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2015年9月

2015年9月30日 (水)

ヘレン・シャルフベック─魂のまなざし(4)~3.肖像画と自画像

Schjerfbeckselfシャルフベックは生涯で40点ほどの自画像を描いたということで、自画像が好きな画家だったようです。しかし、これまで見てきたシャルフベックの印象から、この画家の自画像というのは、他の画家の場合と意味合いが異なってくるのではないか、と私には思えます。つまり、シャルフベックの人物画は特定の人物を取り出して個人を写すというのではなくて、一般性を持たせる画像にしていく、例えば、誰々という老婆ではなくて、おばあちゃんの姿として一般化を進める。そうすれば、作品を見る人は、描かれている人物を自分のおばあちゃんに重ねて見て行くことができる。そうなると、即品に描かれた人物に感情移入が可能となって、親しみや、その人物に“ものがたり”を紡ぐこができるわけです。シャルフベックの自画像も、私はそのような文脈で見ていくことができると思います。他の画家であれば、自画像を描くことによって、自己を認識していく、心理学で言う鏡像効果のような役割を果たすものであったり、ある時点での自己の姿をとどめておく記録の役割を果たしていたりといったものとして、作品自体が鑑賞の対象であるのと同時に資料的な価値のあるものになっていると思います。しかし、シャルフベックの場合には、たしかに写真に残されている姿とよく似ているようですが、主眼は、画家の年代の女性の姿を一般化して画面に定着させているように見えます。そして、シャルフベックの作品のスタイルというのは、その時々の流行を巧みに取り入れ、ヨーロッパ周縁の後進地域であるフィSchjerfbeckmaneンランドの人々、とくに芸術の消費階級であるブルジョワの人々に受け入れられるようにアレンジしたものであったと思います。現在で言えば、ファッションの消費者が“オシャレ”と言えるセンスがいいという範囲です。そのためには、最新の手法を試しながら、フィンランドの人々に違和感を抱かさせることなく、“オシャレ”と感じさせるようにアレンジしていななければなりません。そのためには、何度も描きなおしたりして、画面に一度表わしてみて、反応をリサーチしながら微調整を繰り返す必要があります。そういう作品の制作をしようとした場合に、モデルを頼めば、何度も描き直したり、時間もかかることになります。それならば、自分がモデルになれば、気がついたときに描き直しや調整が容易にできます、そういう物理的な都合によさが原因としてあったのではないかと思います。(私は、実際にシャルフベックが自画像を描いたかを知らないので、これはシャルフベック作品を見た印象から、私が妄想したことにすぎないことを、念のためにお断りしておきます。)

Schjerfbeckself11884~85年に制作された『自画像』を見ましょう。真正面に顔を向けて、こちらを正視する女性は、その印象派風の粗いタッチは、マネの『フォリー=ベルジュール劇場のバー』の正面に立つ女性を想わせます。しかし、背景処理において、シャルフベックはマネのようなバーの賑やかで猥雑な雰囲気を取り去って、静かで落ち着いたものにしました。着ている衣装も、シャルフベック場合はアトリエの作業着でしょうか、地味な服に変わっています。マネの作品に比べて落ち着きと自信に満ちた表情が感じられますが、若い女性がこちらを真っ直ぐに見つめる、ある種の若い力強さのようなものが共通して感じられのではないでしょうか。

1895年制作の『自画像』はどうでしょうか。10年後の姿は背中をこちらに向けて振り返る画面は、10年前の『自画像』に比べて粗さは後退し、落ち着いた印象を受けます。例えば、女性の頬の微妙な描き方は、画家の技法の変化が表われています。この作品は、イタリア・ネルサンス初期の画家フィリッポ・リッピの『聖母戴冠』からの影響を指摘する学者もいるそうです。たしかに戴冠の台の下の手前の向かって右端で、座ってこちらを見ている女性の顔は、この『自画像』と似ているようにも見えます。また、この『自画像』と同じ頃に描かれた肖像画というか人物画を見ていると、この『自画像』で試された描き方を応用して描いているのではないかと思われる作品を見ることができます。『ソンヤ・クレボウ』という作品がそうです。

Schjerfbeckself2_2『黒い背景の自画像』という作品です。制作は1915年で、上の作品から20年後の作品で、シャルフベックの作品の中でも有名なものらしく、展覧会チラシにも使われていました。上の作品が若者から成熟した大人への過渡期と言えるならば、この作品は、その成熟期の盛りを過ぎて老境に向かおうとしているところという時期だと言えるでしょう。展覧会場では、この三つの自画像が並べて展示してあって、変遷が見て取れるようになっていました。これらを並べて分かるのは、シャルフベックの描き方が単純化の方向に進んでいったということと、それゆえでしょうか、描きこむ部分とそうでない部分とのメリハリが大きくなっていったということで、画面全体の単純化と反比例するように、顔の描き方が細かくなっていった。例えば、頬の描き方は、1885年の『自画像』は粗く絵の具が置かれていますが、若々しい肌のつややかさと若者らしい覇気とか生命感の溢れるさまが躍動的に表われているように見えます。10年後の1985年の自画像では、ルネサンス絵画のスフマートというほどではないでしょうが肌の繊細な移ろいを微妙な筆致で表わしているように見えます。それが、若者のつやつやした肌の輝きが失われてきたのに代わって、陰影が加わって、その翳りが大人の成熟を表わしているように見えてきます。これに対して、この『黒い背景の自画像』では、一見のっぺりと頬紅のような紅がベタッと塗られているだけです。でも、顔の表面をよく見てみると、上の二つの自画像にあったような頬のふくらみは、この作品ではもはやみられず、むしろ頬の上部の眼の周りの薄い紫色で塗られた影が眼の周囲の肉の落ち込みが肉が削げて老い暗示するのにつながっているようにして見ると、頬の紅いところが若い頃のホッペタのふくらみが、むしろ肉の落ちた陰、あるいは痣のように感じられないでしょうか。そして、紅で塗られた部分の形が微妙で、それが見る人によっては人生の苦労を想像させるのではないでしょうか。そのような想像力を掻き立て、煽るような微妙な計算が働いて、意識的に単純化させて見る者の想像力を働かせ易いように余白を作っている。まるで、日本画のようです。もし、シャルフベックの方向性のユニークさを挙げるとすれば、このような見る者の想像を決して邪魔するような主張を作品の表面に出すことはしないで、表現衝動を抑制して、あとは見る者に譲るという姿勢ではないかと思います。当時のヨーロッパの他の画家たちが、作品の中から余計な要素を削り取って、純粋化していったのは、自らの核心となる要素を剥き出しにして明確にするためと言えるところがあると思います。それは言ってみれば、0への回帰のようなものだと思います。これに対して、シャルフベックは、あえて0を踏み越えて、マイナスに足を踏み入れていったのではないか、というわけです。また、この『黒い背景の自画像』と制作年代が近い『木こり』という少年をモデルにして描いた作品と比べてみると、同じように省略した顔の描き方でも、こちらは少年の若々しい顔の張りが想像できるのです。それほど、個々の顔のパーツの描き方が違っているわけではないと思われますが、シャルフベックは微妙な差異で、見る者の想像の方向が変わってくるように描いているということなのではないかと思います。

Schjerfbeckdora_2その後、未完の自画像以外の展示はないので、人物画で見ていくしかないようなのですが、『ドーラ(ドーラ・エクストランシル)』という1922年制作の作品で、タイトルが人名なので特定の人物を描いたものなのでしょう。しかし、顔の外形の特徴を写すということは、あまり追求されていなくなっているのではないか。髪型とか、顔の形とか装身具とか、記号的に、他の人との差異を明瞭に識別するものは最低限として押さえているだけのような、まるで浮世絵の美人画のような、どれも同じ顔のような行き方に近づいているように、私には見えます。

『アイトクーネから来た少女Ⅱ』という1927年の制作の作品も、単純さという点では、『ドーラ(ドーラ・エクストランシル)』と同じようです。髪型と顔の顎のかたちが違うのと着ている服で見分けをつけているように見えます。しかし、単純化とはいっても、形状をとりだして純粋化というのとは感じが、違う気がします。浮世絵はものがたりの挿絵であったり、芝居の登場人物や当時の評判の美人を描くということで、その画面そのもののところ以外の情報を加味して、見る者の想像力で補う、というより想像力を煽ることで、付加価値を高めていったといえます。だからこそ、極端なデフォルメが可能になって、それを後の西欧の画家たちに衝撃を与えたということなのでしょう。そういう画家たちは、デフォルメされた表面的な外形だけを見ていたのかもしれません。シャルフベックは、浮世絵の表面のみならず、その由縁のところから影響を受けていたのかもしれません。それは、本人が自覚してというよりは、結果としてそうなってしまった、というのではないかと思います。というのも、シャルフベックの伝記的エピソード、例えば身体のハンディキャップがあるとか、婚約を理不尽に解消されたとかいったことが、この人の作品を見る者にとって、格好のものがたりとなって、作品の付加価値になっているということで、多分、画家の周囲の人々の作為(情報操作)に由るのではないかと思います。しかし、シャルフベック自身も意図してはいないものの、無意識のうちにか、自身のエピソードを生かすような制作や行為をしていたということも、あながち否定できないと思います。それが、この画家のシンプルな人物画のスタイルと車の両輪のように価値付けの機能を果たしていると思います。

Schjerfbeckislands『諸島から来た女性』という女性は、シンプル化させていった人物画が、まるでファッション雑誌の挿絵のような洗練されたオシャレな感じに仕上がっている作品です。シャルフベックの作品が、国民画家として幅広い支持を得たというのは、こういうオシャレな感じという要素は、ものがたりを想像させるという要素と同じくらい、大きな魅力だったと思います。

そいうふり幅のモダンでオシャレに方向に振れた作品ではないか思われるのが『教師』という1933年制作の作品です。ちょっとフェルナン・レジェのキュビスムっぽい太い輪郭の単純化された、人間を機械の造形のように描くことでスマートで洗練されたイメージを与える効果に寄っているように見える作品です。こうしてみると、シャルフベックという画家は自身の方法に関しては振り幅をもって揺れ動きながら試行錯誤を繰り返して、意識的だった人ではないかと想像できます。つまり、素材とか理念とかで描くというような、ある種の表現衝動の衝き動かされるような、典型的なのはロマン主義の天才のイメージですが、そういうのではなくて、方法を意識して計算しながら題材を選択したりして制作を続けるというタイプです。

Schjerfbecknurce『看護婦(カイヤ・ラバティネン)』という1943年制作の作品です。この作品の女性の頬の紅色と、以前の『黒い背景の自画像』の頬を比べて見てください。こちらでは、あきらかに描写という点では後退しているように見えます。つまり、ここでは『黒い背景の自画像』では必要であった要素が、ここでは削られてきています。これらについては、この後の晩年に近づいた画家の作品展示のところで、見えてくると思います。

2015年9月29日 (火)

ヘレン・シャルフベック─魂のまなざし(3)~2.フランス美術の影響と消化

Schjerfbeckholまず、最初にシャルフベックがパリからフィンランドに帰朝し、本場帰りという箔をいっぱいつけてアカデミーの教師となって教鞭を執る際に、古典を模写したものです。ホルバインの模写だそうです。これを見ると、一応、それらしくまとめられていますが、ホルバインの精緻さにはほど遠く、質感とか存在感とかが描き分けられていないことが分かります。それと、全体のプロポーションが均衡したハマッた感じがしません。だからといって、シャルフベックを中傷するつもりはありません。彼女は自身の限界をよく分かっていて、古典的なキチッとした描き方は自分に向いていないことは自覚していたのではないでしょうか。つまり、シャルフベックの画風は、自身の技量をよく考えた上で選択されたものであったのではないか、と私には考えられます。そうなると、この展覧会で説明されているような、求道的な画家のイメージとはちょっと違ったイメージが私の前に現れてきます。それは、自身の技量や消費者が作品をどのように受け取るかを冷静に判断し、その中で最適の効果をあげるような、例えば、いわゆる画家の個性などというものについても、消費者が作品を購入するときに他の画家の作品と区別し評価を分けるための差異のようなものです。それを計算した上で、シャルフベックというブランドを意識して作り上げた、というイメージです。

Schjerfbeckchurch『教会へ行く人々』という作品です。ホルバインの模写に比べて、画面全てをキッチリ描き込まれていません。背景は省略されていますし、教会へ行こうとする4人の人物の描写も細部は大雑把です。パリでシャルフベックが接した印象派などの大雑把な描き方を、自身の技量や描き方にとって適合的であったのでしょう、それを消化して、流行の最先端であるかのように当時のフィンランドの人々に見せることができたのではないかと思います。そしてまた、背景を描きこまず、家並みの影を一部だけ途中まで描いて大胆に省略して、余白のようにしてしまっています。これは、日本画の余白を生かして画面に余韻を与える効果を取り入れた、と直接的ではないでしょうが、考えられるのではないでしょうか。当時のパリで印象派をはじめとしてジャポニスムの影響があったのを間接的にシャルフベックが取り入れたとしても不思議ではありません。この後、シャルフベックの作品では、大胆な省略によって画面に余白をつくり、それによって見る者に余白を想像力で補う作業を行なわせる。これをさらに推し進めて、余白だから見る者が自由に想像できる、という方向に推し進めて、作品をただ受け入れるように受け身で見るというだけでなく、想像することで積極的に参加する方向を持たせ、作品画面の表面に描かれているものだけでなく、それ以上のものを見る者それぞれが想像力を働かさせることで作品画面に付加価値をつけていくようになっていきます。この作品では、教会に向かう人々の横顔に焦点をあてるようにして、それ以外の背景を省略することによって、単に教会に通う人々の風景という以上に、それぞれ世代の異なる4人の人物の横顔を並べることが、4つの世代の象徴とか、人生の歩みの各世代の横顔を映しているかのように見る者に想像させます。そうであれば、これは教会への道に象徴された人生のあり方を見ることもできるといえます。しかも、教会に通う4人の穏やかな淡々とした表情が、かえって、例えば、老婆の顔に刻まれた皺にはそれまでに人生の苦労やその末の諦念に近い穏やかさや子供の顔には未だ苦労を知らない無垢さが、想像できて来るように見えます。このような想像の含みを持った作品は、当時のフィンランドの人々の目には、どのように映ったのでしょうか。少なくとも、伝統的な作品とは違ったものと映ったはずです。かといって、受け容れ難いような突飛なものとはならなかったのではないか。つまり、シャルフベックは人々が受け容れられるギリギリのところでパリの最先端の芸術をフィンランドに持ってきたと言えるのではないでしょうか。

Schjerfbeckgarryシャルフベックは、この画面の省略の傾向をさらに進めていきます。その結果、老婆は誰々さんという特定のおばあさんから、より普遍性の高い老婆なるものになっていきます。しかし、省略が行き過ぎると抽象的な形態になってしまいますが、シャルフベックの作品では、そういう行き過ぎは注意深く避けられ、普遍的なおばあちゃんというのは、誰にとってもおばあちゃんという類の普遍性で、一人の人物に特定できないからこそ、自分にとってのおばあちゃんであるとして感情移入したり、想像することが出来るものとなっている、ということです。日本の唱歌に「ふるさと」という歌があります。うさぎ追いしかの山~ではじまる歌です。この歌詞には主語がありません。また、作詞した人物は文部省の官僚であったのが分かっているのですが、あえて作者不詳とされています。これは作詞者が特定されてしまうと、その人物の故郷を歌った歌として、ふるさと一般ではなくなってしまうからです。この歌が、ある時期、日本人の誰もが自分のふるさとを歌っているかのように思ったのは、そのような一般化の操作が働いていたと言われています。シャルフベックの人物の省略した描き方には、似たような操作の末の効果によるものと、私には見えます。この画家がフィンランドの国民画家と呼ばれているようなのも、そのようなところに要因があるのではないか、私には思えます。

Schjerfbeckhari『お針子』という作品です。シャルフベックの、今まで述べてきた傾向に頂点ともいえる作品で、この作品にはホイッスラーの影響が指摘されています。右隣の作品がホイッスラーの作品で、構図や黒を基調としている点などはよく似ていると思います。しかし、上に述べてきたシャルフベックの傾向に対して、ホイッスラーの作品を見ると、明瞭に描きこまれて、特定の人物の肖像であることが明らかに分かるものとなっていることや、シャルフベックの作品が見る者に想像力を働かせるような余白を作ろうとしているのに対して、ホイッスラーはむしろ余計な想像の余地を排除して、画面に描かれた美そのものを見るようにストイックな画面になっているのが大きな違いではないかと思います。つまり、シャルフベックとホイッスラーは似たような画面の作品を制作していますが、目指す方向性は正反対なのです。

また、習作時代に比べて、ここで見ている一連の作品は使われている色の数が絞られていき、黒やグレー系統の鈍い色が中心に使われていくようになっていきました。このことについては、解説の文章を以下に引用します。通常、黒、白、褐色に限定されるわずかな色数を用いること、より正確には、色彩の明暗のコントラストに集中することによって、絵画が「人生の分析、プラトン主義の鏡像と反映」の領域にまでもたらされ。暗く抑えられた色彩が、憂鬱を示唆するのは明らかだが、画家によっては、それは瞑想的な静寂や観照的な雰囲気、精神性と等しいものであった。面白いことに、こうした無彩色の色調は、抽象的かつ説明的でもあると見なされたのである。このことが示唆するのは、抑制や「非感情的」、より高い精神性、単純さ、純粋さ、飾り気のなさといったものの世紀転換期における比喩的表現であり、この時代に多くの画家が目指したあらゆる暗示的意味である。かなり回りくどい文章ですが、ここで見てきたシャルフベックの作品は、その色調が、見る者に対して瞑想的であったり、それゆえに精神性の高い雰囲気を感じさせる効果を与えているということです。それは、作品を見る者をある雰囲気に包み込み、作品に真正面から対峙するという鑑賞姿勢よりも、雰囲気に包まれ、ここちよく想像の“ものがたり”に浸るという接し方を導くものです。その意味で、シャルフベックの作品は、音楽に近い接し方を指向していると考えられなくもありません。

Schjerfbeckbefore他方、同じような描き方をしていながら色調が淡い白っぽさを基調として作品がポツポツと展示されていて、それをグルーピングすることもできると思いました。それは、黒を基調とした作品のグループと見る者の印象が異なってくるように見えます。『堅信式の前』という作品を見てみましょう。制作は1891年という、パリからフィンランドに戻ったすぐのころです。上で見た『教会へ行く人々』は1895年の制作ですから、教会を前にしての女性の姿が、こうも印象が異なるのかと驚くほどです。こちらは、いかにも印象派の影響が歴然とわかる作品で、女性の純白の衣装は、堅信式をうける汚れのない純真さに象徴なのでしょうけれど、木漏れ日が映え、陽光を受けた木々の緑が衣装の白に反映して輝くような様が活写されています。上で見た『家にて』で椅子に座り裁縫をする老婆と、人物は同じようなポーズで、単純化の傾向がすでに現れてきていると思いますが、この作品は、いかにも、パリの最先端の流行を学んできました、という感じがします。

