平等とみんないっしょ
アフリカ大陸のとある地域で、石器時代そのままに狩猟中心の共同生活をしていた部族があったという。原始コミュニティとでもいうような、獲物を平等に分かち合いしていた社会が、近代的な文明社会に触れたことで、大きく変容したという。まず、一部の人に私的所有という意識が個人の自覚とともに生まれた。そのことによって、平等な原始コミュニティの共同体は崩壊した。私的な所有に目覚めた人は、狩猟で得た獲物は、自分という個人の成果物であるとして所有を独占した。つまり、共同体に分け与えようとはしなくなった。それで、貧しいながらも、僥倖で得た収穫を共同体の皆で分け合い、飢える人はいない穏やかな集団だったのが、飢える人が現われ、獲物を奪い合うという共同体内の諍いが日常化したという。その反面、狩猟に長じたものは、獲物を町にもっていって市場で売ることを覚えた。余剰から利益をつくり出すことを覚えた。それにつれて、以前は空腹の時だけ狩りをしていた、つまり自分たちが食べるに必要な分しか狩猟をしなかったのが、自分の食べるだけの量を超えて、際限なく獲物を狩るようになっていった。そして、獲物を町の市場で売って現金を得ていくようになる。いわゆる、狩猟という事業を成長させるといえた。そこで、持てる人が出現したということになる。他方、以前の共同体の意識のままの人々は、生きるに必要な分だけ狩猟すればよいというまま、得てして、そういう人は狩りに秀でていないで、飢えることもままあった。そこに格差がうまれた。何か社会学のモデルのように見えるかもしれないが、以前、テレビのドキュメンタリーで印象に残った番組だった。
ここで、平等という概念を考えてみると、二つの考え方が見えてくる。一つは、持てる人となった人々の考える平等で、これは欧米の近代的な、自由、平等という考え方に近いもの。そして、もうひとつは、飢えてしまった人々の考えるであろう、獲物をみんなで分け合うという考え方。多分、中国などで、発展から取り残された内陸部の農家の人々などが民主とかを主張するのは、国が発展しているというのに、分け前がこっちに来ないじゃないか、という平等の後者の考えに近いものではないか。だから、習近平政権が、いわば抜け駆けをして富をガメている汚職を追求すると快哉を叫ぶ。かといって、民主政体を求めているわけではない。これは、日本にも言えるような気がする。格差社会の議論でも、二つの平等概念が混同されているような気がする。
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