かわいいという閉塞感
思いつきかもしれないが、日本文化(というものがあったとしての話だが)が異文化と接触した時、古代から中世にかけての中国や朝鮮の文化がそうであるし、幕末期の西洋文化がそうだろうけれど、幕末期の西洋インパクトを考えてみると、中国や朝鮮のように拒否反応を起こしたり、逆に帝政ロシアのような事大主義的にそれ一色に染まってしまうというのではなく、既存の自文化と妥協し矛盾の発生を抑えながら、ゆっくりと取り込んで、しまいには同一化していく。
よく言えば柔軟性のある寛容な文化ということになるのだろうけれど、別の視点でいえば、貪欲になんでも呑み込んでしまうとも言える。
これは逆に、日本文化が西洋文化に触れた時に、かつての浮世絵や磁器がそうだったように、最近ではマンガ・アニメなどのサブカルや和食など、ゆっくりと浸透し、いつのまにか現地の文化に溶け込んでcoolということになってしまう。
日本文化が異文化を受け入れるときの柔軟な貪欲さが、逆方向になるとまるで癌細胞のような貪欲な侵食をしてしまう。
これは、その文化の内部にいる者にとっては、ある意味同一性の圧力を不断に受けているということになる。端的な例が、“カワイイ”ということだ。“カワイイ”というのは一見、形容詞のようだが、実は、反対概念がないのだ。つまり、この“カワイイ”というのは対象を受け容れてしまうことを指している。その“カワイイ”をうけいれることで同一性を担保していることになる。“カワイイ”は柔軟に受け入れてしまうので、そこでの個人の葛藤は生まれない。個人は、いつの間にか、“カワイイ”の同一性の中に取り込まれている。そこで、個人としていようとする場合、息が詰まるような閉塞感にとらわれるのではないか。と、このごろ思っている。
その証拠として、“カワイイ”といえない、美しい芸術とか、そのたぐいのものが、この国には生まれていない。もしかしたら、私が見つけられないだけかもしれない。今、それを探し始めた。
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