Schjerfbeckcos『コスチューム画Ⅱ』という作品です。『家にて』の裁縫する老婆を左右に反転させたようなポーズです。1909年の制作ということですから、『家にて』の数年後ということで、ほぼ同時期といってもいいのではないでしょうか。似た構成で、両方とも色彩を限定しているにもかかわらず、しかし、印象は正反対です。『家にて』のような上で見た黒を基調とした作品にホイッスラーの影響が現われているとすれば、こちらの白を基調とした作品には、パリの印象派やセザンヌ、あるいはローランサンといった人々の影響が垣間見えてくると説明されています。実際、シャルフベックは単純化への指向はありましたが、それを分析的に推し進めるとか、単純化を究極まで追求して抽象に向かうということはありませんでしたが、そういう方向に進む傾向はありました。それが、この白を基調にしたグループの作品を見ると分かります。他方で、黒を基調とした作品を見ると、シャルフベックがあくまで具象に残ったという傾向がよく現れています。展覧会の説明にはありませんでしたが、これらを見ていると、シャルフベックが二つの方向性を持っていて、そのなかで揺れ動きながら、全体としての方向性はその中で自身のバランスをとっていたことが分かります。後世から見れば折衷的と批判で、きるかもしれませんが、周縁地域であり芸術の後進地であるフィンランドにいることを考えれば、仕方のないことなのか、というよりは、シャルフベックはそういう地域性とそこでの自身での位置取りを積極的に利用しようとしたのではないか。おそらく、シャルフベック自身は、流行の最先端の革新的なものを生み出すような才能ではないことを自覚していたのではないかと思われるからです。この画家は、終生、自身のオリジナリティーというよりも、お手本となる画家が傍らにあって、そのお手本をならいさらいながらという批評的な姿勢で、自身の作品を生み出していったと言えるからです。例えば、この時期のシャルフベックの作品を見ていても、ネタ本のような類似した他の画家のオリジナルな作品を探し出すことは可能でしょう。しかし、だからとって、それがシャルフベックの作品を人真似と断じるわけでもなく、そこにシャルフベックの個性を見出すことは可能です。むしろ、そういう作品の作り方に当時のシャルフベックのユニークさがあると言えるのではないでしょうか。そういう意味では、現代のコピーとオリジナリティの問題を先取りしていた画家と言える側面を持った人と言えないでしょうか。

Schjerfbeckschool_3『コスチューム画Ⅱ』という作品に戻りますが、この作品の単純化された顔をみていると、キュビスムの雰囲気を見て取ることが出来ると思います。しかし、先ほども述べましたように、シャルフベックは顔という形態を取り出し足りはしませんでした。それが、この画家のある意味限界であり、むしろ、個性ということになるのでしょう。

『モダン・スクールガール』という作品です。1928年の制作です。『堅信式の前』も『コスチューム画Ⅱ』も人物のとっているポーズはよく似ているので、描き方の変遷を比較し易いと思います。ここでは、単純化はさらに進んでいます。顔は、形態を写すというよりは、筆先で一気に引いたような、日本画の記号化された顔に近い描き方になっています。マンガに通じるところあるかもしれません。殴り書きのような乱暴さともとれるところもありますが、筆の勢いが、顔に表情を感じさせるものとするような効果を与えています。実際、作品を見る側としては、キュビスムで描かれた、例えばピカソの描く人物画に感情移入することは難しいと思いますが、この作品は単純化されてたものですが、なんとなく表情を想像し、場合によっては感情移入もできるものになっていると思います。おそらく、そのような想像をすることができるということが、シャルフベックの作品の魅力になっていると思います。

Schjerfbeckcir『サーカスの少女』という作品も『モダン・スクールガール』と同じ傾向です。しかし、この作品では、唇の赤をことさらに強調しています。これらのグループの作品は、見る者にモダン、つまり、最先端に近い流行に触れている錯覚を与え(現代でも、“オシャレ”とかいって喜ぶ最先端のセンスを気取るスノッブは多いと思います)、芸術のパトロンを気取る人々の優越感を巧みにくすぐる効果もあったと思います。日本の明治期の洋画家がパリに留学して、当時のパリの流行を持ち込み、画家本人の実力とは別に、それを持ち込んだことによって画壇の権威として地歩を固めた人々は少なからずいたと思います。今の日本美術史に残っている画家が何人かが該当すると思いますが、フィンランドでも、そんな日本ほどではないとしても、似たような状況ではなかったのかと思います。その中で、シャルフベックはそういう状況を巧みに利用しながら、その状況を自身を生かしていくプロセスのなかで、画家としての自身の個性を作り上げたといえないでしょうか。それは、パリに居てはできないことで、また、パリの画家たちにもできない、唯一無二の個性と言えるものだったと思います。

2015年9月28日 (月)

ヘレン・シャルフベック─魂のまなざし(2)~1.初期:ヘルシンキ─パリ

シャルフベックの習作期の作品です。地元の画塾で学び始めて、認められてパリに留学して、そこで評価を得られたという時期の、画家として一本立ちするまでの時期、伝記的事実ではそういうことになると思います。

Schjerfbecksnow『雪の中の負傷兵』という作品です。18歳の時にフィンランド芸術協会の展覧会で高い評価を得て、買い上げられ奨学金を受けることなり、パリに留学することができたという作品です。1808年の第二次ロシア・スウェーデン戦争が題材ということですが、ロシアの支配下で民俗運動が高まってきていた時期で、題材としてはその空気に呼応するものであったと思います。しかし、描かれているのは戦争のドラマチックな意識を鼓舞するものではなくて、雪景色の中に負傷した兵士がひとり取り残されている情景です。それは、シャルフベック自身の境遇や心情が投影されていると解釈することも可能でしょうし、当時のフィンランドの置かれていたスウェーデンとロシアという大国にはさまれて、その支配の下で独立を果たせないでいる状況を仮託する解釈も可能でしょう。とくに、負傷兵の空ろな表情が、二大国の戦争に駆り出され、挙句に負傷させられてしまう空しさとか痛みを解釈することも可能です。それを若干18歳の少女がそつなく画面にまとめたということ。実際、構図にしろデッサンにしろ、上手に描かれていると言えるのではないでしょうか。ただ、作品として、画家の個性の萌芽が垣間見えるとか、突出したものがあるとかいうよりも、私がとくに感じたのは、シャルフベックという人の政治的なセンスというか、才能です。政治的な才能などというと、選挙に出てどうとかそんなことと誤解されるかもしれませんが、そうではなくて、社会の動きとか、人々がどのような方向にいこうとしているかを敏感に感じ取る力というのでしょうか。さらに言えば、それに対して、自分をどのような位置に置くのがよいかを判断できる力とでも言えるものです。ビジネスで言えば、必ずしも一致するとは限りませんが、マーケティング・センスのようなことです。『雪の中の負傷兵』の成功の要因はそういうところにあるような気がします。それは、そこで多分、フィンランドの画壇にシャルフベックという画家についてのイメージを残し、それが国内での後の画家の評価を導く際に、画家自身をそれをうまく利用していくであろう布石にも、結果としてなったのではないか。その意味で、シャルフベックという画家の世間的な成功のためには重要な作品であったのではないかと思います。

Schjerfbeckgirl_3『少女の頭部』という作品です。展覧会パンフレットにも使われていたので、人気のある作品なのではないかと思います。リアリズムで描いた少女という説明です。これもうがった見方をすれば、19世紀後半の西欧で資本主義経済が勃興し、消費文化がいわゆる小市民(プチブルとかビーダーマイヤーとか揶揄された)という人々を生み出し、その嗜好に応じたようなファンシー・ピクチャーが現れていたのに、うまく乗じた、ということは言えないでしょうか。しかし、それに迎合的になるところで巧みにスタンスをとって、クールベ風の荒々しいタッチで、いかにもリアリズムで描きましたという味付けがされていて、ちょっとだけ高尚ですよと思わせる。小市民階級で、背伸びしたい人々、いわゆる教養のある人々のスノッブなセンスにうまく合わせている。また、シャルフベックが女性であることも、ここではプラスに働くでしょう。開明的で、先進的なイメージが、しかし、社会通念と衝突しないよう按排されているわけです。このように、シャルフベックという画家は、私には、いかに描くかという画家ではなくて、何を描き、それを見る者のどのように提示するかという視点で注目すべき画家として、見えてきます。

『快復期』という作品です。シャルフベックの初期の代表作で、パリの万国博で銅メダルを獲得し、国際的な名声を得ることとなった作品とのことです。この作品は、背後に神話化されたような画家の物語があるとのことで、がかの精神的な自画像であるという解釈があるそうです。曰く、シャルフベックが婚約者から一通の手紙だけで婚約破棄を通告されたことと、この作品が関係する。この作品の少女は、病気から快復してベッドから抜け出し、カップに入った一本の小枝の新芽を楽しげに見つめている。その瞳は、健康な身体を取り戻した安堵感に満ち溢れているかのようだ。つまり、春の芽生えに託された子供の強い生命力に、心の痛手からようやく立ち直ってきたシャルフベック自身が重ねられている。ということだそうです。しかし、私にはそういうものがたりを知らず、神話に感情移入することもないので、先入観なく眺めた時に、この作品の少女が病気に打ち勝った強い生命力を見て取ることはできません。単に寝起きの、シーツに包まって、寝癖のついた髪で寝惚けているファンシー・ピクチャーと見てしまいます。私には、この作品の価値は、付加価値で『快復期』というタイトルをつけたということが大きいのではないかと思います。画家の神話化されたものがたりが真実であるとしても、真実かどうかは作品を見る者にはどうでもいいことで、要は、そのものがたりが作品を見る際に付加価値として有効に機能するかどうかということです。そのために『快復期』というタイトルでものがたりの神話化の布石を打ったということが、シャルフベックという画家の才能ではないでしょうか。つまり、この画家は作品を描くということに限定するのではなく、描いた作品を神話化されたものがたりという付加価値をつけてパッケージして見る者に提供するプロデューサーとしての要素も兼ね備えていた。その点に、シャルフベックという画家の現代性がある。それは、現代アートのアーティストが単に作品を制作するだけでなく、そのコンセプトを言葉で説明し人々の理解を進めようとする姿勢に通じていると考えられないでしょうか。

Schjerfbecksick_2そして、この作品はパリ万博という国際舞台で評価を受けたことも、大きな付加価値を足していくことになります。これは、近代日本の西洋絵画の画家のことを考えてみれば、似たようなことを想像できると思います。当時のフィンランドは日本ほどではないにしても、ヨーロッパでは周縁の後進地域であったはずです。そこに芸術の中心地であるパリから最先端の芸術の香りを直接持ち込んでくるというのが、それだけで権威になり得ます。この『快復期』においても、印象派の荒っぽいタッチや外光を採りいれる技法を作品の中に持ち込んで、流行の最先端をフィンランドに持ち込んで、人々を最先端に触れさせてあげたという効果をもたらすわけです。しかも、パリ万博での高い評価というお墨付きがあります。新しい流行にたいしては、評価が岐れることがおおいのですが、お墨付きがあれば、人々は安心して新しい流行を受け入れ、浸ることができることになります。いわゆる本朝帰りのオラが国の画家という、一種の権威です。『快復期』には、画家の個性のようなユニークさがほとんど見つけることができないのですが、その反面で、ファンシー・ピクチャーとしての分かりやすさ、その分かりやすさを土台にした、そのような適度の新規さ、があると思います。そのような作品自体に、さきほど述べたような付加価値をパッケージした全体として、この作品を見る、というのが、私のみたシャルフベックという画家への対し方です。

2015年9月27日 (日)

ヘレン・シャルフベック─魂のまなざし(1)

2015年7月 東京藝術大学大学美術館

Schjerfbeckpos株主総会が終わって、一息つける時期、息抜きがてら何かあればと物色していたところ、会期が迫っていたこの展覧会を見つけ、寄ってみた。梅雨末期の激しい雨の隙間のような晴れ間、といっても真夏のようなカンカン照りの下、上野駅から美術館までの道のりは、けっこう堪えた。まったく名前を聞いたこともなかった画家であったにもかかわらず、新聞や雑誌で評判となっていたらしく、平日の昼間なのに、比較的鑑賞者が多く、とくに外国人(シャルフベックの同国人なのか)の姿が目立っていた。

シャルフベックという画家とその作品について、私もほとんど知識がないので、主催者のあいさつを引用します。シャルフベック(1862~1946)は3歳の時に事故にあい、左足が不自由になりました。そのために学校に通えませんでしたが、家庭教師から学ぶうちに、11歳の時に絵の才能を見いだされました。18歳で奨学金を得ると、当時、画家たちの憧れだった芸術の都パリに渡り、最先端の美術を体験します。パリではマネやセザンヌ、ホイッスラーらの強い影響を受け、フランス、ブルターニュ地方のポン=タヴェンやイギリス、コーンウォール地方のセント・アイヴスなども旅することで、彼女の芸術観し大きくひろがっていきます。フィンランドに戻ると、ヘルシンキの素描学校で教鞭を執るものの、病気がちであったため職を辞さざるを得ず、療養もかねてヒュヴィンガーという町に母親と引っ越しました。ここに15年間とどまりながら制作に集中し、パリでの体験を消化しつつ独自のスタイルを展開していきました。独立前後のフィンランドという新しい国が誕生する激動のさなかで、さまざまな人々と運命を共にしながら、対象をそして自分自身を見つめる、彼女の魂の軌跡ともいえる作品をご覧ください。

このような紹介や、この作品の多くを保養しているフィンランド国立美術館の挨拶などを読むと、この人はフィンランドの国民的な画家という印象を強く受けます。この人とほぼ同年代の作曲家にシベリウスがいますが、彼は音楽の分野で国民的な作曲家となって、7つの交響曲を生涯で作曲しましたが、その2番あたりから国内の注目を集め、後半生は国からの手厚い年金を受けていたといいます。これは、フィンランドの状況がロシア(ソ連)からの独立を果たすという民族的な意識の高まりとシンクロし、というよりもその運動の中でシンボルが求められていたのに上手くハマったということもあるのでしょう。その中で、シベリウス自身も民族的な旋律を作品の中に取り入れ、聴衆はそれが民族的な旋律を取り入れた作品がいつの間にかシベリウスの創り出す音楽は民族的なものを代表するにすり替わっていったところもあったのでしょう。晩年には、かなり抽象的で旋律性の乏しい作品を作っていますが、最後まで民族的な文脈の中で語られたというひとです。

このシャルフベックという画家とその作品に対する人々の見方や評価にも、そのようなところがあるような印象をまず感じました。ひとつひとつの作品を見ていく前に、このようなことを述べてしまうのは、先入観以外の何ものでもないことは否定できません。展示されていたシャルフベックの作品を通して見て、バラバラな印象で、底流に共通するものを見つけることはできませんでした。それだからというわけではありませんが、核心部の空虚さというのでしょうか。本人は、その都度、筆の赴くままに描いたようなのでしょうけれど、それがいわゆる近代の芸術家では考えられないほどのナイーブさというのか、ほとんど考えていない(ということはありえないでしょう)、方法論的な意識とかコンセプトというものが見えてこないのです。これをシャルフベック自身が意図的に行なったとすれば、それは凄い才能なのでしょうが、そうとは思えず、この人の背後には有能なプロデューサーがついていたのではないか、と想像します。展覧会の解説をそのままに信用すれば、フィンランドでは国民的画家として高い評価を受け、定着しているということですから、私には、この画家とその作品もさることながら、この画家の周囲のグループとしての才能であるとか、成功した戦略面とかの方が興味深く思われました。この展覧会では、そういう点には全く触れられていませんでしたが。この人の作品の話に戻りますが、核心部が空虚だという印象は、それを見る人々に受け取られる際には、戦略的に印象を操作することが可能になります。そこで画家の伝記的なエピソードに基づいたものがたりという付加価値をたっぷりつけた、ひろく受け容れ易いイメージを作り上げることは、むしろやりやすいことになるでしょう。そういう点で、画家を中心としたチームがそれぞれに巧みに機能した結果としての作品として、ここに展示されているものを、私は見ていました。

個々の作品を見ながら、具体的に述べていきたいと思います。

展示は次のような章立てでしたので、それに従いたいと思います。

1.初期:ヘルシンキ─パリ

2.フランス美術の影響と消化

3.肖像画と自画像

4.自作の再解釈とエル・グレコの発見

5.死に向かって:自画像と静物画

法の中のストーリー

憲法第9条は大切にしたいと思うことについては吝かではない。テレビや新聞上での簡易化された憲法学の権威ある学者の人たちのコメントを読む限りでは、憲法前文に“日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。(中略)日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。”と謳われている、戦争の惨禍が再び起こらないために、自国のみに専念することなく、世界の平和の中に日本の平和環境があるという認識とズレがあるように思える。別に無理矢理首を突っ込むべきではないけれど、世界のどこかで起こる紛争に巻き込まれないように過敏なほど立ち回ろうとすべきといっているような。私自身、平和ボケの中でずっと過ごして甘い認識でいるからかもしれないので、偏っていると言われれば返す言葉もないが。

2015年9月25日 (金)

構造というストーリー

大学に入り、政治学のゼミの最初の時間に教授から1868年に明治新政府が憲法に当たる文書を発表して維新のスタートを宣言したというが、それは何か、と訊かれ、五箇条のご誓文と答えてしまった。憲法と歴史を勉強し直せと言われたが、近代民主主義の憲法とは、アメリカ合衆国憲法、フランス革命後の共和政で制定された憲法を見ると、政府の統治への規制の規定しかない。日本国憲法でいえば第4章以降の部分。五箇条のご誓文には政体や機構の規制がないので、いわば新政府の心構えの宣言。ちなみに、人権条項は民主制の前提で当たり前なので法律にするものでもない(法律にすれば改定されてしまうおそれもある)。合衆国憲法は後に修正条文として追加された。それは、国民の権利や自由は天賦で不可侵であるものとして、政府はそれを護るために義務付けられ、そのための具体的方針と規制が憲法ということ。

そう考えると、現代の日本国憲法の条文の中でも絶対に変えてはいけない条文とそうでない条文がある、ということになる。つまり、重要度の軽重が分かれるということ。

で、そういうことを前置きとして、第1章は措くとして、第2章の戦争の放棄は、第3章の国民の権利という神聖不可侵の条項の前に置かれているのは、日本国憲法の中で、どのように位置づけられているのだろうか。つまり、憲法というのが日本という国の基本となる方針を具現させたものであるはずなのが、統一的なストーリーとかイメージが容易にできないもので、それを憲法学の先生たちでもやってくれていない、私には思える。それは、昨日触れた、憲法前文と条文の矛盾がどのように整合できるように説明されるか、ということも含めて。それは、条文の解釈についても、根拠となるものだろうと思うからだ。

