧態依然とした旧来の日本画の殻を打ち破り、日本画の革新を目指しましたが、赤曜会は紫紅の突然の逝去によりわずか一年あまりで解散となってしまいました。御舟は紫紅の影響を脱し、新南画が中国の宋代院体画の花鳥画や北方ルネサンスの画家・デューラーの極端なまでの写実絵画へと突き進みます。型にはまることを嫌う御舟はその後、琳派の奥行を排した金屏風の大画面へと再び舵を切ります。渡欧後、御舟は西洋絵画の群像表現に魅せられて人体表現へと向かい、女性群像の大作に取り組もうとしていた矢先に、病に倒れ夭折してしまいます。享年40。御舟の突然の死は画壇に大きな衝撃を与え、その才能を惜しむ声が各界から寄せられました。本年は速水御舟の没後80年の節目の年に当たり、本展はそれを記念して、師の松本楓湖から院展目黒派と呼ばれた今村紫紅、小茂田青樹、小山大月、牛田雞村、黒田古郷ら赤曜会のメンバー、そして御舟一門の高橋周桑、吉田善彦など、御舟とその周辺の作家たちの作品を一堂に集め、展観いたします。近代日本画の頂点のひとつとされ、今なお燦然と光り輝く御舟芸術がどのように誕生し、継承されたかを検証しようとするものです。”

Hayami2015rakuhoku公立美術館と言うことなのでしょうか、教科書のような卒のない文章で、主張のはっきりしないところがあります。展覧会を見た後で、注意して読み返してみると、特徴がようやく分かってきます。また、別のところで美術館の学芸員がこの展覧会の経緯を説明しています。ここでも展示されている吉田善彦の回顧展の準備していたときに、吉田は速水の許で若年時に薫陶を受けた人で、そこで見ることができたスケッチやメモなどをきっかに調査をしてみると、“御舟は孤高の画家のように思われているが、御舟の作品は誰の影響も受けずに生まれたものではなく、御舟が入門した安雅堂画塾の兄弟子の今村紫紅や御舟も加わった院展目黒派と呼ばれた小茂田青樹ら赤曜会の仲間たちとの切磋琢磨から生み出されたものであることが徐々に分かってきた。今村紫紅とそっくりな作品や小茂田青樹と似た作品もかなりあるので検証してみたいと思った。金地の色紙に描かれた宋代院体画風な静物画などは赤曜会のメンバーのほとんどが描いていることも分かってきた。”そういうことを踏まえて、私が捉えたことは、ちょっと違うと思いますが、この展示の特徴は、速水という人を単独の自立した芸術家(画家)としてではなく、彼が含まれる芸術家たちのグループの中の一人、つまりワン・オブ・ゼムとして提示しようとしたところです。そうしてみると、一見、速水の作品を通しに見ると感じられる主体性のなさ、一貫した人格というか視点が見えてこないところは、速水が修行時代からグループの画家たちの様々な動きの中で翻弄され、時には引きずられ、ときには差別化したりして、グループの中での差異により自分の存在を表わしてきたと考えると納得できる。そう考えると、速水の作品を、夭折した気鋭の画家などと考えずに画家のグループの中で坊やみたいな存在で、からかわれるか、いじられるかのように周囲の画家たちの、あっちこっちの方向にふらふらして、グループの中で自己を確立させるような人だったことが分かります。日本画とか、画壇というより、数人のグループという閉じられた空間の中で息づくような内向的な傾向の作品傾向というのでしょうか。速水の作品の特徴は、作品として際立っているというのではなく、グループの他の画家たちの作品との些細な差異に見出されることで、はじめてそれと認識できるとわかります。それは、ここで、速水の作品を他の画家の似たような作品と並べて展示して見せてくれたことでよく分かりました。

