美味しい考(3)
指揮者のカルロス・クライバー、ピアニストのアルトゥール・ベネデッティ・コケランジェリ、マルタ・アルゲリッチといったクラシック音楽の世界では超絶的な演奏をするといわれた人々は、キャンセル魔、というよりむしろ、人前で演奏をすること自体が珍しい事態となっていた。「これは!!」というようなベスト・プレイをしてしまうと、それほどのプレイはめったにできることではなく、そういうプレイをすると聴衆も期待するし、自分でもそこそこのプレイで満足できなくなって、演奏が、ある種の奇蹟的な体験のようなものになった。しかし、そんな超一流ではないけれど、過密したスケジュールでも常に、堅実な演奏をする演奏家もいる。それはそれで凄いことだと思うが、音楽の世界では、最初に名をあげた人々にたいして、凡庸と評価されてしまう。
しかし、これが料理の世界であれば、毎日食べなければならないところで、一生に一度あるかの奇蹟的な体験などというのは意味をなさないといえる。音楽が無くなっても生きていけないけれど、食べ物が無くなれば生きていけない。むしろ、凡庸であることは必須になる。例えば、おふくろの味、などというのは凡庸、月並みであることが生命といえる。時折のハレの非日常的な祝祭のようなときには、附録的な付加価値の面で、豪華なレストランとか料亭という空間とか、盛り付けとか器という見てくれとか、有名店とか高価とかの“ものがたり”を加味すればいい。本質は変わらないし、変わらないからこそ、存在価値があるのではないかと思う。
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CZT様
私の言った観念は、雑駁に言えば記憶でしょうか。
経験の記憶が蓄積され、選択され、変形され、創造され、さらに想像されたものの集まりのようなものかと思います。
投稿: OKCHAN | 2015年9月 7日 (月) 07時58分