何か、ガバナンスとか経営方針とか戦略ストーリーとかに頭が凝り固まって、発想も引っ張られているようだ。

自分で考えてみてもいいかもしれない、構造はひとつの思想でもあるということを

2015年9月24日 (木)

まもるのは何か

学生時代、雑誌である自衛官の手記のような文章を読んで、いまでも忘れられない一節がある。それは、防衛というのは何を守るのか、という問いかけだった。国というのは実体をもたないフィクションであるから、物理的に守ることはできない。具体的に、守るべきは何なのか。日本の国民という人々を守るということなのか。人の生命は何よりも重い。その場合、自衛隊の人間だって国民だ。そういう立場とはいっても、生命に軽重はないのだから、自衛隊の人間の生命だって尊重されなければならない。そうであれば、究極には、一番大事な生命をまもるために国土とか財産を捨てて逃げればいい。

そうではなくて、国土とか領土なのか、では領土を守るために国民全部が死んでしまったら領土を守る意味があるのか。

このように、人とか領土を守るということを考えると防衛ということは、究極的には意味をなさない。

では、逆に防衛ということが意味をなすのはどのような場合かを考えると、人々が安心して生きられ、生活をしている状態ということになる。政治的には自由で民主的な社会ということになろうか。つまり、日本国憲法でいえば第3章の人権の条文で規定された基本的人権を守るということになる。

だから、守るべきものを規制することは本末転倒であるし、防衛も含めて国家も行政もそのためにあるという。そして、平和というのは、そのためのものではないのか、という問いかけも合わせて考える。そう考えると、日本国憲法第9条の解釈は、単に文言の逐語的なレベルだけでいいのかということは、問題意識としてあり得るのではないか。つまり、日本の人々の生存と生活が保障されるために平和ということが要請されるという論理であれば、平和とは何かということは固定したものではないはず。それは学問での議論でも、当然あり得ると思う。

2015年9月23日 (水)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(7)

第4章 可能性の境界へ

実際には、一国の法案を審議するのに直接民主制では多大な労力と時間がかかる。そうであれば、代表を選出して彼らに決めてもらう代表制にするということになる。

コンドルセは代表制に特有のメリットとして議場における熟議の可能性を挙げていた。それによれば、ある問いに対して論点が明確になるにつれ、最初はバラバラであった議員たちの意見が収斂していき、また意見の差異はどの原則を尊重するかの差異として明らかになってゆく。これは、コンドルセが代表制に一般意志を見付けようとする積極的な意義付けを与えた。そのためには代表たちは議場で、支持者の意向ではなく、一般意志が意志するものを努めねばならない。この場合、代表は有権者が候補者の諸問題への判断力を基準として信託される形と言える。しかし、この場合でも満場一致は期待できない。争点が明確な問いであれば、ダンカン・ブラックが発見した中位ルールという集約ルールが有効だという。そのあと、集約ルールの吟味が続く。

 

集約ルールがさまざまあって、その吟味が続きますが、何か肝心なところを素通りしてしまったような感じがします。著者は多数決ルールが単純な集約ルールでいいのかという問題意識しかなかったような印象で、多数決ルールそのものがはたして妥当なのかという視点に広がることはなかったようです。最近の日本の例で言えば、議員選挙で多数派になったことで“民意”を得たと豪語する政党の代表者の勘違いか詐術的なアピールかに対する反論の意味合いをかねているのだろうか、と思わせられるくらいでしょうか。

たとえば、多数決の結果が妥当(私は著者のように正しいという言葉を用いる勇気はありません)であるかどうか、という議論を始めてはいますが、結局話は展開せずに、導入ネタのような扱いで、私にはそちらの方が本論として議論してほしかったと思います。そこから、多数決についての様々な問題点が出てくるはずですが、その全てが無視されてしまっています。例えば、一般意志についての議論でルソーは一般意志に熟議で達するには個人がそれぞれに努力することが必須で他人に頼って徒党を組むようなこと、つまり政党というのは民主制に反するものだと言っていまする。しかし、選挙や国会の議決は政党単位で動いています。また、ここでいう熟議が実際に行なわれているか。そのためには、議員が政党に縛られず、また、選挙の選出母体である地域や団体の利害関係から切り離されることが条件となるはずです。そういう、実態を見て、どうなっているのかということに全く触れられていいません。そんなこともあって、かなり欲求不満になりました。

2015年9月22日 (火)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(6)

著者は、ここでルソーの思想を解説する。まず、「人間不平等起源論」においてルソーは、社会に支配する者とされる者の格差が生まれ、前者には高慢と虚栄が、後者に卑屈と追従がうまれ、それぞれ疎外状態に陥っていく。それは奴隷状態といえる。この奴隷の反対の意味が自由であり、震源が奴隷にならないで自由にいられる社会を築く可能性を論じたのが「社会契約論」である。ルソーは、このような社会を築くための手段として社会契約を構想する。この社会契約において、人々は一つの分割可能な共同体へと結合し、全ての権利を共同体に渡して一つに束ねる、という契約行為を行なうことになる。この契約の主体は自分たちであり、ルソーは人民と呼ぶ。その束ねた権利を主権と呼ぶ。すなわち人民主権ということだ。そして、この共同体は一般意志に従って運営される。

一般意志とは、個々の人間が特殊な「私」の次元から一般的な「公」の次元に思考を移して意志を一般化したものだ。一般化とは、だから自己利益の追求をひとまず置いて、自分を含む多様な人間がともに必要とするものを求めていこうとすることだ。その「私」から「公」への移行に熟議的理性が行使される。熟議的理性を行使するとは、理性に尋ねて考えを形成したり変えたりすることだ。多様な人間がいるということは自分と異なる人がいるということで、そのような自分と異なる他者と人間としての共通点を見つめるためには、自分の中に深くもぐり、そういう主体としての自分を選び取ることが必要だ。これが「互いに認め合い」ということで、決して全体の中に個人が埋没することではない。そこには、自分のみならず他者をも尊重するという節度ある利己心が契約という形態に結びつくのである。

社会契約により束ねられた主権が、一般意志に基づき共同体内での取り決めを定める。その取り決めに従って、共同体のメンバーたちは生きることになる。この一般意志は、あくまで個々の人間が、自らの精神の中に見出していくもので、そのためにはある法案が一般意志に適うかどうかは、メンバー全員が直接参加し、各自が熟議的理性で辿り着いた判断を表明し、多数決で決める。だから、多数決の結果と自分の判断が違っていたら、それは自分の判断が間違っていたことになる。自分は一般意志の判断を見つけ損ねたということなのだ。そして、一般意志は自らの意志でもあるがゆえに、それが定める法に従うことは、自ら定めた法に従うことになる。

但しこれには条件がある。それは、人々が熟議的理性を働かせた投票でなければならず、投票の対象となる事項は、そのような熟議が可能なものでなければならない。だから、人々の利害対立が鋭いものは投票の対象にならない。そのための対策としては、第一に上位の憲法により立法の方向性を制限するなどの多数決より上位の審級を事前に立てておくこと。第二に、複数の機関での多数決にかけること。第三に、多数津で物事を決めるハードルを、満場一致のように過半数より高くすること。これらは、一つの法案に対して是非を決めることだが、選択肢が三つ以上のときには、集約ルールの選択も絡んでくる。

 

著者が、正しさの根拠として持ち出してくるのが、ルソーの「一般意志」という概念である。著者によれば「一般意志」とは人々が「公」の次元に思考を移して、全体のことを考えていくのを突き詰めるとそうなるというもの。ルソーの言っているのとちょっとズレているような気もするが、要は個人の利害とか私的な発想を離れて、別の次元に移って考えたものであるというのが最低条件。そのためには熟議が必要で、その結果として多くの人の考えることがすりよっていくようになるのと、多数の考えが確率的に正しいに近づくということを根拠に議論を進めているようにみえる。そのようにして得た結果だから、違う意見の人は、その意見が間違いであるということになる、と極論すればそういうことになる。

これは、結論ありきの議論に見えなくもない。まず、一般意志ということが正しい結論であるかどうか、ということが全く吟味されていない。これでは、多数決の求める答えというのが一般意志ということが前提としてあるようなことなってしまうが、はたしてそうなのか。これは、例えばの話で、ワン・オブ・ゼムに過ぎないのではないのか。たぶん、著者は、最初はそのつもりで議論を始めたのが、そのまま突き進んでしまったのではないかと思う。実際に、「私」から「公」に思考の次元が移るというけれど、具体的にどのようなことなのかが著者もイメージできていないのではないか。単に抽象的な図式としてかたっているに過ぎないように見える。例えば、個人的な利益を超えて全体としての効率性を追求する官僚的な形式主義と一般意志とは、どう違うのか、この著者の議論では、区別できないのでないと思う。いわば、絵に描いた餅の域を出ていないと見えてしまうのだ。

 

実際のところ、法案を通すのにいちいち共同体の構成員を全員集めて人民集会を開くわけにはいかない。そこで、選挙で議員を代表として選び、代わりに立法してもらう、というのが代表民主制である。ルソーは、これを否定する。人民とは一個の分割不能な共同体である。一般意志がそれを指揮するが、それはあくまで一人一人の人間の精神的な意志である以上、引き剥がし誰かに譲り渡しようがない。あくまで一般意志は精神的なものだからだ。ましてやそれを、分割不能な共同体のどこか一部分にだけ与えるなど不可能である。なんせ部分に分割できないのだから。さらには代表制によって、一部の者が立法権を占有すると、他の者は自ら定めた法に従う自由である道徳的自由を失うことになる。他者が定めた法に従うことになるからだ。代表制のもとで代表たちは道徳的自由を得る一方で、他の者はそれを失う。この、代表制のもとでの道徳的不平等は、社会契約の根本的特徴である対等性に違反する。代表制は人民主権の観点から正統化しえない。著者はオストロゴルスキーのパラドクスを持ち出して、確率によって、代表制と直接民主制が正反対の結果をも生み出すことを検証してしまう。

 

ルソーの一般意志の議論は、代表制を否定するというけれど、ここまでの著者の議論では否定しきれないのではないか。つまり、「私」から「公」に思考の次元が移った人々が熟議によって考えをすりよらせていくということだから、全員である必要はなく、不特定の人々であれば、結果は全員の場合に近いものになるはずである。むしろ、単なる手続きの問題だけで本質的なところでは代表制と直接民主制ではほとんど同じ結果になる。

2015年9月21日 (月)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(5)

第3章 正しい判断は可能か

法定で1人の被告が罪を問われている。有罪か無罪かを決めるのは陪審員たちの多数決だ。しかしどの陪審員も罪の有無を100%の確率で判断することはできない。間違える可能性があるわけだ。間違えるとは何か。有罪が真実のときに無罪と判断してしまうこと、無罪が真実のときに有罪と判断してしまうことだ。人間は神ではなく、常に正しいとは限らない。しかし、身の有無を、コイントスで決めることに比べれば、人間の理性による判断の方が優れているのではないか。つまり人間の理性による判断の方が優れているのではないか。人間の理性による判断が正しい確率の値は1よりは低いが、0.5よりは高い。

ここで、仮に1人陪審員が正しい判断をする確率を0.6としたときに、これに対して3人の陪審員によって多数決で結果が正しい確率を計算すると、3人中2人以上が正しい確率ということになり、0.648と計算されるという。つまり、0.6より高い確率となり、陪審員3人で判断するほうが、1人で判断するよりも正しい確率が高くなる。これは、陪審員の数を増やすに従い高くなっていく。

これは、言われてみれば当たり前のことだろうが、1人だけで正しく判断できるのは、その1人が正しい時だけだ。1人中1人という全員である。所が3人ならどうなるか。3人のうち2人が正しければ、多数決の結果は正しくなる。3人全員まで正しくある必要はない。このハードルは陪審員の人数を増やすとさらに下がる。多数決のもとでは、正しい判断をする者が半数をわずかにでも越しさえすれば、結果が正しくなるからだ。これは統計学でいう「大数の法則」の応用である。陪審員の数は有限だが、人数が増えるに従い確率は100%に近づいていくこれを陪審定理という。自分は「有罪」を投じたが、多数決の結果が「無罪」であった時には、自分の判断は高い確率で間違えていたというわけだ。自分の意に沿わない、気に入らない結果が出たと考えるべきではない。自分が間違えていたわけだから。

この陪審定理が成り立つためには以下の二条件が満たされている必要がある。

条件1.陪審員は被告人と事件に関する情報を適切に与えられており、自分の理性を働かせようと努めること。いわば情報開示が為されており、また偏見や思い込みで判断しない。

条件2.陪審員は自分の頭で考えて有罪か無罪かを判断すること。投票の前に討議の機会はあってもよい。ただし、その場の雰囲気に流されたり、勝ちそうな方を予想してそちらに投票したりはしない。

なるほど条件1と条件2が成り立つよう陪審の場を整えることが大事なのだ、と話は終わらない。むしろことは出発点である。

これを通常の投票で考えた場合、「正しい」判断とは何を意味するのか。投票において有権者は、自分だけに関わる私的な利益ではなく、自分が関わる公的な利益への判断を求められているのだ。こう読むと陪審定理における「正しい」の意味は投票でもひとまず通じる。これは、ルソーが「社会契約論」の一般意志の考えのもとにある。多数決を巡る最大の倫理的課題は、なぜ少数派が多数派の意見に従わなければならないのか、というものだ。従わなければ罰されるからというのは服従する理由であって、従うべき義務の説明にはなっていない。また「結果がこうなったのだから従うのが義務だ」というのは義務の押しつけであって、その「義務」の正しさを生じさせることに成功していない。すなわち多数決においては結果に従うべき正当性が求められる。陪審の評決については、多数派の判断が正しい確率が非常に高い、というのがその正当性を支えていた。では法案の審議ではどうか。多数派の判断が一般意志に適う確率が非常に高い、とはどのような正当性を与えるのか。

 

著者は、まず、判断の正しさということを確率で示そうとする。いかにも統計をやっている人の考え方と思う。とりあえずきいておけばよい。問題は、選挙の投票にしろ、議会で物事を決定するにしろ、その結果が正しいというのはどういうことか、つまり正しいということの内容であろう。どういう結果であれば、正しいということになるのか、それが多数決の結果と一致するということになるのは、どうしてなのか、ということです。

2015年9月20日 (日)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(4)

第2章 代替案を絞り込む

ボルダ、コンドルセの集約ルールをみると、どのルールを採るかで違った結果が出てくるのが明らかになってきた。そこで著者は、こうも言う。「民意」という言葉はよく使われるが、そんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果に他ならない。選挙で勝った政治家の中には、自分を「民意」の反映と位置づけ自分の政策がすべて信任されたように振舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶに相応しい何かであるというわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変りうる。言ってしまえば、私たちにできるのは民意を明らかにすることではなく、適切な集約ルールを選んで使うことだけなのだ。ではその適切さはどう測るか。具体的には説得性の高い規準を設けて、それを満たす・満たさないで集約ルールをテストするということになる。むろんどの規準を優先するかで人々に意見の食い違いは起こりうる。だが集約ルールの表面を眺めて印象を語るより、集約ルールが満たす規準について考察するほうが論点ははるかに明確になるし、恣意的な判断を避けやすくなる。家屋を建てるときにいくつかの工法があるとして、工法の印象ではなくて、どの工法なら何ができて何ができないか規準を設けて判断したほうがよい、というのと同じだ。

選択肢が三つ以上あるときは、票の割れは常に懸念すべき事柄である。2000年のアメリカ大統領選挙のように、きわめて有力な二人の候補がいるときにでも、「第三の選択肢」の出現は票の割れを引き起こし、結果をがらりと変えうる。多数決が多数意見を反映しなくなるわけだ。

 

著者は、多数決の方法について過去に考えられた集約ルールを幾つか紹介します。そこでは、どのルールを採るかによって結果が違ってくることになります。(それが集約ルールの違いなのでしょう)同じように投票が行なわれても、集約ルールによって最終結果が異なってくるのです。そうであるならば、我々は投票するのはもちろん、集約ルールについても、結果に関係するのですから、どのルールに従うべきなのかを選択するという議論も出てくることになります。では、もし、集約ルールの選択もするとしたら、どの集約ルールが適切なのか、どうやって判断すればよいのでしょうか。

それよりも、そんな方法によって結果がコロコロと変わってしまう投票というやり方しか、我々にはないのでしょうか。そもそも、多数決という決め方によって導かれる結果の正当性というのは、どこにあるのか。なおさらあやふやになってきた印象です。そこで、著者はその議論に分け入っていくことになります。

 

2015年9月19日 (土)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(3)

第1章 多数決からの脱却

赤道直下の太平洋の島国ナウルではダウダールルールという1位だけを投票するのではなく、候補者の順位付けをして順位ポイントを集計する方式をとる。多数決という意思集約の方式は、日本を含む多くの国の選挙で当たり前に使われている。だがそれは慣習のようなもので、他の方式と比べて優れているから採用されたわけではない。そもそも多数決以外の方式を考えたりはしないのが通常だろう。だが民主制のもとで選挙が果たす重要性を考えれば、多数決を安易に採用するのは、思考停止というより、もはや文化的奇習の一種である。

「多数決」という言葉の字面を眺めると、いかにも多数派の意見を尊重しそうである。だからこそ少数意見の尊重も大切と言われるわけだ。だがそもそも多数決で、多数派の意見は常に尊重されるのだろうか。ここで著者は2000年のアメリカの大統領選挙のケースを再び取り上げる。第三の候補ラルフ・ネーダーの立候補により、民主党のゴアは票を喰われ下馬評では不利だったブッシュが漁夫の利で勝利する。しかしネーダーはゴアに近い政策を支持していた。図らずも、ネーダーは大統領にしたくないブッシュの当選を助けたことになってしまった。これはネーダーに責任があるのではなくて、多数決という仕組み自体の問題であると著者は言う。多数決は人々の意思を集約する仕組みとして深刻な難点があると指摘する。

投票で「多数の人々の意思をひとつに集約する仕組み」のことを集約ルールという。多数決はたくさんある集約ルールの一つに過ぎない。そして投票のない民主主義はない以上、民主主義を実質化するためには、性能のよい集約ルールを用いる必要がある。確かに多数決は単純で分かりやすく、私たちはそれに慣れきってしまっている。だがそのせいで人々の意見が適切に集約できないのは本末転倒であろう。それは性能が悪いのだ。もし「一人一票でルールに従い決めたから民主的だ」ても言うなら、形式の抜け殻だけが残り、民主的という言葉の中身は消え失せてしまうだろう。投票には儀式性が伴えども、それは単なる儀式ではない。聞きたいのは神託ではなく人々の声なのだ。さらに言えば、有権者の無力感は、多数決という「自分たちの意思を細かく表明できない・適切に反映してくれない」集約ルールに少なからず起因するのではないだろうか。であればそれは集約ルールの変更により改善できるはずだ。

そして、多数決を含む集約ルールとして、ボルダとコンドルセを紹介する。

 

