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2015年9月 5日 (土)

美味しい考(2)

中国からの観光客が“爆買”するもののひとつに電気炊飯器がある。日本製の炊飯器はかまど炊に、良く似た美味しいごはんが炊けるからという。ちょっと、ひっかかる言い方かもしれないが、日本製の炊飯器がいいということは、かまどの真似が上手ということだ。つまり、かまどのニセモノ。この際に、炊飯だからできる、炊飯器にしかできない独創的な、ごはんのおいしさ、ということを言われることはない。食べ物が美味しいというのは、すでにある美味しい枠が決まっていて、それに当てはまるものが美味しいということになるように思われる。美味しいということは、極端な言い方をすれば既存の美味しいもののいずれかに当てはまる、つまり、陳腐でなければならないということではないかと、思ったりする。

比較するのは偏見かもしれないけれど、音楽であれば、20世紀初頭の無調音楽がセリーに展開して、それまでの音楽という範囲から逸脱してしまったり、絵画で抽象画が描かれて何ものかの対象を写すという絵画のあり方とは別の絵画といえないようなものが出てきてしまった。こんなことは、美味しい食べ物というものでは起こりえないように思う。美味しいという範囲から外れるとマズイということになって、受け入れられず捨てられるのではないだろうか。もし、その人にとって全く新しい美味しいものに触れるということがあるとすれば、異文化の食べ物に触れた時ぐらいではないだろうか。しかし、それは、独創的ではなく、異なる文化の中では陳腐だ。

それは、もしかしたら、口に入れたものを摂取するか否かの最終チェックが味覚でなされると考えると、一定枠に合致するもの以外は排除するというのは、そうでないと生き残れないということになるのかもしれない。

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コメント

音楽や絵画と同様、美味しいものの美味しさにはたくさんの要素があると思います。
脳が感じる味覚には観念の要素が多分に含まれますから、美味しい、まずいの論議はなかなか同じグラウンドに乗りにくい気がします。
ただ、本当にまずいものはまずいですけどね。

OKCHANさん、コメントありがとうございます。観念というのは前提があって、そこから始まります。何もないところからは観念は生まれません。OKCHANさんは、それは何だと考えますか。そこには何らかの美味しいの基準のようなものがなくてはなりません。敢えて、それを試みに考えてみました。

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