お国自慢という差異の戯れの閉塞感
ふと甲子園の高校野球のことを思った。各県の代表が一ヵ所に集まって、その高校の範囲を越えて県という地域を郷土に置き換えて、その地域に関係のある人々が応援に興じるというイベントとして捉えられる。 ここでの郷土というのは、甲子園という一ヵ所、というよりはそれを日本全国に放送するテレビ局のキー局である東京に集められて横一列に並べられる程度の同質性の高いものに、本質的には、なっている、ということの端的なあらわれといえるのではないか。そこでの各地域というのは、別の地域とのわずかな差異のみで意識的に差別化されている。つまり、例えば、神奈川県という行政地域は、その地域だけが独立して個性があるというのではなくて、とりたてて特徴があるわけではないので、隣の東京や静岡との少しの差異を強調して、静岡とちがっているから、それが特徴だというような隣に依存したものとなっている。そのような各々の行政地域が自立した個性を持てない、どんぐりの背比べが一ヵ所にあつまり、同一のものさしのうえで、競争に興じているという様子といえる。 それは、図式的に言えば、近代以降の管理社会ともいえる統合的で同質性のつよい体制、それは効率の良い社会でもある。だから、一方では、いじめを生んでしまうような息が詰まるような閉塞感を甲子園の野球大会を見ていて強く感じさせられもする。
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