Hayami2015shiomi美術館の受付で入場券を買うと、長い廊下を通り、最初のロビーのような展示室にあいさつと並んで、真っ先に目に付くように、章立てとは別に展示されていたのが『洛北修学院村』という作品を見て行きましょう。これは速水の作品の中でも著名なもののようです。それもあってか、特別にこの作品をロビーに展示したということなのでしょうか。縦長の画面を利用して、斜め上から奥行きを見下ろすようなアングルが設定されています。しかも、細長い画面を利用して、そこにつづら折のように斜面に曲がりくねった道をいれて、その道を追いかけるように見る者の視線を追わせるようにして、空間を感じさせる。それだけでなく、物語の展開のような筋を画面につくり出している、という画面の構成を作り出しています。これは、別の部屋で展示されていた、今村紫紅の作品、例えば、『潮見坂』という作品と構成がよく似ています。それだけでなく、『潮見坂』では画面の右手の樹林などで緑を点描のように絵の具の色を混ぜずに塗り分けて、離れたところで見ると樹々の緑の折りなす様や陰影を厚みを感じさせるような効果をあげていますが、『洛北修学院村』では、ほぼ画面全体にわたって、その方法が使われています。初めての私のような人間が『洛北修学院村』を眺めると、へんなデフォルメをした、現代でいえばギャグマンガのようなヘタウマっぽい描き方でトンチンカンにしか見えませんが、他に、例えば今村の『潮見坂』のような先行作品をみると、そういうものがあるという環境の中で制作されたことが理解できます。これは、こういうものだと、という前提に立って、この『洛北修学院村』という作品を、とにかく見てみようという気にさせてくるのでした。(ただし、『洛北修学院村』という作品は、それだけ終わるような作品ではなく、『潮見坂』と、どのように異なっているかを見ていくと、たいへん興味深いところが多々見えてくる作品なのですが、それは、この後の具体的な感想のところで、できれば書いていきたいと思います。)そういう効果を、見ている私に及ぼしてくれたという点で、この展覧会は、私にとっては速水というエキセントリックな画家への入門の役割を果たしてくれたと思います。

では、いつものように作品を見ていきたいと思います。章立ては次の通りです。

第1章 安雅堂画塾─師・松本楓湖と兄弟子・今村紫紅との出会い 

第2章 赤曜会─今村紫紅と院展目黒派 

第3章 良きライバル─速水御舟と小茂田青樹 

第4章 御舟一門─高橋周桑と吉田善彦 

2015年8月17日 (月)

万人の万人に対する戦い?

18世紀の啓蒙思想において社会契約論という議論があった。高校の世界史や政経の教科書を持ち出すまでもなく、近代の民主主義政治体制の思想的なベースとなった議論。ルソーとかホッブスといった人の名があげられるだろう。浩瀚なのは、ホッブスの『リヴァイアサン』の中の一節、自然状態という思考実験で、原初の何の知識も慣習もない純粋で無垢な人間を想定し、そういう状態では“万人の万人に対する戦い”というすさまじい生存競争の戦いが起こるというもの。だからこそ、社会契約を結んで、互いの安全を保障し合うという議論。ルソーも似たような議論といえる。

こういう議論に対して、今は慣れてしまったけれども、最初に接した時に違和感を覚えた人はいないだろうか。多分、ヨーロッパでは、それを当然として受け入れたから、現在まで残っているのだろう。でも、もともとの素の人間は、そんな“万人の万人に対する戦い”をするようなものなのだろうか。愛という大袈裟だけれど、人間は他人を思い遣る心性をもともと持っているのではないか、他人と仲良くなりたいとか。それで果たして“万人の万人に対する戦い”ということになってしまうのか。別に、私が日本人だからとまとめてしまうつもりはないけれど、例えば中国の儒学の学統には孟子の性善説だってある。そんな、違和感を捨てきれずにいるけれど、近代の民主主義の政治体制にしても自由主義の経済システムにしてもベースには、人間とはそういう“万人の万人に対する戦い”をするものだというものがあるということだ。だから、コーポレートガバナンスにしても、そういう人間観がベースにあることを考慮して組み立てていかなくてはならない、ということだ。思想的なことはどうも…、と考えるのもいいが、根底のところで行き違いを起こしてしまう気がしている。

2015年8月15日 (土)

靖国神社への8月15日の閣僚や議員の参拝って矛盾していない?

8月15日に一部の閣僚や超党派の議員が靖国神社に参拝したということで、報道されている

靖国神社のホームページには、靖国神社について、“国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。”と説明し、“靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた2466千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。”としている。

毎年、8月15日に靖国神社に参拝する議員が話題になるが、上の引用した靖国神社の趣旨や、そういう議員の一人が“国難の時に命をささげられた御霊に対し、心を込めて追悼、感謝の誠をささげた”というコメントをしているが、他の人も同じだろう。そうであれば、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、の戦死者に対しても同じような参拝をするのが筋であるはず。なぜ、しないのか。記事では8月15日と春秋の例大祭しか参拝していないようだ。そうであれば、言っているコメントは真意ではないということが明白になる。つまり、単なる話題づくり。そうであれば、靖国神社に祀られた英霊に対する冒瀆ということになる。

