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2015年9月24日 (木)

まもるのは何か

学生時代、雑誌である自衛官の手記のような文章を読んで、いまでも忘れられない一節がある。それは、防衛というのは何を守るのか、という問いかけだった。国というのは実体をもたないフィクションであるから、物理的に守ることはできない。具体的に、守るべきは何なのか。日本の国民という人々を守るということなのか。人の生命は何よりも重い。その場合、自衛隊の人間だって国民だ。そういう立場とはいっても、生命に軽重はないのだから、自衛隊の人間の生命だって尊重されなければならない。そうであれば、究極には、一番大事な生命をまもるために国土とか財産を捨てて逃げればいい。

そうではなくて、国土とか領土なのか、では領土を守るために国民全部が死んでしまったら領土を守る意味があるのか。

このように、人とか領土を守るということを考えると防衛ということは、究極的には意味をなさない。

では、逆に防衛ということが意味をなすのはどのような場合かを考えると、人々が安心して生きられ、生活をしている状態ということになる。政治的には自由で民主的な社会ということになろうか。つまり、日本国憲法でいえば第3章の人権の条文で規定された基本的人権を守るということになる。

だから、守るべきものを規制することは本末転倒であるし、防衛も含めて国家も行政もそのためにあるという。そして、平和というのは、そのためのものではないのか、という問いかけも合わせて考える。そう考えると、日本国憲法第9条の解釈は、単に文言の逐語的なレベルだけでいいのかということは、問題意識としてあり得るのではないか。つまり、日本の人々の生存と生活が保障されるために平和ということが要請されるという論理であれば、平和とは何かということは固定したものではないはず。それは学問での議論でも、当然あり得ると思う。

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