具体的に多数決ルールとして、現実にどのようにバリエーションがありえるのかという、選択肢の可能性の紹介です。例えば、今の日本の国会議員選挙では小選挙区が中心で、選挙権者一人が一票を選んだ一人の候補に投じます。かりに一つの選挙区の定員が二人の場合も同じです。何人かの候補者のうちで、一番当選してほしい人に投票して、候補者の中で得票数の多い順に上位2名が当選するという形式です。しかし、二人の定員ということであれば、Aさんに当選してもらいたいが、それはBさんと一緒に当選したほうが生かせるとか、BさんとCさんが共に当選すると二人の主張は食い合って足を引っ張り合い、地域の声が中央に届き難くなる、といった当選議員の関係性を考慮されていません。ここで紹介されているのはナウルのルールで、二人の定員であれば、順位付けをして1位と2位の二人を投票できるのです。ただし、1位として投票するのと2位として投票するのでは、ポイントが違うことにして、当然1位のポイントが高いのですが、それで獲得したポイントが高い順に当選していくというシステムです。

このような場合、ポイントの設定方法やその他で投票結果が異なってきます。まずは、問題提起というところです。

2015年9月18日 (金)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(2)

だが自分で決めることと自分たちで決めることには大きな違いがある。一と多の違いだ。自分だけのことではなく、自分たちの決定を行なうためには、異なる多数の意思を一つに集約せねばならない。具体的にどう集約するかというと、多数決がよく使われる。むろん単に意思を集約してもしょうがない。まともな情報がないなかで、また深く考えずに投票するのでは、自分たちでうまく決められていることにほかならない。だからこそ政府は情報を公開すべきだし、表現の自由は大切だし、知ろうとすることや熟慮することも大事なわけだ。だがこれらの諸条件がすべて満たされたとして、多数決は人々の意思を適切に集約できるのだろうか。

さて、この自分で決めるということが自由であるということで、原則であるのを、自分たちで決めるにしたのが民主制ということですが、各個人が自分で決めることをまとめても、自分辰で決めるということにはならない。それは各個人の多様性ということです。自分が他人に行動を強制されないことが自由でそれが原則ということは、他人が自分に行動を強制する可能性があるということです。しかし、他人から強制されても、自分がそれをすべきと考えていれば、自分はそれを強制されたとは考えません。従って、この場合は自分と他人がすべきと考えていることが違うという前提がなければ成り立ちません。

多様性ということは、自分と他人とは違うということです。それが前提としてある。だから、自分で決めるということと自分たちで決めるということは一致しません。自分たちというのは複数の人間が含まれることになりますが、それぞれが自分でないわけで、それぞれが違う自分なわけです。当然、それぞれの自分で決めたことは違います。その場合、自分たちで決める、結果をひとつにまとめることはできるのか、そのときに意見の集約(ひとつにまとめる)方法として多数決という方法が使われるということです。ただ、単にそれぞれの人の言っていることについて、似ている言い分を括ってまとめるなどして集計しても、それで決定ということにはならないでしょう。そんなことでは、自分の言い分が通らない人は納得しません。そこで、多数決の結果が決定として認められて成立するためには条件があるということになります。それは、投票する人たち全員が平等に十分な情報を得ていること、異なる意見とも議論をしたりして、自分だけのためでなく全体のためということを十分考えて出てきた結論を投票するということです。しかし、著者はそれでも、投票の方法によっては結果が異なってくるというおそれを指摘します。

 

2000年のアメリカ大統領選挙を例に挙げよう。当初の世論調査では、民主党の候補ゴアが共和党の候補ブッシュに勝っていた。だが途中で泡沫候補のラルフ・ネーダーが立候補を表明、最終的に支持層が重なるゴアの票を喰い、ブッシュが漁夫の利を得て当選することとなった。多数決は「票の割れ」にひどく弱いわけだ。

多数決という語の字面を見ると、いかにも多数派に有利そうだが、かならずしもそう働くわけではない。とはいえそれは少数意見を汲み取る方式でもない。おそらく多くの人は、多数決に対するそのような違和感を、どこかで感じたことがあるのではないか。それができれば、より優れた意思集約の方式を作れるはずである。またそうした方式作りの可能性を追求することで、何が不可能なのかも見えてくるだろう。多数決を含むあらゆる意思集約の方式は、多を一に結びつける関数として数学的に表わすことができる。であれば「違和感」や「優れた」などの主観的な感覚をも、関数の性質として定式化し扱ってしまえばよい。

 

2000年のアメリカ大統領選挙は、この人に大統領になって欲しいという突出した候補がいなくて、実質的にこの人だけにはなって欲しくない人を落としていくという選挙になるべきであったのが、予定外の第三の候補者がでてきたことにより、一番なってほしくない候補者が当選するという結果になってしまった。それは、本当にみんなの意志を反映しているのか、そこに投票の方法が意志と食い違っていたのではないか、と著者は問題提起します。この大統領選挙が間違っていたとはいえないでしょうが、少なくとも多数決の投票という制度を自明のものだとして、何の疑いも持たずに、その結果を見て、民意などと錯覚してしまう政治家もいることなので、それがみんなの意志と食い違うようであれば、それは問題ですから、ここで多数決のシステムを一度考えてみましょうということです。

著者は統計にずっと携わっている人なのではないかと思われるところが見受けられます。それは多数決の集約の方法に対しては問題意識を持っているのはわたるのですが、それは方法論の試みのような問いかけとしてです。そもそも、人間と言うのは多様なもので、それを、どんな方法にせよ多数決という集計の対象にするということは、数という抽象的なあり方に置き換えることを意味します。そのプロセス自体は自明として、何のアプローチもしていません。そこにある疎外の事実を棚上げしている、と私には考えられます。それは、新書というスペースの制約のためなのか、わかりませんが。全く触れられていないのが、解せないところです。

 

民主的でない投票はあるが、投票のない民主制はない。投票でどの方式を用いるかは、民主制の出来具合を左右する重大要素である。複数の候補者から一人の政治家を背移出する選挙を例に、多数決という投票方式についてさらに考えてみよう。多数決のもとで有権者は、自分の判断のうちごく一部に過ぎない「どの候補者を一番に支持するか」しか表明できない。二番や三番への意思表明は一切できないわけだ。だから勝つのは「一番」を最も多く集めた候補者である。そのような候補者は広い層の支持を受けたものとは限らない。極端な話ある候補者が全有権者から「二番」の支持を受けても、彼らが「一番」に投票するのであればその候補者には1票も入らない。ゼロ票である。これは多数決に問題があるのではないだろうか。しかし多数決を採用しているのは人間である。多数決を自明視する固定観念が悪い。ではいったい私たちは多数決の何を知っているのだろうか。それはいつ、何を対象として、何のために使われるべきものなのか。利用上の注意点は何か。どんな時に他の手法に取って代わられるべきなのか。多数決をするとしても、重要な物事を決めるときは、何%の賛成が必要とされるべきなのか。家電製品のように説明書が要るのではなかろうか。

2015年9月17日 (木)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(1)

他人にあれこれ指図されるのは嫌だ。自分のことは自分で決めたい。自由に決定させてくれ。だが決定とは選択肢を最後の一つにまで絞り込み、他の可能性を全て捨て去ることだ。いかに豊かな選択肢のなかから選び取ろうとも、熟慮の末に判断したものであろうとも、それは自らを身動きの取れない状況に置くという、ひどく拘束的な行為である。であれば自由の特徴とは、拘束する者とされる者との一致にほかならない。自分のことを自分で決めさせろという希求は、自分のことは自分で決められるはずだという期待に基づいている。この期待はそれが自分に可能だという、希望の発露の一種である。こうした意思を「自分」でなく、「自分たち」に適用したとき、それは民主制を求める思考の基盤となる。伝統や権威、宗教や君主に任せるのではなく、自分たちで自分たちのことを決めてみせよう。どうせ決定は拘束を生み出すのならば、その決定主体は自分たちにしてみせよう。民主性には多様な制度形態があるけれども、その基本理念とは、およそこのようなものである。

まず、著者は民主制の基本理念として自由ということを第一に挙げます。ここで言う自由とは、端的に言えば「自分のことは自分で決める」ということです。そして、このときの「決める」ということを突き詰めると、数多ある選択肢を絞っていくことといいます。その絞るプロセスにおいて、絞るということはいくつかの選択肢の中から選択肢をピックアップすることで、ピックアップされなかった選択肢は捨てられる結果となります。この捨て去った選択肢は、別の言い方をすれば可能性ということができます。つまり、選択肢を捨て去るということは、他の可能性を捨て去ることでもあるわけです。だから、他にもあった可能性を捨て去ることによって、選択の対象となる可能性は限定される。その選択が、何かの行動をおこす内容の選択であれば、その行動することは限られてくることになります。それゆえに、自分で他に行動できるかもしれないことを、できないことにしてしまうことなる。それは行動を自分で縛る、拘束することになるわけです。それは、自分で自分を縛るからいいのであって、これを他人に縛られれば強制されたということになるわけです。「あなたは、これをしなければならない」と強制されること、それは不自由に他なりません。つまり、自由とは自分を縛ることができるのは自分だけであるということになるわけです。

ただし、他人に行動を強制された場合、たとえば会社で上司の命令で何かを行った場合、その行為によってトラブルが発生したとしても、当人が命令のとおりに行為したのであれば、その責任は上司及び会社にあるわけです。しかし、強制されていないで自分で「決めた」というのであれば、責任は決めた自分にあります。だから、「決める」ということには責任を負うということが前提されていて、「決める」ときには、その責任をとることができることを前提に決めることになります。ここで著者が言っている「決めることができる」というそういうことでしょう。だけど、それは実際には、やってみなければ分からない。だから、できるはずだという希望でしかないのです。実際には。

この「自分で決める」の「自分」を「自分たち」にしたのが民主制の思考基盤といいます。伝統や権威、宗教や君主といった決めて強制する機関に任せるのではなくて、自分たちで自分たちのことを決める。その結果、自分たちで自分たちを拘束することになっても、自分たちで決めたのだから、というわけです。それが自由ということです。

さて、ここで著者は敢えて触れていないのか、意識していなかったのか、これからの議論には必要なかったからか、「平等」ということには一言も触れていません。常識的に民主主義といえば、自由と平等がセットになって考えられます。歴史を繙けば、近代民主制以前の、君主制や貴族制では、それこそ伝統や権威、宗教や君主といった決めて強制する機関によって決定がなされていたわけで、「自分たち」が決定に参与できないというのが不平等として、「決める」人と「行なう」人が別々にならないということが平等であるという面でも求められたのが、民主制のもう一つの側面であるはずです。そして、往々にして、自由と平等とは、実は異質な概念であったため矛盾するところがでてくる。それを議論していくと、この著作の本意から外れて脱線していってしまうからでしょう。しかし、これから議論されていくことには、平等という側面から、違った見え方をしてくるのは明白で、そこに言及されていないのは、残念というしかありません。

2015年9月16日 (水)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(10)

1990年代以降の世界経済の大きな潮流は、日本やドイツなどの産業大国が没落し、その半面で、アメリカ、イギリス、アイルランドなど脱工業化を実現した国が目覚しい発展を遂げたことだ。このような現象が生じた原因は80年代以降の世界経済構造の大変化である。第一に、アジア新興諸国が工業化した。韓国、台湾、シンガポール、香港に続いて中国が工業化し、これらの諸国が安い賃金で工業製品を安価に製造できるようになったため、先進国における製造業は、優位性を失い、製造業中心国が立ち遅れたのだ。

大量生産の製造業において重要なのは、新しいものの創造ではなく、規律である。全員が共通目的の達成を目指して、与えられた職務を正確に遂行することが求められる。また、金融も、市場メカニズムに従って資金配分が為される直接金融よりは、資金配分を政府がコントロールできる間接金融の方が都合がよい。この体制は1940年頃の世界では決して特殊なものではなかった。第二次大戦後の社会でも、70年代までは、技術の基本的性格はそれまでと同じものであり、したがって産業構造もそれまでと同じものだった。この時代の中心産業は、製造業、とりわれ鉄鋼業のような重厚長大型装置産業と、自動車のように大量生産の組み立て産業である。そのような環境の中で、戦後も戦時経済体制を維持し続けた日本が良好な経済パフォーマンスを実現できたのは、当然のことである。

しかし、1980年代以降の世界では、技術体系に大きな変化が生じた。それは情報処理と通信の技術が、集中型から分散型に移行したことだ。この変化は、経済構造の根幹に本質的な影響を与えた。情報処理システムが集中型だった時代には、経済システムでも中央集権型が有利だった。日本の戦時経済体制も、中央集権的な色彩が強いので、古いタイプの情報システムに適合していた。所が、90年代以降の情報技術の変化は、このパラダイムを根本から変革した。分散型情報システムが進歩すると、分権型経済システムの優位性が高まる。したがって計画経済に対して市場経済の有利性が増し、大組織に対して小組織の優位性が高まるのである。具体的な経済活動の内容でも、産業革命型のモノ作りでなく、金融業や情報処理産業の重要性が増す。中国等の工業化の影響と共に、このような技術上の大変化が、産業構造の変革を要請したのだ。こうした経済活動においては、ルーチンワークを効率的にこなすことでではなく、独創性が求められる。したがって、集団主義でなく個性が重要になる。政治的にも、地方分権が望まれる。統制色の強い戦時経済的な経済体制は、新しい体系の下では、優位性を発揮できず、むしろ変革と進歩に対して桎梏となるのである。

 

1940年体制を構成するいま一つの重要な要素は、企業別労働組合、年功序列賃金、終身雇用制によって構成される「日本型企業」である。これらについても、1990年代後半以降、製造業の成長が頭打ちになるにつれて、労働組合の影響力は低下し、終身雇用制は保障されなくなった。雇用構造が正規労働者を中心とするものから転換し、非正規労働者が増加した。賃金構造も変わった。しかし、日本企業の特徴である閉鎖的で、外に向かって開かれていない点は変わっていない。終身雇用制や年功序列賃金は崩れつつある。しかし、企業間の労働力移動はいまだに限定的だ。とりわけ、企業の幹部や幹部候補生が企業間を移動することは、めったにない。経営者が内部昇進者であることは、少なくとも大企業に関する限り、全く変わらない。日本には経営者の市場が存在しない。経営が組織の範囲を超えた普遍的な専門技術であるという認識がないからだ。このため、日本大企業で、内部昇進のルートを通らない最高幹部が誕生したのは、経営破綻した日本長期信用銀行の後身である新生銀行、経営危機に陥った日産自動車、破綻した日本航空など、破綻した企業または破綻の危機に瀕した企業でしか見られない。大企業の幹部は、経営の専門家でなく、その組織の内部事情の専門家であり、過去の事業において成功してきた人たちだ。従って、企業経営の究極的な目的は、これまで続いてきた企業の姿と、従業員の共同体を維持することに置かれる。時代の変化に適応して企業の事業内容を変化させることは、それに比べれば下位の目標とされる。従って、環境が変わっても、過去に成功した事業を捨てることをしない。過去に成功した人々が実権を握っているため、過去の成功に囚われて、変化する世界の中で変革を拒否しているのである。このため、本来を未来を開く推進力となるべき企業が、変革の意欲を持たず、現状維持勢力になってしまう。世界経済の大変化にもかかわらず、これまでのビジネスモデルを継続することに汲々とし、企業の存続だけを目的とするようになる。

日本企業の第二の特徴は、市場システムに対する否定的な考えに強く影響されていることである。利益の獲得を罪悪視し、従業員の共同体的性格が強い組織の存続を何よりも重要な目的とする。株式会社制度は、株式の売買が自由に行われることを前提にしたものだ。それによって、業績の振るわない企業の株価が下落し、経営に影響が及ぶことが期待されているのである。しかし、日本の大企業の多くは、株式の持合によってこうした圧力から守られている。また、外資の参入に強く抵抗する。このため、市場の圧力が経営に影響しない。この意味においても、日本の大企業は閉鎖的である。

以上で見た日本企業の特性は、日本社会の必然であり、日本社会に固有のものであると考えられることが多い。しかし、戦前の日本企業は、戦時の日本企業とは極めて異質のものであった。日本にも「欧米流の資本主義」があったのだ。だから、いまの体制が日本に固有のものだと考えるのは、間違いである。

日本企業が変革できない基本的原因は、日本企業が資本面で国際競争にさらされていないことである。資本面から見ると、日本は鎖国しているしとか言いようのない状態だ。このため、経営者が直接に競争にさらされることがない。競争は経済パフォーマンスを向上させる最も基本的な手段であるが、日本では製品の競争はあっても、経営者や資本面の競争はないのだ。

 

お国自慢という差異の戯れの閉塞感

ふと甲子園の高校野球のことを思った。各県の代表が一ヵ所に集まって、その高校の範囲を越えて県という地域を郷土に置き換えて、その地域に関係のある人々が応援に興じるというイベントとして捉えられる。 ここでの郷土というのは、甲子園という一ヵ所、というよりはそれを日本全国に放送するテレビ局のキー局である東京に集められて横一列に並べられる程度の同質性の高いものに、本質的には、なっている、ということの端的なあらわれといえるのではないか。そこでの各地域というのは、別の地域とのわずかな差異のみで意識的に差別化されている。つまり、例えば、神奈川県という行政地域は、その地域だけが独立して個性があるというのではなくて、とりたてて特徴があるわけではないので、隣の東京や静岡との少しの差異を強調して、静岡とちがっているから、それが特徴だというような隣に依存したものとなっている。そのような各々の行政地域が自立した個性を持てない、どんぐりの背比べが一ヵ所にあつまり、同一のものさしのうえで、競争に興じているという様子といえる。 それは、図式的に言えば、近代以降の管理社会ともいえる統合的で同質性のつよい体制、それは効率の良い社会でもある。だから、一方では、いじめを生んでしまうような息が詰まるような閉塞感を甲子園の野球大会を見ていて強く感じさせられもする。

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(9)

第11章 経済危機後の1940年体制

世界経済は、2007年から09年頃にかけてつね大きな経済危機を経験した。それは1970年代生じた石油ショックと同等、あるいはそれ以上の打撃を世界経済に与えた。ここで注目したいのは、石油危機と今回の危機では、危機後の日本経済のパフォーマンスに大きな違いがあったことである。70年代には、日本経済は石油ショックによって大きな打撃を受けたものの、比較的早期に立ち直り、80年代以降の世界経済で目覚しい躍進を遂げた。その反面で、アメリカやイギリス経済はスタグフレーションに陥り、長期にわたって立ち直ることができなかった。今回の世界経済危機においても、日本経済は大きな打撃を受けた。しかし、危機の原因を作ったアメリカ経済が危機から脱却したにもかかわらず、日本経済は10年にいたっても、危機前の経済活動水準を取り戻すことができない。日米間において、石油ショック時とは逆の現象が生じている。石油ショックと金融危機という二つの経済危機の結果で、なぜこのように大きな違いが生じるのだろうか?その疑問を解く鍵は、1940年体制にある。石油ショックの克服過程で40年体制がポジティブな役割を果たしたのに対して、今回の危機の克服に対してはネガティブな影響を与えたのだ。