公と私の区別

昔々、ある国の王が隣国を侵略しようとした。当初は容易に占領できると予想していたが、抵抗は激しく戦線は膠着した。そのうちに侵略部隊の兵糧が底をつき、兵士は飢えに苦しんだ。見かねた王は空腹にもかかわらず自らの食事を周囲の兵士に分け与えた。この王をどう思うか。部下おもいの寛大な王と思うか。私は、この王は二重の過ちを犯していると思う。ひとつは侵略の戦略的判断の誤り、部下を飢えさせたのは明らかに王の責任であり、判断ミスである。もう一つは、周囲の兵に食事を分け与えたことで依怙贔屓をしたことと、そのようなことをすることで自らの責任による罪悪感を誤魔化したことだ。このような王に対する評価が正反対に分かれたのは、その底に「公」と「私」の捉え方の違いがあると思う。後者の場合、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域に区分して、「公」の領域では社会の共通利益を実現させるために互いの「私」の領域を尊重し合いながら冷静に議論して妥協点を探していくという教科書に書かれているような公私の区分である。前者の場合は「公」と「私」の領域の区分は相対的で曖昧で、ある人にとっての「公」が別の人にとっては「私」とみなされたり、同じ人においても時と場合によって入れ替わってしまうものだ。この場合、公私は道義性などの尺度で入れ替わる例えば、儒教思想で言う徳治、この場合、「公」というのは、“大多数の人々が公平に扱われている”“みんなが公平に富を得る”というようなことに近いように見える。いわゆる格差社会の議論も、これに近い心性で行われているように見える。このような「公共」「おおやけ」に対する「わたくし」の方はというと、“一部の特権的な人が富をガメている”英語で言うと“egoism”に当たるのではないか。少なくとも、“private”ではない。では、「おおやけ」はというと、大多数の人々にとっての公平さ“just”に近いのではないか、“public”ではない。

これは、最近では東芝事件の当事者たちの心性に“会社のため”ということが、おそらく疑うことなく共有されていると思うからだ。私自身、そういう心性を否定できるほどの人ではない。

2015年8月14日 (金)

サラリーマンを武士になぞらえるのは?

会社員を江戸時代の武士になぞることもある。会社に忠義とかいうのもそうだ。けれど、江戸時代の武家というのは停滞の最たるもので、戦国大名と違って江戸時代の武家は拡大の余地がなかった。というよりも、改易の恐怖に不断にさらされ現状維持を至上だった。そのなかで、各人のいわゆる出世は組織の拡大に伴って新たな地位を獲得するのではなく、既存のポストの奪い合いとなる。そこでは、減点による負け抜けのレース、ということになれば、個人のリスクを最小化がもっとも有利ということになる。そう考えると、いわゆるサラリーマン的と揶揄される傾向に通じるところはある。T社の不正事件にしても動機は個人の利得ではなくて、組織内での個人のリスクの見た目の最小化ということかもしれない。

2015年8月13日 (木)

ガバナンスのプラットフォーム?

紙に字を書く、それを読むときの辞書は、コンピュータとそのネットとなったときに、出版社が辞書のアプリケーションやコンテンツを製作したが、それよりも一般化したのはデータの集積ではなくデータを人々から集め、閲覧・検索するプラットフォームというウィキペディアだったのではないか。多分、フェイスブックが、他のSNSに比べて突出したのは、コミュニケーションの場というコンテンツとしてのみならず、そこから様々なことができるプラットフォームとしてという特異性の故という意見もあるという。このようなプラットフォームという切り口は事業の戦略だけでなく、例えば、企業の経営とかマネジメントの切り口として考えられないか、とちょっと思ったりしていた。いわゆる経営理論とか経営戦略論とかこ、の例で言えばコンテンツといえる。そういうのを当てはめていくためのものというべきもの。例えば、経営でイノベーションをコンテンツの刷新と考えれば、それの方法というのか切り口としてプラットフォームというのをひとつ考えられてもいい。つまり、イノベーションを発想するというだけでなく、それを吸い上げたり、評価したり、実行したり、リスクヘッジしたり、検証したりなどということ。経営は経営者が判断し、意思決定し、執行することで、それは経営者が自身の責任にもとに自由にすることだろうけれど、さきのイノベーションのプロセスのことのようなことに当てはまるのをプラットフォームとして考えることはできないか。そんなことをグダグダ考えていた時に、コーポレートガバナンス・コードは最初視野に入ってこなかったのだけれど、いじりようによっては、案外使えるのかもしれないのでは、と考えたりしている。

2015年8月11日 (火)

リスクをとる?

