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2015年9月19日 (土)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(3)

第1章 多数決からの脱却

赤道直下の太平洋の島国ナウルではダウダールルールという1位だけを投票するのではなく、候補者の順位付けをして順位ポイントを集計する方式をとる。多数決という意思集約の方式は、日本を含む多くの国の選挙で当たり前に使われている。だがそれは慣習のようなもので、他の方式と比べて優れているから採用されたわけではない。そもそも多数決以外の方式を考えたりはしないのが通常だろう。だが民主制のもとで選挙が果たす重要性を考えれば、多数決を安易に採用するのは、思考停止というより、もはや文化的奇習の一種である。

「多数決」という言葉の字面を眺めると、いかにも多数派の意見を尊重しそうである。だからこそ少数意見の尊重も大切と言われるわけだ。だがそもそも多数決で、多数派の意見は常に尊重されるのだろうか。ここで著者は2000年のアメリカの大統領選挙のケースを再び取り上げる。第三の候補ラルフ・ネーダーの立候補により、民主党のゴアは票を喰われ下馬評では不利だったブッシュが漁夫の利で勝利する。しかしネーダーはゴアに近い政策を支持していた。図らずも、ネーダーは大統領にしたくないブッシュの当選を助けたことになってしまった。これはネーダーに責任があるのではなくて、多数決という仕組み自体の問題であると著者は言う。多数決は人々の意思を集約する仕組みとして深刻な難点があると指摘する。

投票で「多数の人々の意思をひとつに集約する仕組み」のことを集約ルールという。多数決はたくさんある集約ルールの一つに過ぎない。そして投票のない民主主義はない以上、民主主義を実質化するためには、性能のよい集約ルールを用いる必要がある。確かに多数決は単純で分かりやすく、私たちはそれに慣れきってしまっている。だがそのせいで人々の意見が適切に集約できないのは本末転倒であろう。それは性能が悪いのだ。もし「一人一票でルールに従い決めたから民主的だ」ても言うなら、形式の抜け殻だけが残り、民主的という言葉の中身は消え失せてしまうだろう。投票には儀式性が伴えども、それは単なる儀式ではない。聞きたいのは神託ではなく人々の声なのだ。さらに言えば、有権者の無力感は、多数決という「自分たちの意思を細かく表明できない・適切に反映してくれない」集約ルールに少なからず起因するのではないだろうか。であればそれは集約ルールの変更により改善できるはずだ。

そして、多数決を含む集約ルールとして、ボルダとコンドルセを紹介する。

 

具体的に多数決ルールとして、現実にどのようにバリエーションがありえるのかという、選択肢の可能性の紹介です。例えば、今の日本の国会議員選挙では小選挙区が中心で、選挙権者一人が一票を選んだ一人の候補に投じます。かりに一つの選挙区の定員が二人の場合も同じです。何人かの候補者のうちで、一番当選してほしい人に投票して、候補者の中で得票数の多い順に上位2名が当選するという形式です。しかし、二人の定員ということであれば、Aさんに当選してもらいたいが、それはBさんと一緒に当選したほうが生かせるとか、BさんとCさんが共に当選すると二人の主張は食い合って足を引っ張り合い、地域の声が中央に届き難くなる、といった当選議員の関係性を考慮されていません。ここで紹介されているのはナウルのルールで、二人の定員であれば、順位付けをして1位と2位の二人を投票できるのです。ただし、1位として投票するのと2位として投票するのでは、ポイントが違うことにして、当然1位のポイントが高いのですが、それで獲得したポイントが高い順に当選していくというシステムです。

このような場合、ポイントの設定方法やその他で投票結果が異なってきます。まずは、問題提起というところです。

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