1970年代の石油ショックは、第四次中東戦争の中で中東産油諸国が原油価格を引き上げたことによってもたらされた。それまで先進工業国は安価な原油の安定的な供給を基礎に経済成長を謳歌してきたのだが、石油ショックは、こうした経済構造を根底から揺るがした。石油ショックまでは「物価が上がれば失業率が低下する」という関係にあったのが、石油ショック後には「物価も上がるし、失業も増える」というスタグフレーションの状態に陥ってしまった。その後、世界経済は徐々に回復していったが、国によって大きな差があった。アメリカやイギリスなどの欧米諸国では経済停滞が長引いたが、日本経済は比較的早期に立ち直り、ドイツと並んで世界経済をリードした。イギリスやアメリカでは、経常収支の赤字が拡大し、その結果、為替レートが減価した。本来であれば、これによって国際競争力が回復し、経常収支赤字は縮小に向かうはずだ。しかし、為替レートの変化が貿易数量に効果を及ぼすのには時間がかかる。それにより早く為替レートの減価が輸入物価を引き上げ、それによって国内インフレが亢進する。それが賃金を押し上げ、為替レート減価による国際競争力向上分を打ち消してしまうのである。こうして、イタリアやイギリスの通貨に対する信認が失われ、1976年にはリラ危機、ポンド危機が発生した。これに対して、日本では賃金上昇圧力が低かったため輸出が増大し、経常収支黒字が拡大した。これにより円高が実現し、輸入インフレを軽減できた。このため国内インフレが抑制された。また輸出拡大によって不況も克服された。かくして好循環を実現できた。このように、石油ショックへの対応において、賃金決定のメカニズムが決定的な重要性をもったのである。欧米諸国では、物価スライド条項を含む賃金協定が普及していたので、インフレが亢進すると賃金が上昇する。したがって、不況であるにもかかわらず賃金が上がる。これがスタグフレーションに他ならない。こうした事態に対処するため、ヨーロッパでは所得政策の導入が論議された。これは、賃金などの所得を政府が統制して、生産性上昇の範囲内に抑えようとするものだ。しかし、これは統制であるから、自由主義経済では実現は難しい。ところが日本では、所得政策と同じことが、自然発生的に実現できた。戦時経済体制を引き継いだ日本では、労働組合が企業ごとに作られており、企業別賃金交渉を基礎にして賃金を決めるという仕組みが定着していた。しかも、家族的企業観のもと、インフレにあわせて過大な賃上げを要求すると会社が沈んでしまう。だから、労働組合は経営者と一体となり、賃上げよりも会社の存続を優先した。

また、イギリスのように労働組合が強いと、配置転換に対する反対が強く、労働の流動性が阻害される。このため、イギリスでは、経済の構造変化に対して労働力を弾力的に移動させることが求められるのにも関わらず、それが実現しなかった。これに対して日本では、企業内での配置転換は比較的容易に行なえた。このため、経済の構造変化に対する対応が柔軟に行なえたのである。

この経験から、「日本型システムはどんな場合にも優れたものだ」という過信が広がった。同時に戦時経済システムが生き残るばかりでなく、むしろ強化する結果となったのである。仮に石油ショックがなかったとしたら、こうはいかなかった可能性が高い。戦時経済システムは徐々に変質し、より自由主義的で、グローバル・スタンダードに近い経済が実現されていたことだろう。もっとも、40年体制は全ての面で元のままの形で残ったわけではない。80年代から90年代を経て変化を余儀なくされたのである。1940年体制の中核的な部分は官僚制度と金融・税財政制度であるが、金融制度と官僚制度における40年体制は大きく変質死、主要な要素は変質した。しかし、現在に至るまで余り変化が見られず、依然として根強く残っている分野もある。その第一は税財政制度だ。給与所得税と法人税を中心とする税制の構造は、ほとんど変わっていない。また、地方財政が国の財政に大きく依存する構造も変わっていない。そして第二に、日本型企業の閉鎖的体質だ。そして市場メカニズムを大きく否定する考えである。

2015年9月15日 (火)

かわいいという閉塞感

思いつきかもしれないが、日本文化(というものがあったとしての話だが)が異文化と接触した時、古代から中世にかけての中国や朝鮮の文化がそうであるし、幕末期の西洋文化がそうだろうけれど、幕末期の西洋インパクトを考えてみると、中国や朝鮮のように拒否反応を起こしたり、逆に帝政ロシアのような事大主義的にそれ一色に染まってしまうというのではなく、既存の自文化と妥協し矛盾の発生を抑えながら、ゆっくりと取り込んで、しまいには同一化していく。

よく言えば柔軟性のある寛容な文化ということになるのだろうけれど、別の視点でいえば、貪欲になんでも呑み込んでしまうとも言える。

これは逆に、日本文化が西洋文化に触れた時に、かつての浮世絵や磁器がそうだったように、最近ではマンガ・アニメなどのサブカルや和食など、ゆっくりと浸透し、いつのまにか現地の文化に溶け込んでcoolということになってしまう。

日本文化が異文化を受け入れるときの柔軟な貪欲さが、逆方向になるとまるで癌細胞のような貪欲な侵食をしてしまう。

これは、その文化の内部にいる者にとっては、ある意味同一性の圧力を不断に受けているということになる。端的な例が、“カワイイ”ということだ。“カワイイ”というのは一見、形容詞のようだが、実は、反対概念がないのだ。つまり、この“カワイイ”というのは対象を受け容れてしまうことを指している。その“カワイイ”をうけいれることで同一性を担保していることになる。“カワイイ”は柔軟に受け入れてしまうので、そこでの個人の葛藤は生まれない。個人は、いつの間にか、“カワイイ”の同一性の中に取り込まれている。そこで、個人としていようとする場合、息が詰まるような閉塞感にとらわれるのではないか。と、このごろ思っている。

その証拠として、“カワイイ”といえない、美しい芸術とか、そのたぐいのものが、この国には生まれていない。もしかしたら、私が見つけられないだけかもしれない。今、それを探し始めた。 

2015年9月14日 (月)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(8)

第8章 40年体制の基本理念

40年体制の特徴として第一に挙げられるのは、生産者優先主義である。つまり、生産力の増強がすべてに優先すべきであり、それが実現されれば様々な問題が解決されるという考えである。戦時経済においてこれが要求されることはあきらかだ。しかし、戦後の高度成長期においても、この考えが支配的だった。経済が成長すればその成果として人々の生活が豊かになるはずだし、生活を豊かにするにはそれしん方法がない、という考えは社会的コンセンサスを得ていた。本来であれば、生産力の増強は、手段に過ぎない。しかし、こうした状況が長く続くと、それ自体が最終的な意味を持つものであるような錯覚が蔓延する。手段が目的化してしまうのである。生産者優先主義は、普遍的な価値観にまで高められた。このような価値観は、「仕事が全てに優先する」という会社中心主義と巧みにマッチした。生産性向上の成果を賃上げで蚕食してしまうのではなく投資に回してさらに会社を発展させるという方針に異議を唱える人は少なかった。従って、労働組合も、過激な賃上げ闘争を行なうことはなかった。

40年体制においては、企業という生産のための組織が、従業員の相互補助的な共同体としての性格をもち、しかもそが生活の基本的単位となっている。そして、各組織は外に対して閉鎖的であり、これらの間の移動は極めて限定的である。新卒者が企業に就職する時、「雇用契約に基づいて雇われる」というより、「共同体の一員になる」と考えるのが普通である。このように、戦後の日本では、最も重要な共同体は「会社」になった。このことは、日本人の思考様式にまで大きな影響を与えた。様々の汚職事件で表出した「会社のためになることが悪であるはずはない」という「会社人間」意識は、その象徴である。このことは、日本人の思考様式にまで大きな影響を与えた。さまざまの汚職事件で表出した「かいしゃのためになることが悪であるはずがない」という会社人間意識は、その象徴である。言うまでなく、多くの人は、消費者であると同時に生産者でもある。また、所得稼得が生活の基本であることを考えれば、生産者の立場が優先されるバイアスは、どんな社会でも多かれ少なかれ見られる。どの国もどの時代の政治システムも、消費者の利益よりは生産者のそれを重視するバイアスを持っている。しかし、ただ一つの会社が生活のあらゆる面をおおう基本的な共同体になるという姿は、決して普遍的なものではない。この意味で、戦時経済以降の日本は、特殊だったといえる。

 

40年体制の第二の特徴は、「競争の否定」という、より原理的なレベルのものである。この体制は、単一の目的のために国民が協働することを目的としている。このため、チームワークと成果の平等配分が重視され、競争は否定される傾向にある。そこでの至上目的は、脱落者を発生させないことである。つまり、全体として、大きな社会保障システムになっているのである。

高度成長期においても、このシステムが経済成長に伴う歪みを是正し、社会的な安定を達成してきた。生産者第一主義と同様、競争否定・平等主義も、ある種の価値観にまでなった。これは、戦後むしろ強化されたといえる。

過当競争ということばが示すように、「競争は悪である」とかる考えが一般的になった。競争とは弱者を無視した強者の一方的な論理であり、したがって、社会的公正の観点から排除すべきだというのである。そして、協調し、共存することこそ、望ましい状態と考えられるに至った。しかも、それが生産者のレベルで主張されることが特徴である。経済学の理論では、生産に関しては市場における競争原理にまかせ、生活の保障はそれとは別に社会保障で行なうべきだとしている。つまり、個人の生存や生活は保障されるべきだが、それは雇用の保障によるものではないと言う考えである。しかし、40年体制の考えは、これとは異なり、生産者に対して生存権を認めようとする。これは、生産組織が社会の基本単位になっているからである。金融行政における「護送船団方式」も、同じ考えに基づいている。預金者保護の名目の元に、実際には、限界的な金融機関の存続を可能とするような政策が行なわれてきた。

競争の否定に関連して「共生」という概念が1992年に経団連が今後の企業のあり方として提示した。「企業と地域社会、企業と消費者、日本企業と海外企業」との間で、それぞれ共生が必要であるという。この「共生」という言葉は「協調」や「調和」を越える意味合いをもっている。「共生」という概念が企業から主張するのは、自由主義経済の最も基本的な原則に対する挑戦である。なぜなら、企業が存続しうるかどうかは、本来は消費者が決定すべきものであるからだ。消費者の要求に応える企業は存続し成長するが、そうでない企業は淘汰されて消滅する。これが市場経済の基本原則である。経済的条件の変化に対して古い企業が死滅し、新しい企業の誕生に道を開くことが、市場経済のダイナミズムの源である。企業同士の縄張りや棲み分けを規定して生き延びようとすることは、本来は出来ないはずのものである。生存の権利は、個人には認められているが、企業には認められていない。非効率な企業や消費者の要求を満たさない企業に「共に生き」られては、消費者は困るのである。共生哲学は、この基本原則を否定し、現存企業の生存権を主張している。それがもたらすものは、競争による変化と進歩ではなく、寡占と規制による停滞の世界である。「共生」という奇妙な概念が経済問題に関してあたかも望ましいことのように考えられるのは、日本社会の特殊事情といってよいだろう。この概念は、日本企業の会社中心主義や働きすぎ等、海外からの日本異質論にこたえるために財界から持ち出されたものである。しかし、これによって、かえって日本社会の異質性が強く現われたことになる。

2015年9月13日 (日)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(7)

第7章 高度成長と40年体制(2)

経済成長というのは、通常はさまざまな部門が不均衡に成長する過程である。戦後の日本の高度成長についても、これが当てはまる。まず、製造業の大企業が、国際的な競争のなかで高い生産性を実現した。これらの企業の多くは輸出産業である。これが日本型システムの第一の構成要素である。しかし、量的に見れば、大部分の労働力は、製造業の零細企業、流通業、サービス産業そして農業等に吸収されている。この部門の生産性、時間的な推移からも、国際的にみても大きく立ち遅れた。こうした状況を放置すると、所得格差、地域格差が拡大し、社会的緊張が高まる危険がある。しかし、日本の高度成長の過程では、そうした摩擦が最小限に食い止められた。所得面では、生産性の低さにもかかわらず、低生産性部門の所得が、高生産性部門と歩調を合わせて上昇した。これは、まず、高生産性部門で実現された高生産性が、労働市場を通して経済全体の賃金を引き上げたからである。それだけでなく、政府が衰退産業に措置を講じ退出の摩擦を最小限に抑え、規制によって低生産性部門を競争の圧力から守った。さらに、補助金や優遇措置などによって高生産性部門からの所得移転を行なった。

さらに生活面で見る限り、都市対農村という地域関係でも格差が拡大しなかった。それは、全体としての経済成長率が高かったためではない。政府が経済活動に広範に介入し、農業、零細産業、後進地域などに対して様々な保護を与えたからである。また、道路を始めとする社会資本や鉄道の整備を、地方を重点として行なったからであった。つまり、大都市圏の企業に対する法人税とし労働者に対する所得税を国が徴収し、これを地方に配分するという地域間移転が行なわれたのである。高度成長の過程で放置されたのは、むしろ大都市であった。

ここで注目したいのは、格差是正のために使われた手段が、教科書的な社会保障制度ではなかったことである。実際に用いられたのは、戦時体制下で導入されたものが多かった。

 

高度成長期における財政の基本的な役割は、マクロ的な貯蓄・投資バランスの観点から見れば、その規模を最小限に維持することによって民間部門の資本蓄積を可能にしたことにあった。この意味で、財政は高度成長というドラマでの傍役でしかなかった。しかし、それは強力な傍役であったと考えられる。なぜなら、財政は、規模の面では小さな政府であったが、質的側面をみると、けっして弱い存在ではなかったからである。この質的側面とは、高度成長に取り残される部門に対して断片的・後追い的補助を行なうことであった。つまり、高度成長に伴うひずみを矯正することによって社会経済の案手を保つことに財政の基本的な役割があった。その原因として、第一に、防衛費の負担が軽かったこと。第二に、社会保障制度の整備が立ち遅れ、年金保険を中心とする社会保障支出の負担が軽かったことだ。

2015年9月12日 (土)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(6)

第6章 高度成長と40年体制(1)

欧米的な企業と異質と言える日本の企業の仕組みの特徴として、次のような点を指摘できる。第一の特徴として、終身雇用と年功序列賃金を軸にした日本型の雇用慣行。第二の特徴として、企業別の労働組合。そして、第三の特徴として、資本と経営の分離が進み、株主代表としての外部取締役がほとんどいないことである。会社の経営陣は、内部出身者によって構成されていて、このシステムのしたでは、従業員が滅私奉公的に企業に忠誠を尽くすことによって、企業の中で昇進し、経営陣に入ることができる。この仕組みが勤労意欲を高めた。その上、企業は従業員に対して、様々な福利厚生サービスを提供している。こうして、日本の企業は、従業員の生活全体を覆う存在になっている。こうして日本的企業における企業と従業員との関係は、単なる一時的な労働契約ではなく、運命共同体的な性質を帯びている。個人の生活のすべてが、会社の盛衰に依存しているのである。このため、企業は株主のものという意識はほとんどなく、労使双方で企業を共同物として協調的に支えてゆこうとするシステムとなっている。

 

日本の高度成長をマクロ的に見れば、高い貯蓄率に支えなられた豊富な貯蓄が存在し、それが次々と投資されていく過程であった。ここで重要なのは、企業への資金供給が間接金融方式で行なわれたことである。40年体制によって確立された金融システムが、始源を成長分野に割り振る上で重要な役割を果たしたと考えられるのである。間接金融方式の下での資金の流れは、金融市場における統制によって強くコントロールされた。これによって、産業構造と経済成長のパターンが影響されたと考えられる。具体的には、第一に、人為的低金利政策によって信用割り当てを行い、基幹産業と輸出産業に資金を重点的に配分したこと、第二に金融鎖国体制を敷いて資金の国際的な流れをシャット・アウトしたことがあげられる。

人為的金利政策は、次の二つの規制によって支えられていた。第一は、金利規制である。1947年の臨時金利調整法により、金利が法的に規制された。第二は、大蔵省の行政指導による店舗規制である。金利を人為的に低く保つことによって生じる既存の金融機関の間での競争に対して、店舗行政によって競争を調整した。その際、経営基盤が比較的弱い中小金融機関が優遇された。この結果、いわゆる資金偏在現象が生じた。中小金融機関は店舗面では優遇されたために預金は集まったものの、金利規制のため一定以上のリスクをもつ中小企業あるいは個人に貸し出すことは難しかった。営業基盤が地域的に限定されているこれらの金融機関は、大企業を顧客に持つことはできず、必然的に余剰資金を抱えることになった。これがコール市場などの銀行間市場を通じて都市銀行に流れていったのである。都市銀行は基幹産業と強く結びついており、吸収した資金を重点的に基幹産業に流した。こうして、金融機関の間には、長期信用銀行・都市銀行を頂点とし、地方銀行・相互銀行・信用金庫・信用組合とつらなる整然たる秩序が形成されることとなった。大蔵省は、護送船団方式をとり、このハイアラーキーを保った。

この結果として、最低限、次のようなことは言えるだろう。第一に、金融鎖国体制がなければ、国際的水準から乖離した低金利政策を長期にわたって継続することは不可能であっただろう。また、もし自由化が早期に行われていたとすれば、発展途上国の一部に見られたように資本の海外逃避が起こり、貯蓄が国内資本の蓄積に向かわなかった可能性も十分ある。また、国内金融が完全な自由市場メカニズムで動いていたとすれば、資本が絶対的に少なく、労働か過剰であった戦後日本のような経済にあっては、資本は労働集約産業に集中し、重工業化は容易に進まなかった可能性が強い。さらに、不動産等への資本の不胎化を生み、生産的資本の蓄積が進まなかった可能性もある。金融コントロールによって、はじめて資本集約的戦略産業への重点的資金配分が可能になり、戦後日本の高度成長の柱となった重化学工業化が可能となったと考えられる。

 

敗戦によって荒廃の極にあった経済を再建する過程で、財政は主役的な役割を演じた。財政は主役的な役割を演じた。財政を通じて巨額の資金が産業に供給され、それが復興のキイ・ファクターになった。当初は、産業活動のベースを支える銀行部門が損失を補償され救済された。次のステップは、46年から47年の傾斜生産方式によって基幹産業の再建が図られた。これは、乏しい資金を石炭・鉄鋼を中心とする重点産業に傾斜的に配分し、それを踏み台として次々に生産を拡大させようとする政策である。復興の初期段階における財政の役割は、国民大衆に耐乏生活を強制し、その犠牲によって調達した資金を基幹産業に供給するためのパイプであったといえる。

しかし、1949年を境として財政の性格は変貌し、高度経済成長の財政の基本的な性格が形成されていく。1948年の占領軍による、ドッジ・ラインは補助金を切って国内需要を圧縮させ、それによって一挙にインフレを収束させようとするものであった。このため、一般会計のみにとどまらない総合的な収支の均衡化が図られた。いわゆる超緊縮予算である。この後、1960年まで、一般会計は、国債に依存しない均衡予算主義を貫いた。