このところ、コーポレートガバナンス・コードのことを書き込みしているけれど、多かれ少なかれ、ある程度のリスクを敢えて採ってアグレッシブに攻めていくことでも現状を好転させようという意思は、自分なりに感じる所がある。それを理解してもらうことを考え始めると(このようなこと自体、かなりおこがましいことは承知している)、何も経済の分野だけに限らないように思えてくる。安保の議論なんかにも象徴的といっていいのか、議論の内容について、個人的には必ずしも賛成というわけではないけれど、国会での反対の論点とか報道や学者の話をきいていると、リスクばかり話していて、お決まりのスローガンか、情緒的な共感に終始して、リスクから逃げて、現状の保身に汲々としているように見えてくる。全体として閉塞感を抱いてしまう。それは、法案を提出した側も似たり寄ったりで、提出してしまったからという既得事実にしがみついている小心根性が透けて見えてくる。そういっている自分は何様?っていうのもあるけれど、

また、両方とも戦略がなくて、単に正面突破の主張をしているだけで、結果として何をどのように勝ち取っていくのかが見えない。とくに反対する側に顕著だけれど、ちょうど敗戦の放送の日が近いということもあるけれど、結果を考えず、とりあえず戦争を始めてしまった74年前と同じように見えてしまう。本当に反省したのだろうか。

 

2015年8月 7日 (金)

コーポレートガバナンス・コードそもそも(16)

 

日本版コーポレートガバナンス・コードが、産業再興計画の一環として、企業の経営者にアクセルを踏ませ、海外から中長期の投資を呼び込む意図で策定されているという。そうであれば、コーポレートガバナンス・コードを真正面から受け留め、真摯に向き合った企業は、投資対象として検討するに値する。先日、セミナーの席で機関投資家の代表は語った。ある程度は割り引いて聞くことにはなると思うが、企業が中長期の経営方針に関する非財務情報で、経営がどのように意思決定をし、リスクをどのように管理していくか、要するに将来どのような価値創造をしていくかについて戦略的に説明することに結果としてなっていくことになる。だから、その報告書は、東証のコーポレートガバナンス報告書の書式になるが、そこでステレオタイプに収まりきらないような、企業の個性を主張するような魅力ある報告書を作成することができれば、何も、アニュアル・レポートや統合報告書をわざわざ高い金を払って作らなくても、投資家は企業を見てくれる可能性がでてくるということではないか。

ちょっと、こじつけか。

 

2015年8月 4日 (火)

冷静に・・

第一次世界大戦の惨劇への深刻な反省から、欧米ではパワーポリティクスから国際協調の潮流が生まれてくる。しかし、自国が戦場にならなかった米国や日本では、その認識が生まれなかった。その結果、国際連盟に米国は参加せず、日本では国際情勢に敏感な理想主義的な動きは失望を生み、視野の狭い軍部を中心としたグループがリーダーシップを握っていく。その認識のズレが日本の孤立化に連なっていく。実に、1930年の満州事変が、第一次世界大戦後、不戦条約を締結した国際秩序による平和状態をブチ壊す戦争だった。それはヨーロッパでは深刻に受け取られたが、日本でそれに気づいた人は皆無で、日本の防衛と経済進出という国内事情しか見えていなかった。(このことは、後世の私も、恥ずかしながら知らなかった。)それは、国際的に日本に対する不信を生み、日中戦争における錦州の戦略爆撃(世界最初の非戦闘者を巻き込む無差別爆撃)や南部仏印進駐でどんどん国際的な不信を増幅し、日本が孤立していった。一方、日本国内では自国の事情のみを考え、世界で孤立状態から情報が隔絶され、自国の状況を見誤り、袋小路に自らを追い込まれていった。当時のリーダーは文字通り追い込まれたとの認識で責任意識を持てなかった。

それとよく似た、国際認識とのズレによる孤立のおそれは、現代にも生まれる危険はあると指摘する。それは戦前の軍国主義とは一見正反対の平和主義に名を借りたもの国際情勢や国際法に留意することなく正義や平和を語ることは、自国以外の安全保障に無関心な利己的な姿勢と紙一重といえる。そもそも、日本国憲法は前文において、「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と宣言し、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」と謳っている。私、個人の感想として、憲法学者たちは、条文の文言についての逐語的な解釈に拘泥して、この前文との整合性について言及する人がいないように見える。

