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2015年9月17日 (木)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(1)

他人にあれこれ指図されるのは嫌だ。自分のことは自分で決めたい。自由に決定させてくれ。だが決定とは選択肢を最後の一つにまで絞り込み、他の可能性を全て捨て去ることだ。いかに豊かな選択肢のなかから選び取ろうとも、熟慮の末に判断したものであろうとも、それは自らを身動きの取れない状況に置くという、ひどく拘束的な行為である。であれば自由の特徴とは、拘束する者とされる者との一致にほかならない。自分のことを自分で決めさせろという希求は、自分のことは自分で決められるはずだという期待に基づいている。この期待はそれが自分に可能だという、希望の発露の一種である。こうした意思を「自分」でなく、「自分たち」に適用したとき、それは民主制を求める思考の基盤となる。伝統や権威、宗教や君主に任せるのではなく、自分たちで自分たちのことを決めてみせよう。どうせ決定は拘束を生み出すのならば、その決定主体は自分たちにしてみせよう。民主性には多様な制度形態があるけれども、その基本理念とは、およそこのようなものである。

まず、著者は民主制の基本理念として自由ということを第一に挙げます。ここで言う自由とは、端的に言えば「自分のことは自分で決める」ということです。そして、このときの「決める」ということを突き詰めると、数多ある選択肢を絞っていくことといいます。その絞るプロセスにおいて、絞るということはいくつかの選択肢の中から選択肢をピックアップすることで、ピックアップされなかった選択肢は捨てられる結果となります。この捨て去った選択肢は、別の言い方をすれば可能性ということができます。つまり、選択肢を捨て去るということは、他の可能性を捨て去ることでもあるわけです。だから、他にもあった可能性を捨て去ることによって、選択の対象となる可能性は限定される。その選択が、何かの行動をおこす内容の選択であれば、その行動することは限られてくることになります。それゆえに、自分で他に行動できるかもしれないことを、できないことにしてしまうことなる。それは行動を自分で縛る、拘束することになるわけです。それは、自分で自分を縛るからいいのであって、これを他人に縛られれば強制されたということになるわけです。「あなたは、これをしなければならない」と強制されること、それは不自由に他なりません。つまり、自由とは自分を縛ることができるのは自分だけであるということになるわけです。

ただし、他人に行動を強制された場合、たとえば会社で上司の命令で何かを行った場合、その行為によってトラブルが発生したとしても、当人が命令のとおりに行為したのであれば、その責任は上司及び会社にあるわけです。しかし、強制されていないで自分で「決めた」というのであれば、責任は決めた自分にあります。だから、「決める」ということには責任を負うということが前提されていて、「決める」ときには、その責任をとることができることを前提に決めることになります。ここで著者が言っている「決めることができる」というそういうことでしょう。だけど、それは実際には、やってみなければ分からない。だから、できるはずだという希望でしかないのです。実際には。

この「自分で決める」の「自分」を「自分たち」にしたのが民主制の思考基盤といいます。伝統や権威、宗教や君主といった決めて強制する機関に任せるのではなくて、自分たちで自分たちのことを決める。その結果、自分たちで自分たちを拘束することになっても、自分たちで決めたのだから、というわけです。それが自由ということです。

さて、ここで著者は敢えて触れていないのか、意識していなかったのか、これからの議論には必要なかったからか、「平等」ということには一言も触れていません。常識的に民主主義といえば、自由と平等がセットになって考えられます。歴史を繙けば、近代民主制以前の、君主制や貴族制では、それこそ伝統や権威、宗教や君主といった決めて強制する機関によって決定がなされていたわけで、「自分たち」が決定に参与できないというのが不平等として、「決める」人と「行なう」人が別々にならないということが平等であるという面でも求められたのが、民主制のもう一つの側面であるはずです。そして、往々にして、自由と平等とは、実は異質な概念であったため矛盾するところがでてくる。それを議論していくと、この著作の本意から外れて脱線していってしまうからでしょう。しかし、これから議論されていくことには、平等という側面から、違った見え方をしてくるのは明白で、そこに言及されていないのは、残念というしかありません。

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