ドッジ・ラインはインフレの収束を目的とし、その成果を果たしたが、このときの緊縮予算の政策が、それ以降の財政・金融構造に基本的な性格付けを与えることになった。それは、財政の規模を最小限に維持することによって、家計の貯蓄を財政が吸収せず、企業が大幅な資金不足部門となることを可能としたことである。こうして、家計部門で発生する貯蓄を民間の設備投資に振り向けることを可能にした。つま、高度経済成長を可能としたマクロ経済的な条件は、貯蓄・投資のバランス上、財政部門が大幅な資金不足部門とはならなかったことである。一般会計を中心とする財政の機能は、成長分野をリードすることではなく、成長から取り残される部分に補助を与えることによって、高度成長の摩擦を調整することに移行した。こうして財政は主役から傍役に後退し、それに代わって金融が主役として登場することとなった。

 

日本型企業、経済成長、間接金融という三者の間には密接な関係がある。日本型経営システムにおいては、年功序列賃金と終身雇用を同時に実行しなければならない。年功序列賃金と言うのは、最初に低い賃金で我慢して、後でそれを取り戻すという意味で、ネズミ講と同じ原理なので、これを継続するには、中高年労働者の比率を維持しなければならない。そのためには、企業は常に成長していなければならない。こうして日本型経営の企業は、成長を余儀なくされる。逆に、企業規模が拡大すると若年労働者の比率が高まり、年功序列賃金の下では平均賃金は低下する。このため、競争力が強化される。このように、日本型経営システムが円滑に運営されるためには、高い経済成長が必要であり、逆に日本型経営システムは高い経済成長を生む原動力ともなった。企業の目的は、利潤追求ではなく、成長そのものとなる。そのためには、資金を借り入れで調達することが必要であり、また、有利でもある。こうして、日本型経営システムと間接金融は、密接に結びつくことになる。

このようなメカニズムに組み込まれた主体を整理すれば、基幹産業における大企業と金融機関である。ここには、重要な主体が欠落している。それは、貯蓄の供給者たる家計である。これは、国民の零細貯蓄がより有利な収益を得る機会を奪われたことを意味する。しかし、同時に、つぎのことに注意する必要があろう。第一は、高度成長によって賃金水準が極めで急速に上昇したことである。高度経済成長期において卸売物価がきわめて安定していたにもかかわらず消費者物価が上昇した原因は、主としてこのような二順構造に伴う相対価格の変化である。第二は財政を通じて後進部分への所得移転が行なわれたことである。このように、高度成長のシステムは、家計をその中に含まないシステムであったものの、高度成長の成果は、確実に彼らに還元されていたのである。

2015年9月11日 (金)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(5)

第5章 終戦時における連続性

太平洋戦争の終結により、日本は連合国の占領下に置かれた。占領軍司令部は日本民主化のための五大改革として、婦人解放、教育の自由、専制政治からの解放、経済民主化、労働者の団結権を内容とするものであった。ここから、財閥解体、農地改革、新教育制度などの戦後改革がスタートする。

 

戦後改革によって日本経済の仕組みは大きく変わったはずである。しかし、官僚制度、とりわれ経済官僚の機構は、ほぼ無傷のままで生き残った。終戦によって、政府の機能は戦争の遂行から経済再建へと大転換し、国家公務員法の改正や人事院制度などの改革は行われた。しかし、行政実務的な意味での制度とその運用の実態は、戦時の体制が継承されたのである。官庁で解体されたのは軍部と内務省だけであった。さらには、地方自治がうたわれたにもかかわらず、財源は依然として国に集中されたままで、国策会社や軍需会社、預金部資金制度、食糧管理制度なども存続したのである。

官僚機構が無傷で残った要因は、占領軍が直接軍制ではなく、日本政府を介して間接統治を行なったからである。しかし、本当の理由は占領軍に、日本の経済システムを根底から変革しようとする意図はなかったといえる。占領軍の主目的は武装解除、潜在戦争能力の除去だったからだ。経済政策に関しては、連合軍司令部の経済問題に対する無理解に対して、日本の官僚が巧妙な抵抗をしたことにより生き残った。そして、1948年の逆コースで占領政策は大きく転換した。この背後には、中国情勢の変化を始めとする冷戦の激化があった。アジア唯一の工業力を共産主義からの防波堤として活用すべきであり、日本の経済復興に手を貸すべきだと言う方向に転換したのである。

 

2015年9月10日 (木)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(4)

第4章 40年体制の確立(3) 現在の日本では、持ち家率が極めて高いが、1940年以前は、むしろ借家住まいが一般的であり、住居の流動性は高かった。1889年に制定された民法では、借地借家契約は、契約自由の原則に委ねられていた。1921年の借地法は地上権と賃借権を借地権として一体化させ、短期間の借地契約を禁止することで、建物を保護、つまり、投下資本の回収を保障することを図った。この背後には、東京下町の商工業者の保護、つまり、第一次世界大戦後の経済発展の中で、地主階級に対する新興の産業家階級の勢力増大という意味である。都市への人口集中が進み、住宅問題が表面化し始めたが、政府は市場の需給関係によるものとみて、家賃統制には反対の立場であった。それが1941年の借地法・借家法の改正で政策が転換する。この改正の焦点は、地主・家主の解約権の制限にあった。そして、借家法では家賃統制を徹底させた。家主の解約権を制限することで、借家人を追い出して闇価格で新しい借家人を入れることをできなくした。これは、すでに賃貸している住宅について、世帯主が戦地に応集した後に残された留守家族が、借家から追い出されることを防ぐ目的もあった。このように法改正は戦時体制の一環であり、社会政策立法として大きな役割を果たした。 戦時期の農政官僚は、小作貧農の救済に使命感を持っていたと思われる。農地調整法により小作権を物権化して地主により土地の取り上げを実質的に禁止し、国家総動員法の一環として小作料統制令を制定し小作料の引き上げが禁止となった。そして、1942年の食糧管理法により米は国家管理の下に置かれた。江戸時代以来、小作人は地主に収穫の半分程度の小作料収めていたが、これにより小作人は原則として地主ではなく政府に米を供出し、その代金を地主に払うこととなった。小作人は政府から直接収入を得ることとなり、さらに政府は増産奨励金を交付して高く買い上げる一方で、地主には交付しなかった。そして、地主に払う小作料は据え置いた。これにより小作制度は事実上形骸化していった。これは、小作農の負担を軽くして、彼らの増産意欲を高めることにあった。

学問って、胡散臭い?

私の在学した大学の法学部は法学科という単一学科で、法律を勉強する者と政治学を勉強する者とが分かれていなかった。学校は総合的に学んでもらうことを考えていたのかもしれないが、入学試験を受けるときには、あまりそんなことは考えなかった人が多かったのではないか。それで入学すると、法学部だからということで法律を勉強しようとする。しかし、法律は煩瑣でややこしい、条文や判例など覚えることがたくさんある。どうせ司法試験を受けるわけでもないので、と挫折するものが出てくる。それで、別のコースということで政治学に流れてくるというパターンが結構あった。私は、日和って政治学に傾いたクチだが。そんなわけで、政治学っていう学問分野はなんとなく胡散臭い感じがつきまとって離れなかった。第一、政治学を学んでも政治家になるわけでもない。学んでいる内容も、政治家向けではない。それがさらに昂じたのは、就職活動のときだった。企業の担当者と面接したり、話を聞いたりしたときに、政治学って何の役に立つのか、そもそも学問なのか、そんなことを訊かれた。そのとき、自信をもって答えることはできなかった。 ただ、そういう胡散臭さがあったことと同居ように、そうであったからこそ、自問することをするようになったと言えるかもしれない。そもそも、政治学に限らず、学問というのは胡散臭いものではないかと思っている。学問のおおもとと言える哲学は、フィロソフィーで知(ソフィア←セント・ソフィアって上智大学のことだっけ)を愛するということなのだから。そして、プラトンはその行為自体をエロスといったわけで、これを胡散臭い言わずに何と言えるだろうか。

2015年9月 9日 (水)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(3)

第3章 40年体制の確立(2)

昭和初期の企業の資金調達は直接金融の比重が極めて高かった点が特徴的だ。これは財閥の力が強かったことにもよるが、金融市場には統制が稀薄であったこと、多額の資産を保有する資産階級が存在したことが要因といえる。他方、間接金融の方は金融恐慌により多くの銀行が休業に追い込まれていた。そのため、金融システムにたいする政府の介入(当初は安定化)が進み、戦時体制のなかで「時局金融」という動きがはじまる。日本興業銀行に強大な権限が付与され、軍需産業への集中的な資金投入が進められ、産業構造が変化していった。消費関係の軽工業の比率が低下し、重化学工業の比率が上昇していった。

企業が利潤を追求するのは株式で資金を調達するからであり、これにかわる資金調達手段があれば、利潤追求か゜なくなるだろうという考えがあり、他方で、企業の側においても、配当制限によって株式市場が低迷したため、市場からの資金調達が困難に成り、従来株式により調達していた長期資金を間接金融システムから供給してもらうニーズが高まった。それがメインバンク制に連なっていく。そして、最後の仕上げとして、日本銀行法が改正された。銀行はオーバーローンとなって日銀に依存する体質となった。各銀行には審査部門が設立された。それまでの銀行は長期金融の経験が乏しく、十分な審査能力を持っていなかったからである。これにより資本市場の役割はさらに低下した。

第3章 40年体制の確立(2)

欧米諸国に遅れて産業化に着手した日本では、産業化が国家の政策的介入によって進められた面が強かった。このため、官僚の力も強かった。明治期の殖産興業政策は、それをよく表わしている。しかし、だからといって、民間経済活動に対する政府の直接的で全般的な介入が行なわれていたわけではなく、その主な役割は民間資本の保護・育成あるいは救済にあり、基本的には営業の自由が貫徹するものであった。

1930年代に入って、昭和恐慌を背景に経済統制が始まった。事業法により石油、製鉄、造船、自動車、有機化学、重機械等の特定の業界で事業経営を許可制とし、事業計画を許可制にする一方で税制上の特典や助成金などの保護育成をするもので、企業の自治が原則とされていた。1940年代には統制会という業界ごとにカルテルを結成し、政府がカルテルを通じて、形式的には民間の自主規制と言う形で、会員企業を統制しようとしたものであった。これが、高度経済成長期の政府と業界団体の原型となったと考えられる。しかし、統制会は十分に機能したとは言えず、より直接的に政府の意向を反映させるべく、非営利の特殊法人であって政府の指導監督に服する営団が作られた。戦後の公団や公庫に引き継がれていく。

このようなプロセスにおいて、統制を進めようとする軍部・官僚とそれに反対する財界との間で、経済体制をめぐって激しい論争が行なわれた。軍部や官僚は、財界の営利主義を非難し、総合的な計画経済の遂行を主張した。これに対して、財界は官僚主義を批判し、民間の創意の尊重を要求した。この時期に重要な役割を果たしたのが革新官僚である。満州国の統制経済の実施や治安維持にあたった新官僚の系譜を引き継ぎ、さらに当時のヨーロッパのさまざまな理念、マルクス主義や国家社会主義などに感化された人々であったといえる。典型的な例が1937年の電力国家管理法案である。ここでは、古典的な私有財産制度を基本的には認めつつも、そこに問題点を指摘し、民有国営論という所有と経営の分離、つまり生産施設を国有化することはしないことで、経営効率の低下を防ぎ、しかし、その使用については公的に管理しようとしたのであった。そこに底流する、従来の法規による取り締まりや監督指導の枠を超えて、国家目的のために高度に組織化された社会への指向が、彼らの核心たるゆえんであったといえる。しかし、彼らは単に国家統制を強化しようというだけでなく、営業の自由や利潤原理の否定という、とくに、資本と経営を分離し、企業目的を利潤から生産に転換すべきというところまで行ってしまう。これに対しては財界から激しい反発が起きる。

明治以降の日本の税制は、地租や営業税という外形標準課税が中心で、産業部門への課税は間接税が中心であった。また、地方税も分権的であった。つまり、1940年以前の財政システム、分散化や分権化の点で、戦後よりもはるかに欧米型に近いものであった。1940年の税制改革により、所得税を基本として、財産税を補完税として、その一部を地方政府に配分することにより地方財政を統制するもので、さらに戦費調達のために給与所得の源泉徴収が導入された。また法人税が独立の税となり、所得税、法人税という直接税を中心に据えた税体系が形成された。以後、直接税中心の税体系は現在まで続いている。

中央集権的な財政の基礎も、この頃に築かれた。この大きなものは地方税制調整交付金制度である。現在の地方財政の基本的な仕組みがこのとき作られ、補助金、交付金などによって地方財政が中央に依存するようになった。まず所得課税を国に集中させて、所得税、法人税を基幹税とする国税の体系を作る。これを財源として、特定補助金を地方に支出し、それによって中央政府の決定した仕事を地方に執行させる。地方税は国税の付加税とされ、標準率が導入された。ここで重要なのは、制度の原点のみならず、運営理念の出発点もここに見られることである。財政調整の基本的な目的は、農村や貧困地方団体の救済である。その背景には農民の困窮への対応がある。このような分配制度、戦後財政の大きな特徴でもある。極めて社会民主主義的な傾向の強い制度であったといえる。一般に大規模な税制改革は政治的な抵抗のために、極めて困難な課題である。1940年の税制改革は戦時という異常な背景のもとで初めて可能になった大改革である。税体系の中心となった、所得税、法人税は所得弾性値の高い税である。これが戦後の高度経済成長のなかで多額の税収を生み出し、戦後の財政を支えることとなった。

社会保険制度も戦時体制として整備された。健康保険制度、厚生年金があまねく企業に普及した。これらの施策の直接的なねらいは、労働者の転職防止にあった。また徴収した保険料を戦費にあてる狙いもあった。しかし、社会保険本来の目的、国民に安心と希望を与えるという目的があったことも否定できない。これは、戦時において動員された大量の労働力に対する最低の生活保障を行なうという背景が指摘されている。

2015年9月 8日 (火)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(2)

第2章 40年体制の確立(1)

40年以前の日本の企業は、教科書の描く古典的な企業像にかなり近いものであった。まず、資金調達面を見ると、株式による資金調達が産業資金の中で大きな比重を知る、自己資本比率は、戦後よりもはるかに高かった。従って企業の支配構造も株主中心で、株式保有は大株主に集中し、その大株主が企業の取締役となり、直接経営陣に参加していた。そのため、配当性向は非常に高く、企業は獲得した利益の大部分を株主に直ちに分配していた。

しかし、日中戦争が長期化し、経済は戦時インフレに陥った。このため、政府は統制経済の採用を迫られ、国家総動員体制の確立へと突き進んだ。国民生活が圧迫される中で高い配当性向は、所得分配の観点から望ましくないとして配当が規制された。さらに、企業は利潤動機に従って行動すべきでないとして、利潤動機の根底にある株主の権利を制限する商法改正を実施し、経営者が株主に誓約されないで増産に専念できるようなシステムの構築が目指された。さらに役員賞与に対しても規制が加えられ、役員の構成も内部昇進役員の比率が高まるような変化が生じた。

このように企業における株主の権限が制限され、企業は従業員の共同体的な性格のものとなった。それをさらに強めたのが、雇用慣行の変化であった。長期雇用契約や年功的賃金は、それまで一部の重化学工業の大企業で徐々に導入されていたものが全国的な制度して普及した。以前のような職能や生産性を反映した賃金体系から、勤続年数を重視した生活給的なものに変質した。1939年には、賃上げを建前として認めないという賃金統制が行われた。このとき、従業員全員を対象にして一斉に昇給させるのは例外とされたため、現在で言う定期昇給の仕組みが定着した。このようなプロセスにより、年功序列賃金と勤続による昇給が一気に普及した。

当時の労使関係は労働者のインセンティブを低め、不安定なものであるとして、産業報告会が制度化された。これは事業所別に労使双方が参加して、労使の懇談と福利厚生を目的としたもので、この背後には従業員を企業の正規メンバーとして位置づけるという、新しい企業理念があった。従来は職員と職工の身分格差が非常に大きかったため、両者を従業員として一括すること自体が大きな変化であった。これが、後の企業別労働組合となっていく。

下請け制度も戦時経済下で広まったという説もある。もともと大企業は部品に至るまで内製で自家生産する方式をとっていたが、戦時期の増産に対応するための緊急措置として下請け方式を採用した。これにより中小企業の技術水準を向上させ、中小企業が安定した受注を得られるようになっていった。

2015年9月 7日 (月)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(1)

本書で描きたいと思うのは、「現在の日本経済を構成する主要な要素は、戦時期に作られた」という仮説である。私は、日本の経済体制はいまだに戦時体制であることを指摘し、それを「1940年体制」と名付ける。これは、二つの意味を持っている。第一は、それまでの日本の制度と異質のものが、この時期に作られたことである。日本型企業、間接金融中心の金融システム、直接税中心の税体系、中央集権的財政制度など、日本経済の特質と考えられているものは、もともと日本にはなかったものであり、戦時経済の要請に応えるために人為的に導入されたものである。第二の意味は、それらが戦後に連続したことである。これは、終戦時におおきな不連続があったとする戦後史の正統的な見方には反するものだ。制度の連続性は驚くべきだが、さらに重要なのは、官僚や企業人の意識の連続性である。私は、40年体制の基本理念が、それまでの日本人がもっていたものとは異質であること、それにもかかわらずそれがいまだに日本人を支配し続けていることを指摘したい。 第1章 われらが出生の秘密 日本の金融界は戦時体制が続いている。現行の日本銀行法は1942年に戦時金融体制のなかで制定されたままであり、市中銀行についても終戦時から銀行数に変化はほとんどない。また、日本を代表する企業の多くは、戦時期に成長してものである。これらは、個別的、限定的なものではない。 これらは、日本経済の基本的なメカニズムの本質に深く関わっている。この体制こそが高度経済成長の中核であり、それだけでなく、現在の日本経済で改革を成し遂げるために大きな障害となっているのも、この体制である。 戦時経済体制に向けての諸改革は、1940年前後な集中して為された。この時期は日本が太平洋戦争に突入する直前であり、総力戦戦うためにさまざまな準備が費用だったのである。そこで、この時期に形成された経済体制を、「1940年体制」と呼ぶことができる。それらが、現在に至るまで日本経済の基本的な仕組みを形作っている。 日本がいまだに戦時体制だとの見方は、従来の定説と著しく異なるものである。正統的な見方によれば、日本の現代史は終戦時に大きな断絶があり、そこが「新生日本の出発点」になったとされているからである。もちろん、こま感化瀬得方は、戦後改革の重要性を否定するものではない。これらの改革が日本社会の上部構造を大きく変えたことは疑いない。ここで指摘したいのは、経済成長の基本的部分では戦時体制が敗戦にもかかわらず生き残ったこと、そして、高度経済成長に対して本質的な役割を果たしたということである。 以上で指摘したのは、戦時体制が戦後に連続したことである。一方、1940年頃の時点に注目すれば、この時点とそれ以前との不連続性の方が重要といえる。日本型企業や業者行政など、しばしば日本特有と考えられているものは、昔から存在していたのではなく、総力戦遂行という特定の目的のために導入されたものだった。しばしば、日本の経済制度は、日本の固有文化を背景にした民族的特性であると言われる。日本型企業や官僚制の原型は、江戸時代の「藩」や「家」に求められる。あるいは連帯意識や平等主義の根源は、農村共同体にあるという見方である。本書が主張する考えは、40年時点での不連続性を強調する点では、不連続仮説のひとつと言ってよい。ただし、不連続が生じた時点について、従来と異なった理解をしているのである。以上のような認識の差は、現在の日本の経済体制が改革可能なものか否かに関して、重要な結論の差をもたらす。日本型システムが日本の長い歴史や文化に根ざしているとの考えは、往々にして、「だから変えられない」という運命論に結びつきやすい。現存しているものが歴史的必然であるという「歴史主義の貧困」に落ち込む危険があるのである。本書はこれに対して、現在の経済体制は日本の歴史においても特殊例外的であり、したがって原理的には変革可能であるという認識に立つ。これは、変化する国際環境の中で、現体制の改革が今後の発展にとってますます重要な条件になりつつあるからである。

