万人の万人に対する戦い?
18世紀の啓蒙思想において社会契約論という議論があった。高校の世界史や政経の教科書を持ち出すまでもなく、近代の民主主義政治体制の思想的なベースとなった議論。ルソーとかホッブスといった人の名があげられるだろう。浩瀚なのは、ホッブスの『リヴァイアサン』の中の一節、自然状態という思考実験で、原初の何の知識も慣習もない純粋で無垢な人間を想定し、そういう状態では“万人の万人に対する戦い”というすさまじい生存競争の戦いが起こるというもの。だからこそ、社会契約を結んで、互いの安全を保障し合うという議論。ルソーも似たような議論といえる。
こういう議論に対して、今は慣れてしまったけれども、最初に接した時に違和感を覚えた人はいないだろうか。多分、ヨーロッパでは、それを当然として受け入れたから、現在まで残っているのだろう。でも、もともとの素の人間は、そんな“万人の万人に対する戦い”をするようなものなのだろうか。愛という大袈裟だけれど、人間は他人を思い遣る心性をもともと持っているのではないか、他人と仲良くなりたいとか。それで果たして“万人の万人に対する戦い”ということになってしまうのか。別に、私が日本人だからとまとめてしまうつもりはないけれど、例えば中国の儒学の学統には孟子の性善説だってある。そんな、違和感を捨てきれずにいるけれど、近代の民主主義の政治体制にしても自由主義の経済システムにしてもベースには、人間とはそういう“万人の万人に対する戦い”をするものだというものがあるということだ。だから、コーポレートガバナンスにしても、そういう人間観がベースにあることを考慮して組み立てていかなくてはならない、ということだ。思想的なことはどうも…、と考えるのもいいが、根底のところで行き違いを起こしてしまう気がしている。
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