2015年8月 3日 (月)

不正会計事件あれこれ(3)

東芝の会計問題について、再三になるけれど、かばっているというわけではないが、コーポレート・ガバナンスの問題として、複数の社外取締役が存在し、委員会設置会社という最先端の経営体制を敷いていて、なぜ不正を防げなかったのかという議論が、なされることがある。しかし、この操作は売上や経費の計上時期をずらすことで利益を見せかけているということで、単年度では数字をつくれるが、中長期の視野で見れば、実力が透けて見えてくるというものではないか。しかし、そういう視点で企業を見る専門家である証券アナリストは、東芝をフォローしている人はたくさんいるけれど、誰も、このことに気づき、指摘した人はいない。また、不正発見の専門家である監査法人は、ある面では社長や当事者の取締役以外の役員よりも情報を得ていたにもかかわらず、見つけられなかった。つまり、その本分から言って、社外取締役とか委員会設置会社は不正摘発の機能に特化しているわけではない。それ以前のところのはずと考える。そもそも、そういう不正を起こそうという発想を起こさせない機能をさせるもの。たとえば、不正をしなければ達成できないような理不尽な計画とか目標の時点でロジックの辻褄の合わないところを徹底的に追及するとか、そういうものであるはずなのだ。

2015年8月 2日 (日)

不正会計事件あれこれ(2)

東芝の件に関して、無理な利益追求を強行した経営の不祥事として、これを防ぐことができなかったことを以て、コーポレート・ガバナンスの不備であるとして、指名委員会等設置会社という先端的な経営形態をとっているのに、なぜという議論が散見される。しかし、そもそも経営者が厳しく利益を追求するのは当然のことで、現場の数字が未達であれば叱責しない経営者なんて経営者と言えないだろう。そのこと自体の違法性について、きちんと説明はなされていない。報道されているものを見る限りでは、結果としての数字がおかしい、それは数字に操作があった、その操作は経営が無理に利益を追求したからだ、というように結果ありきで、事態を説明するために理由を探し回ったようにしか見えない。では、なぜ経営のそのようなことをする動機は何なのか。例えば、以前のエンロン事件ではストックオプションによる報酬の実額を増やすために利益を見せかけて株価を引き上げ、差額をガッポリ稼ごうとした。だから、そういう気を経営に起こさせないことが、コーポレート・ガバナンスのシステムづくりの重要な要素となっていったはずだ。だから、今回の東芝で、そういうシステムが働かなかったのは、東芝の経営者の動機がエンロンとは違っていたはずだ。コーポレート・ガバナンスの発想はそういうところにある。そのベースには行動主義的な人間の見方だ、その見方に従えば、今回の東芝の事件の違法性はそういう結果が起こったこと自体であるという客観的違法性ではなく、当人の動機を勘案する主観的違法性を見なければならないはず。(この議論は、刑法理論の旧論と新論の比較を参照してください)そのように考究された原因をもって、コーポレートガバナンス・コードの再検討が真摯になされなければならない、と私は思う。それは、投資家がもっと真剣に求めるべきだ。そうでないと、コーポレートガバナンス・コードはただの飾りに終わってしまうおそれがある。

2015年8月 1日 (土)

不正会計事件あれこれ

東芝の不正会計に対して、お役所やマスコミの言っていることや、識者というような人たちのコメントに対して、顰蹙をかってしまいそうないいようになります。ちょっと企業サイドの勝手な言い分ということになるかもしれません。東芝の利益というのは、架空の存在しないものを、あたかもあるかのように嘘をついたというのではなく、計上の時期をずらしたり、在庫の勘定を違ったやりかたにしてしまったり、というものです。また、規模については金額では小さくない額ですが、規模の比率でみると大きいものではなく、赤字を黒字にしているのでもない。言ってみれば、会計上の解釈の分かれるグレーゾーンの曖昧な部分を、会社にとって一番いいように数字を作ったものでしょう。(このこと自体は、たしかに批判されるべき)ただ、このようなあいまいなグレーゾーンは、事業をしていれば必ずついて回るものです。そのこと自体に対して批判がされていると、それに対する規制が強化されることへの対応に、東芝と同業種の企業や監査法人はピリピリしている(これを悪いことというつもりはない)。適正な企業活動は大事だが、下手をすると規制で事業活動を拘束することになるのではと、心配する。杞憂であればよいが…。

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