2015年9月 6日 (日)

美味しい考(3)

指揮者のカルロス・クライバー、ピアニストのアルトゥール・ベネデッティ・コケランジェリ、マルタ・アルゲリッチといったクラシック音楽の世界では超絶的な演奏をするといわれた人々は、キャンセル魔、というよりむしろ、人前で演奏をすること自体が珍しい事態となっていた。「これは!!」というようなベスト・プレイをしてしまうと、それほどのプレイはめったにできることではなく、そういうプレイをすると聴衆も期待するし、自分でもそこそこのプレイで満足できなくなって、演奏が、ある種の奇蹟的な体験のようなものになった。しかし、そんな超一流ではないけれど、過密したスケジュールでも常に、堅実な演奏をする演奏家もいる。それはそれで凄いことだと思うが、音楽の世界では、最初に名をあげた人々にたいして、凡庸と評価されてしまう。

しかし、これが料理の世界であれば、毎日食べなければならないところで、一生に一度あるかの奇蹟的な体験などというのは意味をなさないといえる。音楽が無くなっても生きていけないけれど、食べ物が無くなれば生きていけない。むしろ、凡庸であることは必須になる。例えば、おふくろの味、などというのは凡庸、月並みであることが生命といえる。時折のハレの非日常的な祝祭のようなときには、附録的な付加価値の面で、豪華なレストランとか料亭という空間とか、盛り付けとか器という見てくれとか、有名店とか高価とかの“ものがたり”を加味すればいい。本質は変わらないし、変わらないからこそ、存在価値があるのではないかと思う。

 

2015年9月 5日 (土)

美味しい考(2)

中国からの観光客が“爆買”するもののひとつに電気炊飯器がある。日本製の炊飯器はかまど炊に、良く似た美味しいごはんが炊けるからという。ちょっと、ひっかかる言い方かもしれないが、日本製の炊飯器がいいということは、かまどの真似が上手ということだ。つまり、かまどのニセモノ。この際に、炊飯だからできる、炊飯器にしかできない独創的な、ごはんのおいしさ、ということを言われることはない。食べ物が美味しいというのは、すでにある美味しい枠が決まっていて、それに当てはまるものが美味しいということになるように思われる。美味しいということは、極端な言い方をすれば既存の美味しいもののいずれかに当てはまる、つまり、陳腐でなければならないということではないかと、思ったりする。

比較するのは偏見かもしれないけれど、音楽であれば、20世紀初頭の無調音楽がセリーに展開して、それまでの音楽という範囲から逸脱してしまったり、絵画で抽象画が描かれて何ものかの対象を写すという絵画のあり方とは別の絵画といえないようなものが出てきてしまった。こんなことは、美味しい食べ物というものでは起こりえないように思う。美味しいという範囲から外れるとマズイということになって、受け入れられず捨てられるのではないだろうか。もし、その人にとって全く新しい美味しいものに触れるということがあるとすれば、異文化の食べ物に触れた時ぐらいではないだろうか。しかし、それは、独創的ではなく、異なる文化の中では陳腐だ。

それは、もしかしたら、口に入れたものを摂取するか否かの最終チェックが味覚でなされると考えると、一定枠に合致するもの以外は排除するというのは、そうでないと生き残れないということになるのかもしれない。

2015年9月 4日 (金)

美味しい考

あるグルメ氏が言うには、美味しい物は誰だって大好きなはずだが、それをもっと美味しくもっと美味しくと追求していくと、あるラインを超えたところからこんどはそれを美味しいと思えない人が急増していくそうだ。美味しい物はみんなが好きだが、もっと美味しければ美味しいほどみんながそれをもっと好きになるとは限らないという。実際に、料理人はよく、自分が本当にうまいと思う物を提供しているのです、と言うがわりとそれは嘘で、言い過ぎかもしれないが、それはあくまでそのお店に来る不特定多数のお客さんに嫌われない範囲でのベストを尽くしている、という程度だそうです。 これは、音楽なんかでも、たしかに同じようなことが言える。例えば、ホロヴィッツという名ピアニストのクリスタルのような輝かしいピアノは、日本の有名な評論家が“ひびわれた骨董品”と評された。好き嫌いということに置き換えられてしまうのかもしれないけれど、ちょっと違う気もしないではない。 で、料理のことに戻ると、みんなが美味しいと思うもの、例えば結婚披露宴のフレンチなんてのはその最たる物で、よほど特殊な場合を除きそれは美味しいかもしれないけれども単に美味しいだけだ。多分、音楽でいえば名曲全集なんていう録音をしている有名指揮者の、誰にでも聴きやすい演奏なんかだ。これに対して、同じフレンチでも小規模なネオビストロのようなところだと、一部に嫌われても構わない、という姿勢のところは少なくないから、単なる美味しいを超えた美味しい物に出会える確率は多少なりとも上がる。グルメブログなんかで、たまにある極端な低評価レビューからそういう店の本当の魅力が垣間見える事は少なくて、本当の美味しい物は嫌われる事を恐れない姿勢からしか生まれないそうだ。 これは、たぶん美味しいものだけに限ったことではないと思う。

2015年9月 3日 (木)

鴨居玲展─踊り候え─(4)~Ⅲ.神戸時代~一期の夢の終焉

鴨居の欧州から帰国後、神戸に居を構え、新たな画題を求めて模索を繰り返すが、従来の作品の焼き直しにとどまり、そのプレッシャーから自らを追い詰めていったという伝記的な説明が為されている晩年の作品です。

Kamoi1982『1982年 私』という作品です。上にあるような伝記的な“ものがたり”がたっぷりと付随して、作品の解説でも次のような“ものがたり”の要素のたっぷり詰まった説明が為されています。“画面中央の真っ白なカンヴァス、その前に憔悴しきった鴨居が座る。その手に絵筆はない。足元に廃兵がにじり寄るが、まわりには、老婆、道化、裸婦、ボリビアのインディオ、愛犬チータなど、鴨居がそれまで描き続けてきた人物が、魂を抜かれたように彷徨っている。明らかにクールベの《画家のアトリエ》の構図を模しているとされるが、画家を親しげにとりまくモデルたちや、誇らしげに筆を走らせる画家のクールベの作品とは対照的である。いわば鴨居と哀楽を共に生きたモデルたちに囲まれた鴨居自身の半開きの口は、「これ以上何が描けるのか」と、声なく叫ぶようで痛々しい。長い滞欧生活を満たす、スペイン時代のような画題にはついに巡りあえなかった。過去をなぞる制作のなかで、焦燥感と苦悩に陥った鴨居が、自身を凝視して辿りついたのが自画像であり、その集大成がこの作品である。鴨居のカタルシスは、この作品の真の主題である白いカンヴァスに、無の境地として象徴されている。”

なんとも大仰な、けれども、作品のそれぞれのパーツに象徴的な意味づけを施して“ものがたり”をつくりだして、それが作品の価値であるというように説明されているのが、よく分かります。べつに批判するつもりはありませんが、この解説者は作品自体の美しさとかそういうものには無頓着で、“ものがたり”という付加価値にもっぱら注目しているように見えます。もしかしたら、鴨居自身も、そういうものに引き摺られたのかもしれません。鴨居作品のキャラ大集合というこの作品を見ると、鴨居の作品は、スペイン以降、画面上にキャラを幾つか生み出し、それが画面の中で組み合わされることで作品が制作されていたものが分かります。それらが集まった画面の全体が暗い色調で、悲劇的な様相を呈しているように見えるところに、鴨居という画家の特徴、あるいは、彼の作品の本質的な魅力があるのではないかと、私には思えます。

Kamoimushipro_2この作品と比較して見ていただきたいのが、手塚治虫のヒーロー大集合といったものです。中央に手塚の自画像が配されて、その周囲に手塚の作品で御馴染みのヒーローが取り囲んでいます。これは、商品として、いわゆる芸術とは異なるといわれればそれまでですが、ここにあるポジティブな明るさは、鴨居の作品に比べて対照的です。それに、油彩とマンガは違うというかもしれませんが、手塚の作品のキャラたちが生き生きとしているのに対して、鴨居の作品のキャラたちは生気がありません。この比較だけをもって短絡的な結論は出したくはないのですが、鴨居の作品にキャラたちは、以前にも自画像のヴァリエーションという解説がありましたが、それ自体が独立していて、本質的な価値のあるものとは、私には見えません。それは、私には、鴨居の自画像も同様であるように思えるのです。このようなことを言うと、作品解説で述べられた“ものがたり”を否定するようですが、そうです、私には、鴨居がどのような生涯を送ったとか、どのような人となりであったかとか、作品制作にあたり悩んだとか、それらはどうでもいいことです。むしろ、作品を見る際には、邪魔でしかないのです。そのように見ると、作品の解説にある“ものがたり”は作品についてオマケでしかない。そういう目で作品を見ると、手塚のキャラクター集合の図案の大きな魅力の要因は、彼独特の線と、その線で形作られる曲線です。その象徴的なものが、その曲線で構成されるキャラクターたちの顔です。それによって、キャラクターたちは生命を吹き込まれていると言えます。他のマンガ家と比べるとこのような点で手塚という人は唯一無比であることが分かります。ここは、手塚を論じるところではありませんでした。では鴨居の場合はどうかといえば、私には絵の具の塗りが鴨居の本質的な特徴ではないかと思います。執拗に、何色もの絵の具を何度も塗り重ねて、作品表面は凸凹になり、たくさんの色を重ねていった結果、色が混ざって、色調は鈍く重くなっていく。さらに、その塗りが刷毛で一様にぬられたのではなく、点描のように細かく一点一点を重ねるように塗られていった結果として塗りが一様でなく、そのムラがうねったり、重層的だったり、それらが画面にダイナミクスを与えているというところです。それが、時には情念をぶつけるように見えたり、心情の揺れが反映しているように見えてきたりする効果を見る者に与えているのです。それは鴨居の習作時代の幻想的な作品や抽象的な作品からキャラを配した具象的な作品を通じて一貫しています。そのような視点で見ると、鴨居の作品では、幻想絵画でも抽象画でも具象画でも、実は変わりないのです。つまり、題材はどうでもいい。このような塗りが生かせるものであればいいのです。

Kamoising『望郷を歌う(故高英洋に)』という作品です。“チマ・チョゴリを纏い硬く握り締められた拳を持ち上げ、朗々と歌いあげる女性が、空中に浮かび上がるように描かれ、高ぶる感情と、力強い存在感が表わされている。鴨居の作品中、ここまで堂々と生を謳いあげ、また生の昂揚感に溢れる人物像は他に類を見ない。”と、ほとんど賛美のような解説がされていました。たしかに、タイトルといい、人物のポーズといい、深いグリーンの空間に白いチマ・チョゴリの衣装で浮かび上がるように、仰角気味に人物像を描いている構図が、そういう“ものがたり”を触発するものとなっているのでしょう。しかし、私には、この作品中の人物が歌っているようには見えないのです。何か、敢えてあら捜しをしてイチャモンをつけているように見えますが、この作品の魅力は、そんな人物の描き方などではなく、鴨居の他の作品では無秩序に見える絵の具の塗りの方向性が、ここでは縦方向と人物の頭の部分の輪郭をなぞるような秩序で、波紋がひろがるように塗り重ねられている点です。それが、見ようによっては人物の光背のように見えてくることで、人物を強調し、見る者の昂揚感を煽るような効果を与えている点です。そして、作品の中心となる人物は、ヨーロッパのバロック絵画の聖母マリアの被昇天を描いた作品のポーズを彷彿とさせるポーズと構図になっている点も、この効果をさらに盛り上げていると思います。そして、このような鴨居の作品が、我々に親しく“ものがたり”を思い起こさせ、感情移入させる傾向をもつのは、何度も触れているような、絵の具の塗りによって、もたらされる効果の副次的なものといえるのではないかと思います。この作品でもそうですが、例えば、この作品では、歌っているとされる女性はこちらを向いて訴えることはせず、むしろ上方を仰ぎ見るように顔を向けて、口を開けています。これはいったい誰に向けて歌っているのでしょう。タイトルの通り、望郷を歌っているのであれば、ステージから客席にいる聴衆に向けて訴えるように歌いかけるのが普通です。その際には、そういう感情を顔に表わして、歌に思いを託すようなポーズをとるのが普通でしょう。しかし、鴨居の作品ではそういうことは全くなくて、むしろ人物の表情を窺い知ることはできないように、描きこまれていません。単純に一般論に置き換える危険は敢えて踏んで、単純化を試みていうと、日本の絵画作品は、もともと全部を描きこまず、細部は省略してしまって、余白を残したりして分析的に鑑賞するものではなくて、情緒的に雰囲気を味わうようなものでした。これに対して、伝統的な西洋の油絵は余白を許さず、部分に絵の具を積み重ねるような描写を積み上げ構築して作品を設計して作り上げるものと言えます。そのような作品は、日本の絵画に比べて濃いもので、押しつけがましく、窮屈に映ります。気楽に眺めるというわけには行かないのです。その点で、印象派というのは、点描的な絵の具の塗り方によって、光で映された光景という見た目の効果に重きをおくということで、対象を客観性をもたせて構築的に描きこむということをしないため、日本の絵画のような一見大雑把に見えます。それだから、日本人に印象派の絵画が人気があるのかもしれません。そこで、鴨居の作品です。鴨居の作品は、西洋の油絵の濃い作品のように見えながら、形態を精緻に描写するのではなくて、大雑把な描き方で、見る者に細部を想像させる余白を巧みに作ることに成功していると思います。それは、点描のような、絵の具を塗りたくるような使い方による効果によると思います。その一方で、確かなデッサン力によって、西洋絵画の体裁を備えているために、ちょっとしたお勉強のような、見る者にとって等身大の目線ではなく、少し仰ぎ見るような目線で作品を見る姿勢になることで、真面目な感情移入をすることの衒いを払拭させている効果を生んでいると思います。だからこそ、『望郷を歌う(故高英洋に)』のようなクサい作品でも、見る人は、それを感じることなく、比較的素直に感情移入することができるようにできているのだと思います。

Grecocon私は、そういう質の高いギミックさがあるという点で鴨居の作品を面白いと思います。それは、鴨居自身は、そのようなことなど露ほども思っていなかったでしょうけれど。

2015年9月 2日 (水)

鴨居玲展─踊り候え─(3)~Ⅱ.スペイン・パリ時代

この展覧会では、鴨居がスペインにわたり、ドン・キホーテの舞台となったラ・マンチャ地方の村に居を構え、そこで制作をした短い期間を彼の絶頂期と解説しています。

穿つような言い方ですが、鴨居の作品の魅力は“何か言いたげ”な印象を見る者に起こさせるところにあり、それには、鴨居という人物の伝記的なエピソードが“ものがたり”の要素を、作品の“何か言いたげ”な印象を補完するように、その印象を強く起こさせることに、結果としてなっているように思います。つまり、作品が作者のイメージと離れていないというものになっている。例えば、スーパーマーケットの食料品売り場で産地直送の野菜のコーナーで生産者の写真とメッセージが添えられて、誰々さんの畑で育てられた野菜として紹介されているところがあります。別に誰の畑で育てられて、その生産者の写真があるからといって、当の野菜の品質を保証するものではない、美味しいとはかぎらないのです。しかし、そういう野菜は生産者の思いが込められている、というようなイメージで思わず手に取る。ただ、ここで言っているのは、そういう野菜がまずいと言っているのではなく、生産者が分かれば野菜が美味しいとは限らないということです。しかし、また、美味しいとかとか不味いというは、あくまで個人の好みに左右されるもので、美味しいと思って食べれば美味しく感じられるということは、よくあることです。豪華なレストランや料亭の一室で、きれいに盛り付けられた料理を、高い料金を払っているから、という思いで食べれば、よっぽど酷いものでない限り、おいしく感じるものです。吉田健一という美食家の評判の高かった小説家は、そういう料理を宴会料理といって、ご馳走とは区別して嫌悪しました。私は、そこまで潔癖ではありませんが、本質的なところと、そうでない付加価値的なところを区別したいと考える方ではあると思います。

Kamoimotherそういう視点で見ると、鴨居の作品は、このような区別をつけにくい作品であるように思います。鴨居本人は、そのことに気付いていたのかどうか分かりませんが。私のような疑い深い人間から見れば、題材を求めて、各地を彷徨うようにしてスペインの片田舎に行き着いたという行動そのものが、ひとつのステロタイプを演じているようにも見えてきます。本人に故意のような明確な自覚はなかったとはおもいますが、ある種の自己暗示というのか、ちょっとした勘違い野郎というのか、そういうパターンに自分を当てはめていたように見えます。そういう鴨居の作品を見る人は、とくに、ここで展示されているスペイン滞在時に制作された作品を見る人は、作品そのものという本質よりも、鴨居という人物の日本での制作に行き詰まりを感じ、自らの芸術の可能性を求めるようにスペインに渡って、そこで素朴な現地の人々の間で救われたように題材を見つけたが、所詮はアウトサイダーであり、もともと漂泊の芸術家のようなタイプの人だけに、その地を離れざるをえなくなった、というような“ものがたり”を付加価値として消費しようとするのではないか、と思われるものとなっているように思われます。それは、これから見ていく個々の作品が、どれも同じように見えてくるからなのです。もとより、同じ人が描いているのですが、似たような作品になっているのは当たり前です。前置きが長くなりましたが、作品を見て行きたいと思います。

