無料ブログはココログ

« サラリーマンを武士になぞらえるのは? | トップページ | 靖国神社への8月15日の閣僚や議員の参拝って矛盾していない? »

2015年8月15日 (土)

公と私の区別

昔々、ある国の王が隣国を侵略しようとした。当初は容易に占領できると予想していたが、抵抗は激しく戦線は膠着した。そのうちに侵略部隊の兵糧が底をつき、兵士は飢えに苦しんだ。見かねた王は空腹にもかかわらず自らの食事を周囲の兵士に分け与えた。この王をどう思うか。部下おもいの寛大な王と思うか。私は、この王は二重の過ちを犯していると思う。ひとつは侵略の戦略的判断の誤り、部下を飢えさせたのは明らかに王の責任であり、判断ミスである。もう一つは、周囲の兵に食事を分け与えたことで依怙贔屓をしたことと、そのようなことをすることで自らの責任による罪悪感を誤魔化したことだ。このような王に対する評価が正反対に分かれたのは、その底に「公」と「私」の捉え方の違いがあると思う。後者の場合、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域に区分して、「公」の領域では社会の共通利益を実現させるために互いの「私」の領域を尊重し合いながら冷静に議論して妥協点を探していくという教科書に書かれているような公私の区分である。前者の場合は「公」と「私」の領域の区分は相対的で曖昧で、ある人にとっての「公」が別の人にとっては「私」とみなされたり、同じ人においても時と場合によって入れ替わってしまうものだ。この場合、公私は道義性などの尺度で入れ替わる例えば、儒教思想で言う徳治、この場合、「公」というのは、“大多数の人々が公平に扱われている”“みんなが公平に富を得る”というようなことに近いように見える。いわゆる格差社会の議論も、これに近い心性で行われているように見える。このような「公共」「おおやけ」に対する「わたくし」の方はというと、“一部の特権的な人が富をガメている”英語で言うと“egoism”に当たるのではないか。少なくとも、“private”ではない。では、「おおやけ」はというと、大多数の人々にとっての公平さ“just”に近いのではないか、“public”ではない。

これは、最近では東芝事件の当事者たちの心性に“会社のため”ということが、おそらく疑うことなく共有されていると思うからだ。私自身、そういう心性を否定できるほどの人ではない。

« サラリーマンを武士になぞらえるのは? | トップページ | 靖国神社への8月15日の閣僚や議員の参拝って矛盾していない? »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/62089146

この記事へのトラックバック一覧です: 公と私の区別:

« サラリーマンを武士になぞらえるのは? | トップページ | 靖国神社への8月15日の閣僚や議員の参拝って矛盾していない? »