無料ブログはココログ

« 鴨居玲展─踊り候え─(2)~Ⅰ.初期~安井賞受賞まで | トップページ | 鴨居玲展─踊り候え─(4)~Ⅲ.神戸時代~一期の夢の終焉 »

2015年9月 2日 (水)

鴨居玲展─踊り候え─(3)~Ⅱ.スペイン・パリ時代

この展覧会では、鴨居がスペインにわたり、ドン・キホーテの舞台となったラ・マンチャ地方の村に居を構え、そこで制作をした短い期間を彼の絶頂期と解説しています。

穿つような言い方ですが、鴨居の作品の魅力は“何か言いたげ”な印象を見る者に起こさせるところにあり、それには、鴨居という人物の伝記的なエピソードが“ものがたり”の要素を、作品の“何か言いたげ”な印象を補完するように、その印象を強く起こさせることに、結果としてなっているように思います。つまり、作品が作者のイメージと離れていないというものになっている。例えば、スーパーマーケットの食料品売り場で産地直送の野菜のコーナーで生産者の写真とメッセージが添えられて、誰々さんの畑で育てられた野菜として紹介されているところがあります。別に誰の畑で育てられて、その生産者の写真があるからといって、当の野菜の品質を保証するものではない、美味しいとはかぎらないのです。しかし、そういう野菜は生産者の思いが込められている、というようなイメージで思わず手に取る。ただ、ここで言っているのは、そういう野菜がまずいと言っているのではなく、生産者が分かれば野菜が美味しいとは限らないということです。しかし、また、美味しいとかとか不味いというは、あくまで個人の好みに左右されるもので、美味しいと思って食べれば美味しく感じられるということは、よくあることです。豪華なレストランや料亭の一室で、きれいに盛り付けられた料理を、高い料金を払っているから、という思いで食べれば、よっぽど酷いものでない限り、おいしく感じるものです。吉田健一という美食家の評判の高かった小説家は、そういう料理を宴会料理といって、ご馳走とは区別して嫌悪しました。私は、そこまで潔癖ではありませんが、本質的なところと、そうでない付加価値的なところを区別したいと考える方ではあると思います。

Kamoimotherそういう視点で見ると、鴨居の作品は、このような区別をつけにくい作品であるように思います。鴨居本人は、そのことに気付いていたのかどうか分かりませんが。私のような疑い深い人間から見れば、題材を求めて、各地を彷徨うようにしてスペインの片田舎に行き着いたという行動そのものが、ひとつのステロタイプを演じているようにも見えてきます。本人に故意のような明確な自覚はなかったとはおもいますが、ある種の自己暗示というのか、ちょっとした勘違い野郎というのか、そういうパターンに自分を当てはめていたように見えます。そういう鴨居の作品を見る人は、とくに、ここで展示されているスペイン滞在時に制作された作品を見る人は、作品そのものという本質よりも、鴨居という人物の日本での制作に行き詰まりを感じ、自らの芸術の可能性を求めるようにスペインに渡って、そこで素朴な現地の人々の間で救われたように題材を見つけたが、所詮はアウトサイダーであり、もともと漂泊の芸術家のようなタイプの人だけに、その地を離れざるをえなくなった、というような“ものがたり”を付加価値として消費しようとするのではないか、と思われるものとなっているように思われます。それは、これから見ていく個々の作品が、どれも同じように見えてくるからなのです。もとより、同じ人が描いているのですが、似たような作品になっているのは当たり前です。前置きが長くなりましたが、作品を見て行きたいと思います。

