野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(8)
第8章 40年体制の基本理念
40年体制の特徴として第一に挙げられるのは、生産者優先主義である。つまり、生産力の増強がすべてに優先すべきであり、それが実現されれば様々な問題が解決されるという考えである。戦時経済においてこれが要求されることはあきらかだ。しかし、戦後の高度成長期においても、この考えが支配的だった。経済が成長すればその成果として人々の生活が豊かになるはずだし、生活を豊かにするにはそれしん方法がない、という考えは社会的コンセンサスを得ていた。本来であれば、生産力の増強は、手段に過ぎない。しかし、こうした状況が長く続くと、それ自体が最終的な意味を持つものであるような錯覚が蔓延する。手段が目的化してしまうのである。生産者優先主義は、普遍的な価値観にまで高められた。このような価値観は、「仕事が全てに優先する」という会社中心主義と巧みにマッチした。生産性向上の成果を賃上げで蚕食してしまうのではなく投資に回してさらに会社を発展させるという方針に異議を唱える人は少なかった。従って、労働組合も、過激な賃上げ闘争を行なうことはなかった。
40年体制においては、企業という生産のための組織が、従業員の相互補助的な共同体としての性格をもち、しかもそが生活の基本的単位となっている。そして、各組織は外に対して閉鎖的であり、これらの間の移動は極めて限定的である。新卒者が企業に就職する時、「雇用契約に基づいて雇われる」というより、「共同体の一員になる」と考えるのが普通である。このように、戦後の日本では、最も重要な共同体は「会社」になった。このことは、日本人の思考様式にまで大きな影響を与えた。様々の汚職事件で表出した「会社のためになることが悪であるはずはない」という「会社人間」意識は、その象徴である。このことは、日本人の思考様式にまで大きな影響を与えた。さまざまの汚職事件で表出した「かいしゃのためになることが悪であるはずがない」という会社人間意識は、その象徴である。言うまでなく、多くの人は、消費者であると同時に生産者でもある。また、所得稼得が生活の基本であることを考えれば、生産者の立場が優先されるバイアスは、どんな社会でも多かれ少なかれ見られる。どの国もどの時代の政治システムも、消費者の利益よりは生産者のそれを重視するバイアスを持っている。しかし、ただ一つの会社が生活のあらゆる面をおおう基本的な共同体になるという姿は、決して普遍的なものではない。この意味で、戦時経済以降の日本は、特殊だったといえる。
40年体制の第二の特徴は、「競争の否定」という、より原理的なレベルのものである。この体制は、単一の目的のために国民が協働することを目的としている。このため、チームワークと成果の平等配分が重視され、競争は否定される傾向にある。そこでの至上目的は、脱落者を発生させないことである。つまり、全体として、大きな社会保障システムになっているのである。
高度成長期においても、このシステムが経済成長に伴う歪みを是正し、社会的な安定を達成してきた。生産者第一主義と同様、競争否定・平等主義も、ある種の価値観にまでなった。これは、戦後むしろ強化されたといえる。
過当競争ということばが示すように、「競争は悪である」とかる考えが一般的になった。競争とは弱者を無視した強者の一方的な論理であり、したがって、社会的公正の観点から排除すべきだというのである。そして、協調し、共存することこそ、望ましい状態と考えられるに至った。しかも、それが生産者のレベルで主張されることが特徴である。経済学の理論では、生産に関しては市場における競争原理にまかせ、生活の保障はそれとは別に社会保障で行なうべきだとしている。つまり、個人の生存や生活は保障されるべきだが、それは雇用の保障によるものではないと言う考えである。しかし、40年体制の考えは、これとは異なり、生産者に対して生存権を認めようとする。これは、生産組織が社会の基本単位になっているからである。金融行政における「護送船団方式」も、同じ考えに基づいている。預金者保護の名目の元に、実際には、限界的な金融機関の存続を可能とするような政策が行なわれてきた。
競争の否定に関連して「共生」という概念が1992年に経団連が今後の企業のあり方として提示した。「企業と地域社会、企業と消費者、日本企業と海外企業」との間で、それぞれ共生が必要であるという。この「共生」という言葉は「協調」や「調和」を越える意味合いをもっている。「共生」という概念が企業から主張するのは、自由主義経済の最も基本的な原則に対する挑戦である。なぜなら、企業が存続しうるかどうかは、本来は消費者が決定すべきものであるからだ。消費者の要求に応える企業は存続し成長するが、そうでない企業は淘汰されて消滅する。これが市場経済の基本原則である。経済的条件の変化に対して古い企業が死滅し、新しい企業の誕生に道を開くことが、市場経済のダイナミズムの源である。企業同士の縄張りや棲み分けを規定して生き延びようとすることは、本来は出来ないはずのものである。生存の権利は、個人には認められているが、企業には認められていない。非効率な企業や消費者の要求を満たさない企業に「共に生き」られては、消費者は困るのである。共生哲学は、この基本原則を否定し、現存企業の生存権を主張している。それがもたらすものは、競争による変化と進歩ではなく、寡占と規制による停滞の世界である。「共生」という奇妙な概念が経済問題に関してあたかも望ましいことのように考えられるのは、日本社会の特殊事情といってよいだろう。この概念は、日本企業の会社中心主義や働きすぎ等、海外からの日本異質論にこたえるために財界から持ち出されたものである。しかし、これによって、かえって日本社会の異質性が強く現われたことになる。
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