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2015年9月22日 (火)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(6)

著者は、ここでルソーの思想を解説する。まず、「人間不平等起源論」においてルソーは、社会に支配する者とされる者の格差が生まれ、前者には高慢と虚栄が、後者に卑屈と追従がうまれ、それぞれ疎外状態に陥っていく。それは奴隷状態といえる。この奴隷の反対の意味が自由であり、震源が奴隷にならないで自由にいられる社会を築く可能性を論じたのが「社会契約論」である。ルソーは、このような社会を築くための手段として社会契約を構想する。この社会契約において、人々は一つの分割可能な共同体へと結合し、全ての権利を共同体に渡して一つに束ねる、という契約行為を行なうことになる。この契約の主体は自分たちであり、ルソーは人民と呼ぶ。その束ねた権利を主権と呼ぶ。すなわち人民主権ということだ。そして、この共同体は一般意志に従って運営される。

一般意志とは、個々の人間が特殊な「私」の次元から一般的な「公」の次元に思考を移して意志を一般化したものだ。一般化とは、だから自己利益の追求をひとまず置いて、自分を含む多様な人間がともに必要とするものを求めていこうとすることだ。その「私」から「公」への移行に熟議的理性が行使される。熟議的理性を行使するとは、理性に尋ねて考えを形成したり変えたりすることだ。多様な人間がいるということは自分と異なる人がいるということで、そのような自分と異なる他者と人間としての共通点を見つめるためには、自分の中に深くもぐり、そういう主体としての自分を選び取ることが必要だ。これが「互いに認め合い」ということで、決して全体の中に個人が埋没することではない。そこには、自分のみならず他者をも尊重するという節度ある利己心が契約という形態に結びつくのである。

社会契約により束ねられた主権が、一般意志に基づき共同体内での取り決めを定める。その取り決めに従って、共同体のメンバーたちは生きることになる。この一般意志は、あくまで個々の人間が、自らの精神の中に見出していくもので、そのためにはある法案が一般意志に適うかどうかは、メンバー全員が直接参加し、各自が熟議的理性で辿り着いた判断を表明し、多数決で決める。だから、多数決の結果と自分の判断が違っていたら、それは自分の判断が間違っていたことになる。自分は一般意志の判断を見つけ損ねたということなのだ。そして、一般意志は自らの意志でもあるがゆえに、それが定める法に従うことは、自ら定めた法に従うことになる。

但しこれには条件がある。それは、人々が熟議的理性を働かせた投票でなければならず、投票の対象となる事項は、そのような熟議が可能なものでなければならない。だから、人々の利害対立が鋭いものは投票の対象にならない。そのための対策としては、第一に上位の憲法により立法の方向性を制限するなどの多数決より上位の審級を事前に立てておくこと。第二に、複数の機関での多数決にかけること。第三に、多数津で物事を決めるハードルを、満場一致のように過半数より高くすること。これらは、一つの法案に対して是非を決めることだが、選択肢が三つ以上のときには、集約ルールの選択も絡んでくる。

 

著者が、正しさの根拠として持ち出してくるのが、ルソーの「一般意志」という概念である。著者によれば「一般意志」とは人々が「公」の次元に思考を移して、全体のことを考えていくのを突き詰めるとそうなるというもの。ルソーの言っているのとちょっとズレているような気もするが、要は個人の利害とか私的な発想を離れて、別の次元に移って考えたものであるというのが最低条件。そのためには熟議が必要で、その結果として多くの人の考えることがすりよっていくようになるのと、多数の考えが確率的に正しいに近づくということを根拠に議論を進めているようにみえる。そのようにして得た結果だから、違う意見の人は、その意見が間違いであるということになる、と極論すればそういうことになる。

これは、結論ありきの議論に見えなくもない。まず、一般意志ということが正しい結論であるかどうか、ということが全く吟味されていない。これでは、多数決の求める答えというのが一般意志ということが前提としてあるようなことなってしまうが、はたしてそうなのか。これは、例えばの話で、ワン・オブ・ゼムに過ぎないのではないのか。たぶん、著者は、最初はそのつもりで議論を始めたのが、そのまま突き進んでしまったのではないかと思う。実際に、「私」から「公」に思考の次元が移るというけれど、具体的にどのようなことなのかが著者もイメージできていないのではないか。単に抽象的な図式としてかたっているに過ぎないように見える。例えば、個人的な利益を超えて全体としての効率性を追求する官僚的な形式主義と一般意志とは、どう違うのか、この著者の議論では、区別できないのでないと思う。いわば、絵に描いた餅の域を出ていないと見えてしまうのだ。

 

実際のところ、法案を通すのにいちいち共同体の構成員を全員集めて人民集会を開くわけにはいかない。そこで、選挙で議員を代表として選び、代わりに立法してもらう、というのが代表民主制である。ルソーは、これを否定する。人民とは一個の分割不能な共同体である。一般意志がそれを指揮するが、それはあくまで一人一人の人間の精神的な意志である以上、引き剥がし誰かに譲り渡しようがない。あくまで一般意志は精神的なものだからだ。ましてやそれを、分割不能な共同体のどこか一部分にだけ与えるなど不可能である。なんせ部分に分割できないのだから。さらには代表制によって、一部の者が立法権を占有すると、他の者は自ら定めた法に従う自由である道徳的自由を失うことになる。他者が定めた法に従うことになるからだ。代表制のもとで代表たちは道徳的自由を得る一方で、他の者はそれを失う。この、代表制のもとでの道徳的不平等は、社会契約の根本的特徴である対等性に違反する。代表制は人民主権の観点から正統化しえない。著者はオストロゴルスキーのパラドクスを持ち出して、確率によって、代表制と直接民主制が正反対の結果をも生み出すことを検証してしまう。

 

ルソーの一般意志の議論は、代表制を否定するというけれど、ここまでの著者の議論では否定しきれないのではないか。つまり、「私」から「公」に思考の次元が移った人々が熟議によって考えをすりよらせていくということだから、全員である必要はなく、不特定の人々であれば、結果は全員の場合に近いものになるはずである。むしろ、単なる手続きの問題だけで本質的なところでは代表制と直接民主制ではほとんど同じ結果になる。

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