Kamoigrandmother『おっかさん』という作品です。ところで、この作品の左側の仰け反っている、鼻を赤くした男性を見ると、別の作品『私の村の酔っぱらい』で描かれている人物と同じです。右側の女性は、また『おばあさん』で描かれている人物とよく似ています。これは、片田舎の狭い村で、住民のスケッチを材料にしたことから、無理もないことのようにも思えますが、それにしても、です。まるで、まんがやアニメのキャラのようです。つまり、作品がそれ自体で完結しているとは見えないのです。左側の酔っぱらいが独立したキャラクターとして、ひとつのイメージを体現し、このキャラクターが“ものがたり”を背負っている。このキャラクターが作品の枠に限定されず、いくつもの作品に顔をだして、そのキャラのイメージや“ものがたり”を登場する作品の画面で主張しています。逆に言えば、それぞれの作品は、酔っぱらいとかおばあさんなどいったキャラの組み合わせの舞台のようなものです。舞台ということであれば、そこでキャラたちが俳優のように舞台での役柄を演じるので、作品の独自性が前面に出てくるのですが、よく見れば、そういうものではなく、そういうドラマの舞台というよりは、テレビ番組のバラエティーショーのようなものに近いと思います。そこでは、登場するキャラは何かを演じるのではなく、自身のキャラをそこで表わしています。実際に、テレビ番組のバラエティーショーはその時の人気のあるキャラクターの新鮮さで視聴者を惹きつけているだけで、リアルタイムではなく時を隔ててみると怖ろしいほど没個性で金太郎飴のように同じなのです。そういう同質性が、ここであげた鴨居の作品には感じられます。だから、制作当初は新鮮さが鴨居自身も持っていたのでしょうが、飽きが早晩訪れるのは必然で、行き詰ってしまったのでしょう。もともと、たまたまスペインを訪れて、僥倖のように村の住民という題材に結果として出会ったのでしょうから、そこに、画家の、こういう作品をつくりたいとかいうイメージとか理念がもともとあったわけではないのでしょうから。

Kamoidrug_2少々、キツい言い方をしているように聞こえるでしょうか。そうかもしれません。私は、この展示会場で一連の作品を見ていて、気恥ずかしさを禁じえなかったのです。一見、真摯に見えて、その実、どこか感傷的なところ。それは、恥ずかしげもなく、“オレは真摯だ”と嘯いてポーズをとってみせるような作品に対して、我ながら、距離を置いて突き放すことができなかったからです。おそらく、私にも、このような恥ずかしい要素がある。それは、決して鴨居自身が意図したこととは違うでしょうが、逆説的な意味で、私自身の内奥の恥ずかしいところを突かれたということを、たしかに感じたということなのです。それは、どういうところか、具体的に見ていきたいと思います。

試しに、前回に見た『静止した刻』と比べてみましょう。テーブルを囲んでいる男性たちは一様で、違った個性を与えられているようには見えません。それに、感情とか表情がないので、その印象を募らせます。だから、これらの人物は一種の駒のようなものです。解説の中に、鴨居が作品で描く人物はすべて自画像で、鴨居自身の姿に似ていない人物でも自画像のバリエーションのようなものという旨の説明があったように思いますが、そうであれば(そうでなくても)、この作品で描かれた人物たちは、それぞれが独立した人格と個性をもった人物ではありません。従って、『静止した刻』は群像ではないと言わざるを得ません。それに比べて、『おっかさん』はどうでしょうか。向き合う二人の人物は『静止した刻』のテーブルを囲む人物たちの一様さに対して、明らかに違う人物です。しかし、逆に違いすぎるように見えます。つまり、二人の人物の差異を強調しすぎている。ということは、この『おっかさん』の画面の二人の人物は、それぞれが独立しているから違うのではなくて、違いを強調するように見せているのでそれぞれの人物と見える、となっているように見えます。つまり、マンガやアニメで言うキャラなのです。それぞれのキャラはマンガのようなデフォルメされた姿ですが、これは、むしろキャラとしての記号的な性格が先にたって、それをリアルな具象絵画の人物像に近づけていった結果ではないか、そのように私には思われます。それは、解説にあるように、作品中の人物が鴨居の自画像のバリエーションであるとしたら、自身のある面をとくに取り出して誇張したキャラということになるのでしょうか。

