美味しい考
あるグルメ氏が言うには、美味しい物は誰だって大好きなはずだが、それをもっと美味しくもっと美味しくと追求していくと、あるラインを超えたところからこんどはそれを美味しいと思えない人が急増していくそうだ。美味しい物はみんなが好きだが、もっと美味しければ美味しいほどみんながそれをもっと好きになるとは限らないという。実際に、料理人はよく、自分が本当にうまいと思う物を提供しているのです、と言うがわりとそれは嘘で、言い過ぎかもしれないが、それはあくまでそのお店に来る不特定多数のお客さんに嫌われない範囲でのベストを尽くしている、という程度だそうです。 これは、音楽なんかでも、たしかに同じようなことが言える。例えば、ホロヴィッツという名ピアニストのクリスタルのような輝かしいピアノは、日本の有名な評論家が“ひびわれた骨董品”と評された。好き嫌いということに置き換えられてしまうのかもしれないけれど、ちょっと違う気もしないではない。 で、料理のことに戻ると、みんなが美味しいと思うもの、例えば結婚披露宴のフレンチなんてのはその最たる物で、よほど特殊な場合を除きそれは美味しいかもしれないけれども単に美味しいだけだ。多分、音楽でいえば名曲全集なんていう録音をしている有名指揮者の、誰にでも聴きやすい演奏なんかだ。これに対して、同じフレンチでも小規模なネオビストロのようなところだと、一部に嫌われても構わない、という姿勢のところは少なくないから、単なる美味しいを超えた美味しい物に出会える確率は多少なりとも上がる。グルメブログなんかで、たまにある極端な低評価レビューからそういう店の本当の魅力が垣間見える事は少なくて、本当の美味しい物は嫌われる事を恐れない姿勢からしか生まれないそうだ。 これは、たぶん美味しいものだけに限ったことではないと思う。
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