Kamoigrandmother『おっかさん』という作品です。ところで、この作品の左側の仰け反っている、鼻を赤くした男性を見ると、別の作品『私の村の酔っぱらい』で描かれている人物と同じです。右側の女性は、また『おばあさん』で描かれている人物とよく似ています。これは、片田舎の狭い村で、住民のスケッチを材料にしたことから、無理もないことのようにも思えますが、それにしても、です。まるで、まんがやアニメのキャラのようです。つまり、作品がそれ自体で完結しているとは見えないのです。左側の酔っぱらいが独立したキャラクターとして、ひとつのイメージを体現し、このキャラクターが“ものがたり”を背負っている。このキャラクターが作品の枠に限定されず、いくつもの作品に顔をだして、そのキャラのイメージや“ものがたり”を登場する作品の画面で主張しています。逆に言えば、それぞれの作品は、酔っぱらいとかおばあさんなどいったキャラの組み合わせの舞台のようなものです。舞台ということであれば、そこでキャラたちが俳優のように舞台での役柄を演じるので、作品の独自性が前面に出てくるのですが、よく見れば、そういうものではなく、そういうドラマの舞台というよりは、テレビ番組のバラエティーショーのようなものに近いと思います。そこでは、登場するキャラは何かを演じるのではなく、自身のキャラをそこで表わしています。実際に、テレビ番組のバラエティーショーはその時の人気のあるキャラクターの新鮮さで視聴者を惹きつけているだけで、リアルタイムではなく時を隔ててみると怖ろしいほど没個性で金太郎飴のように同じなのです。そういう同質性が、ここであげた鴨居の作品には感じられます。だから、制作当初は新鮮さが鴨居自身も持っていたのでしょうが、飽きが早晩訪れるのは必然で、行き詰ってしまったのでしょう。もともと、たまたまスペインを訪れて、僥倖のように村の住民という題材に結果として出会ったのでしょうから、そこに、画家の、こういう作品をつくりたいとかいうイメージとか理念がもともとあったわけではないのでしょうから。

Kamoidrug_2少々、キツい言い方をしているように聞こえるでしょうか。そうかもしれません。私は、この展示会場で一連の作品を見ていて、気恥ずかしさを禁じえなかったのです。一見、真摯に見えて、その実、どこか感傷的なところ。それは、恥ずかしげもなく、“オレは真摯だ”と嘯いてポーズをとってみせるような作品に対して、我ながら、距離を置いて突き放すことができなかったからです。おそらく、私にも、このような恥ずかしい要素がある。それは、決して鴨居自身が意図したこととは違うでしょうが、逆説的な意味で、私自身の内奥の恥ずかしいところを突かれたということを、たしかに感じたということなのです。それは、どういうところか、具体的に見ていきたいと思います。

試しに、前回に見た『静止した刻』と比べてみましょう。テーブルを囲んでいる男性たちは一様で、違った個性を与えられているようには見えません。それに、感情とか表情がないので、その印象を募らせます。だから、これらの人物は一種の駒のようなものです。解説の中に、鴨居が作品で描く人物はすべて自画像で、鴨居自身の姿に似ていない人物でも自画像のバリエーションのようなものという旨の説明があったように思いますが、そうであれば(そうでなくても)、この作品で描かれた人物たちは、それぞれが独立した人格と個性をもった人物ではありません。従って、『静止した刻』は群像ではないと言わざるを得ません。それに比べて、『おっかさん』はどうでしょうか。向き合う二人の人物は『静止した刻』のテーブルを囲む人物たちの一様さに対して、明らかに違う人物です。しかし、逆に違いすぎるように見えます。つまり、二人の人物の差異を強調しすぎている。ということは、この『おっかさん』の画面の二人の人物は、それぞれが独立しているから違うのではなくて、違いを強調するように見せているのでそれぞれの人物と見える、となっているように見えます。つまり、マンガやアニメで言うキャラなのです。それぞれのキャラはマンガのようなデフォルメされた姿ですが、これは、むしろキャラとしての記号的な性格が先にたって、それをリアルな具象絵画の人物像に近づけていった結果ではないか、そのように私には思われます。それは、解説にあるように、作品中の人物が鴨居の自画像のバリエーションであるとしたら、自身のある面をとくに取り出して誇張したキャラということになるのでしょうか。

前回、私は、鴨居という画家は、描こうとするものと描かれたものがズレている画家ではないかと感じたことを述べました。そのロジックでいえば、このスペイン滞在のころから、鴨居の作品は描こうとするものの比重が、どんどん重くなっていったように見えます。それは、例えば、『おっかさん』で描かれた人物の記号のようにデフォルメされた姿です。それは、見る者に、挿絵のように“ものがたり”の一場面のようにエピソードを想像させる効果を高めているように見えることからも納得できるのではないかと思います。しかし、ただデフォルメされただけでは、マンガのように背後にストーリーがあるわけではないので、見る者は感情移入することは難しい。感情移入することがなければ、見る者が、そこに“ものがたり”を想像することはできない。それで、以前の『静止した刻』のような平面的な図案のような人物像から、肉体の厚みをもった、重量感のある人物の外形を描くように描法が変容していったのではないか。そうであれば、以前の作品の、結果として描かれたものから“ものがたり”を感じられるようなことがあったので、それでよしとするような“できちゃった”即興性があったのを、この時期の作品では、それを意図的に“作ろう”とした。そこに人為性の強い作品になっていると思います。それだけに、人物のポーズなどに感じられる過剰なポーズ、わざとらしさが、作品から想像できる“ものがたり”のバリエーションを限られたものにしてしまった単調さが生まれてしまったとも、考えられなくもありません。

Kamoichurch『教会』という作品を見て行きましょう。スペインの片田舎の小さな教会の外形をモチーフに象徴的に描いた作品ということになるでしょう。空中に浮かせたり、青で色調を毒々しいほど一本化させて見せたり、私には、あざとさが目に付いてしまうのです。描こうとするものという意図が、前面に出すぎてしまい、本来、描こうとするものからズレて描かれたものができしまうという即興性にともなう、逆説的な豊かさのようなものがなくなってしまっています。もともと、描こうとするものを、自身のうちに確固として抱えている人ではないので、彼の描こうとするもの自体は、どっちかという凡庸で、すぐに飽きが来てしまう類のものに思えます。その結果としてできた画面は、あざとさが目立つものとなってしまう。かといって、それを愚直に押し通して、マンネリとしての迫力を生むほど、本人が覚悟を決めているわけではないのです。だから、教会をモチーフにした作品は他にもありますが、私には小手先の変化がわざとらしく見えます。しかしまた、それらが、凡庸に“ものがたり”を生むような、技巧はあるのです。その凡庸さと技巧が、このシリーズの作品の魅力といえば、そうなのかもしれません。おそらく、画家自身は、半分は、この行き方に本気で、残り半分は懐疑的であっ多のではないかと思います。それが、照れのようなものを生み、各作品に対して小手先の変化をつけさせて行った。さらには、このような作品を貫くことをやめて、スペインを離れ、帰国することになったのではないかと思います。

これを、読んでいる方は、私が鴨居を中傷しているように感じられると思います。弁解に聞こえるかもしれませんが、このような書き方をしていますが、だから、鴨居の作品を見る価値がないとは言っていません。むしろ、そういう面も含めて、鴨居の作品を見て、その感想を書いている。もし、見る価値のないと思ったのであれば、最初から感想など、ここに書きません。ただ、どうしても鴨居の作品について、私が書こうとすると、ネガティブな書き方の方が書きやすいのです。多分、逆説的な対し方をしているためではないかと思います。それは、私自身の屈折した性格に起因するところが大きいと思いますが、そういう屈折にハマるのが、鴨居の作品と言ってもいいかもしれません。正直にいえば、これらの作品に感情移入して、尋常でない何かをストレートに感じるような接し方をするのは、恥ずかしさが先行します。

2015年9月 1日 (火)

鴨居玲展─踊り候え─(2)~Ⅰ.初期~安井賞受賞まで

画家としての本格的なデビューは遅かったということで、41歳で安井賞というのを受賞して、そこで認められて、画風も一応確立した、それまでの展示ということです。それまでの試行錯誤ということで、その後の傾向が定まった作品に比べると、様々なタイプの作品が展示されているようです。でも、私のような下世話な人間からみると、その賞を受賞するまでの間に結婚もしたということで、どうやって生活していたのかの方に興味が行ってしまいます。第二次世界大戦の敗戦後間もなく油絵を習っていたと伝記的な説明がありましたから、いいとこのボンボンだったかなあとか、誰かに食わせてもらっていたんだろうな、と変なことを考えていました。というのも、鴨居の作品は比較的絵の具を多量に使うようなのです。

Kamoiwinter最初に展示されていたのは、19歳の学生時代の作品である『夜(自画像)という作品でした。学生の習作ですから稚拙であることはさて措いて、絵の具をたくさん使って、量としても、色の種類(多種類の絵の具)としても、キャンバスに上に盛り上がるように、そして、その盛り上がるように絵の具を点描のようになって、盛られた絵の具が、それとして画面上に存在感が出ている。薄塗りとは正反対の画面つくりです。これは、画風は全く異なりますが、後期印象派のファン=ゴッホが絵の具を分厚く塗ってのその凸凹の存在感が画面上にうねりのようなダイナミックな陰影の効果を与え、何かいわくいいたげな強烈な印象を残しているのに、よく似ているように思えます。別に処女作に作家の要素がすべて胚胎しているなどと述べるつもりありませんが、ファン=ゴッホの作品が、作品そのもの純粋に観るということ以上に、そのいわくありげという雰囲気とゴッホという画家の浩瀚な伝記的なエピソードが相俟って、作品にものがたりを感じるような点が、日本で人気ある作品となっているのを、この自画像は、無意識のうちにか、意識してか、追いかけているように見えます。これが、鴨居と画家が生来持っていた資質なのか、誰かの影響なのは分かりませんが、彼のなんとかという賞を受賞するまでの試行錯誤の作品は、共通して多量の絵の具を画面に置いていく点では共通していますし、その後の画風を確立した作品では、そのような絵の具の使い方は、手法が洗練していくようですが、基本的な使い方は変わっていないと、私には思えます。一面的な見方かもしれませんが、鴨居という画家の画業というのは、このような絵の具の使い方が一本の幹としてあって、それに適した題材とか、画面構成とか、作風とかを当てはめていくように追求されて、それが洗練されていった、というように私には見えてくるのです。このような絵の具の使い方から画面に現われてくる効果というのは、ファン=ゴッホの例でも実証されているような、画家の表現者としての源初的な表現意欲のモヤモヤしたようなものが画面にストレートにぶつけられているような印象を見る者に与えるとか、画面に描かれていること以上のことを“ものがたり”として見る者が勝手に想像してくれるようにことを掻き立てるとか、全体として何かいいたげな強い印象を与えるというところがあります。そして、鴨居という画家自身が、その効果に囚われてしまって、次第に絵の具の効果のなかでものを視るという、一種の堂々巡りのような縮小再生産の袋小路にはまっていった、というのが全体として作品を通して感じられるような気がします。その点で、この自画像は、いくらでも“ものがたり”を附加して膨らませることができるような作品になっていると思います。例えば、絵の具の色を重ねていくうちに全体の色調が鈍く、重いものになってきますが、一様の色ではなくて、そこに様々な色があるので、重いのが重層的な重さに見えてきます。そこに若い画家が外界を見たり、自身の内面を凝視した様々な悩みとか思いなどを想像するのは、たやすいことです。いわば、そうこうことを誘発するような効果を与えていると思います。私が、最初に、この展覧会の全体の印象として、「主催者のあいさつの中で“生の儚さと向き合いながら人間の生きる苦しさ、弱さ、醜さといった部分を包み隠さず描ききり、生きた痕跡を遺した”と書かれているのは、作品を見る人に、いかにもそのような印象を残すようなパターンというか雰囲気が、鴨居の作品に共通して濃厚に現われていたということです。」と述べたのは、概ね、このようなことです。そして、このことに鴨居自身は自覚的でなかったように、私には思えます。

Kamoibird『鳥』という画家が30歳代前半の作品を見てみましょう。分厚く多量に塗られた青い色が印象的な作品です。シュルレアリスムというのでしょうか、幻想的というのでしょうか。画面中央左に鳥のようなものが描かれていますが、そのすぐ隣、中央に青い絵の具を積み重ねて平面彫刻のようにして同じような形の鳥の姿が浮き上がるように作られています。そして、その二羽(?)の鳥の周囲には青い絵の具の積み重ねによって幾重もの波の広がっていくような浮き上がりが見えてきます。そのような青い絵の具のダイナミックな青い世界の下の方に、白い丸型、おそらく月でしょうか、それがダイナミックな青と対照的に静謐さをかもし出しています。この作品を見ていると、この鳥は何かを表わしているのではないか、とか、この画面上の青い絵の具で浮かび上がってくる、鳥や波は何かの象徴とか、画面に何かプラスアルファの想像を加えようとする欲望を禁じえません。この作品などは、鴨居がシュルレアリスムとか幻想絵画とかの方法論とか理念とか、絵画をこのように描こうというような方法論から捉えてはいなくて、単に手法やスタイルとしてシュルレアリスムとか幻想絵画を捉えていたということが分かるようです。そして、上の自画像では自分を題材として描いたのが、結果として厚塗りの絵の具の効果で何か言いたげになったのは、画家が意図していたのかどうかは分かりませんが、結果としてそのような作品になっていました。これに対して、この『鳥』では、自画像での効果に画家が自覚的で、そのような効果を意図していた、むしろ、目的とするように画家の姿勢が変わってきていることに、あるいは自画像の時には潜在的だったのが顕在化してきたのが分かります。その際に、このようなスタイルが適しているかどうか試行していたと言えるではないしょうか。

Kamoired『赤い老人』という作品です。『鳥』が青だったのが、こちらは赤い絵の具が鮮烈な作品で、両作品の間には約5年の制作の隔たりがあります。この『赤い老人』と並んで同じように赤い絵の具が鮮烈な作品が展示されていましたが、それらは抽象画のような具体的な題材が具体化されていない作品でした。おそらく、何か言いたげというのを徹底的に突き詰めようとしたのかもしれません。この『赤い老人』では、かろうじて、コートを着た人影をうかがうことができます。このことから、『鳥』の場合には、何かいわく言いたげなことを意図的にしようとしていたのが、この作品では明確に目指すものとして前面に出てきたように考えられます。『鳥』のところでシュルレアリスムとか幻想絵画というような理念は、鴨居にとっては手法とかスタイルにしか捉えられなかったのではないかと述べましたが、もともと、そういう理念で絵画を描くという人ではないように思えます。それが、何か言いたげな画面を追求していくプロセスのなかで、描こうとするものという理念のようなものが後付で画家の中に芽生えて、それが独り歩きし始めたのが、このころの作品のように思えます。そのことに派生して、描こうとするものと、描かれたものが、このころから分離し始め、それを追いかけていくことが始まったのではないかと思います。それは、このころの作品では描く具体的な題材が、作品によっては消失し、抽象画のように描こうとするものが理念のように画家の前に立ちはだかっているような状態になっていたことが想像できます。そのとき、私には、これらの作品を見ていて、ふと考えるのです。この何か言いたげの、その“何か”とは何だったのか、と。むしろ、その“何か”というのがあったのどうか、ということをです。先ほども述べましたように、もともと理念とかで作品を作る人ではないようですし、何らかのメッセージを持っている人でもなさそうです。だから、この何か言いたげの何かというのは空っぽで、その何か言いたげという、見る人が何か言いたそうという一種のポーズが、鴨居の作品にプラスアルファの効果を附加していたのではないかと私には、思えます。それを画家がどこかで勘違いしてしまってしまったのではないか、と私には思えます。これは、育ちのよさが現われていると言えるかもしれませんが、画家のナイーブさ、とそれ以上に、それを周囲が温かく見守っていたからこそ、このように作品が残り、画家はこの後も画家を続けることができた。そういういうことをすべて含めて、鴨居の作品を観ると言うのは、そういうことなのではないでしょうか。だから、鴨居の作品を見ると言うことには、受動的に眺める以上のコミットメントを求められ、それが鴨居の作品に対する好悪の分岐点になるのではないかと思います。そして、おそらく、ファン=ゴッホの作品を好むような人は、そういう接し方はむしろ好ましいものに映るのではないでしょうか。他方では、甘えに映って嫌悪する人も出てくるのではないかと思います。私は、どちらかというと後者に近い方です。

Kamoistopこのコーナーの締めくくりは安井賞というのを受賞したという『静止した刻』という作品です。結局、色々なことをやってみた末に、具象に戻ってきたということでしょうか。たしかに、何か言いたげというには、イメージを限定してあげた方が、観る側にとっても、そこから想像をスタートさせ易いし、具象であればそれ自体に無理に想像力を働かせる必要はありません。それはまた、何よりも制作する鴨居の側でも、限定した素材があったほうがやり易いのではないでしょうか。それは、何か言いたげの“何か”を確固として持っていないのであれば、何かしらの具象的な題材を前提に、その組み合わせなどから、そういう効果のある画面を見つけ出していくという作業を具体的にできるということです。私には、おそらく、鴨居は、たまたま、偶然、このようなスタイルに出会ったのではないか。というのも、後の鴨居の作品を見ればわかるのですが、この作品を描いた後、この手法が展開したり、発展することはないのです。そして、よくよく見ると、最初に見た自画像と、この作品は描き方がよく似ているのです。『静止した刻』の方は人物が4人になって、テーブルやさいころがあって、何かの行為をしていて、それらしい構成がされているということです。ただし、私には、それ自体に意味があるようには見えず、“何か言いたげ”な雰囲気を盛り上げている手段として、自画像に比べて、その手段が分厚くなっているという印象です。あえて言えば、『静止した刻』は色彩の使い方がぐっと成熟し、テーブル上の丸い盆のグリーンに視線を引き寄せられるように周到に描かれています。それが画面にメリハリをつけて、そのために自画像のような平板さ、とりとめのなさを感じることはありません。さらに、さきほど鴨居の作品には、何か言いたげな雰囲気はあっても、当の言いたい“何か”がないということを述べましたが、それは決して鴨居を非難していることではなくて、それであるからこそ、この作品を観るものはイメージを変に規制されることなく、自由に想像を膨らませることができるようになっていると思います。そのことによって、この作品が一見、暗い重苦しい色調でありながら、開かれた作品として普遍性をもって、観る人に受け容れ易くなっていると思います。その場合、むしろ、この作品の色調は、観る人にとっては、観ている自分が深刻で真面目であるといった優越感を抱かせるような、言ってみれば見る者の自負心を巧みにくすぐる、ちょっとした媚のようなスパイスになっている。鴨居は、このような傾向の戯画化した人物の作品を数点制作し(『蛾と老人』)、ここでも展示されていましたが、同じような効果をもたらすもので、誤解を恐れずに言えば、高級感ある挿絵、あるいはストーリーのない絵本とでも言えるのではないかと思います。鴨居は、そういうものでは満足できなかったのでしょうか。

Kamoigaこの後、鴨居はスペインに渡り、違ったテイストの方向で画風を成熟させていくことなると言います。

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