前回、私は、鴨居という画家は、描こうとするものと描かれたものがズレている画家ではないかと感じたことを述べました。そのロジックでいえば、このスペイン滞在のころから、鴨居の作品は描こうとするものの比重が、どんどん重くなっていったように見えます。それは、例えば、『おっかさん』で描かれた人物の記号のようにデフォルメされた姿です。それは、見る者に、挿絵のように“ものがたり”の一場面のようにエピソードを想像させる効果を高めているように見えることからも納得できるのではないかと思います。しかし、ただデフォルメされただけでは、マンガのように背後にストーリーがあるわけではないので、見る者は感情移入することは難しい。感情移入することがなければ、見る者が、そこに“ものがたり”を想像することはできない。それで、以前の『静止した刻』のような平面的な図案のような人物像から、肉体の厚みをもった、重量感のある人物の外形を描くように描法が変容していったのではないか。そうであれば、以前の作品の、結果として描かれたものから“ものがたり”を感じられるようなことがあったので、それでよしとするような“できちゃった”即興性があったのを、この時期の作品では、それを意図的に“作ろう”とした。そこに人為性の強い作品になっていると思います。それだけに、人物のポーズなどに感じられる過剰なポーズ、わざとらしさが、作品から想像できる“ものがたり”のバリエーションを限られたものにしてしまった単調さが生まれてしまったとも、考えられなくもありません。

Kamoichurch『教会』という作品を見て行きましょう。スペインの片田舎の小さな教会の外形をモチーフに象徴的に描いた作品ということになるでしょう。空中に浮かせたり、青で色調を毒々しいほど一本化させて見せたり、私には、あざとさが目に付いてしまうのです。描こうとするものという意図が、前面に出すぎてしまい、本来、描こうとするものからズレて描かれたものができしまうという即興性にともなう、逆説的な豊かさのようなものがなくなってしまっています。もともと、描こうとするものを、自身のうちに確固として抱えている人ではないので、彼の描こうとするもの自体は、どっちかという凡庸で、すぐに飽きが来てしまう類のものに思えます。その結果としてできた画面は、あざとさが目立つものとなってしまう。かといって、それを愚直に押し通して、マンネリとしての迫力を生むほど、本人が覚悟を決めているわけではないのです。だから、教会をモチーフにした作品は他にもありますが、私には小手先の変化がわざとらしく見えます。しかしまた、それらが、凡庸に“ものがたり”を生むような、技巧はあるのです。その凡庸さと技巧が、このシリーズの作品の魅力といえば、そうなのかもしれません。おそらく、画家自身は、半分は、この行き方に本気で、残り半分は懐疑的であっ多のではないかと思います。それが、照れのようなものを生み、各作品に対して小手先の変化をつけさせて行った。さらには、このような作品を貫くことをやめて、スペインを離れ、帰国することになったのではないかと思います。

これを、読んでいる方は、私が鴨居を中傷しているように感じられると思います。弁解に聞こえるかもしれませんが、このような書き方をしていますが、だから、鴨居の作品を見る価値がないとは言っていません。むしろ、そういう面も含めて、鴨居の作品を見て、その感想を書いている。もし、見る価値のないと思ったのであれば、最初から感想など、ここに書きません。ただ、どうしても鴨居の作品について、私が書こうとすると、ネガティブな書き方の方が書きやすいのです。多分、逆説的な対し方をしているためではないかと思います。それは、私自身の屈折した性格に起因するところが大きいと思いますが、そういう屈折にハマるのが、鴨居の作品と言ってもいいかもしれません。正直にいえば、これらの作品に感情移入して、尋常でない何かをストレートに感じるような接し方をするのは、恥ずかしさが先行します。

« 鴨居玲展─踊り候え─(2)~Ⅰ.初期~安井賞受賞まで | トップページ | 鴨居玲展─踊り候え─(4)~Ⅲ.神戸時代~一期の夢の終焉 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

これだけ長い文章が書けることに敬服します。

OKCHAN さん、コメントありがとうございます。そうですね。ダラダラして長すぎますね。簡潔に書こうと努めてはいるのですが、なかなか・・

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/62206048

この記事へのトラックバック一覧です: 鴨居玲展─踊り候え─(3)~Ⅱ.スペイン・パリ時代:

« 鴨居玲展─踊り候え─(2)~Ⅰ.初期~安井賞受賞まで | トップページ | 鴨居玲展─踊り候え─(4)~Ⅲ.神戸時代~一期の夢の終焉 »