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2015年9月13日 (日)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(7)

第7章 高度成長と40年体制(2)

経済成長というのは、通常はさまざまな部門が不均衡に成長する過程である。戦後の日本の高度成長についても、これが当てはまる。まず、製造業の大企業が、国際的な競争のなかで高い生産性を実現した。これらの企業の多くは輸出産業である。これが日本型システムの第一の構成要素である。しかし、量的に見れば、大部分の労働力は、製造業の零細企業、流通業、サービス産業そして農業等に吸収されている。この部門の生産性、時間的な推移からも、国際的にみても大きく立ち遅れた。こうした状況を放置すると、所得格差、地域格差が拡大し、社会的緊張が高まる危険がある。しかし、日本の高度成長の過程では、そうした摩擦が最小限に食い止められた。所得面では、生産性の低さにもかかわらず、低生産性部門の所得が、高生産性部門と歩調を合わせて上昇した。これは、まず、高生産性部門で実現された高生産性が、労働市場を通して経済全体の賃金を引き上げたからである。それだけでなく、政府が衰退産業に措置を講じ退出の摩擦を最小限に抑え、規制によって低生産性部門を競争の圧力から守った。さらに、補助金や優遇措置などによって高生産性部門からの所得移転を行なった。

さらに生活面で見る限り、都市対農村という地域関係でも格差が拡大しなかった。それは、全体としての経済成長率が高かったためではない。政府が経済活動に広範に介入し、農業、零細産業、後進地域などに対して様々な保護を与えたからである。また、道路を始めとする社会資本や鉄道の整備を、地方を重点として行なったからであった。つまり、大都市圏の企業に対する法人税とし労働者に対する所得税を国が徴収し、これを地方に配分するという地域間移転が行なわれたのである。高度成長の過程で放置されたのは、むしろ大都市であった。

ここで注目したいのは、格差是正のために使われた手段が、教科書的な社会保障制度ではなかったことである。実際に用いられたのは、戦時体制下で導入されたものが多かった。

 

高度成長期における財政の基本的な役割は、マクロ的な貯蓄・投資バランスの観点から見れば、その規模を最小限に維持することによって民間部門の資本蓄積を可能にしたことにあった。この意味で、財政は高度成長というドラマでの傍役でしかなかった。しかし、それは強力な傍役であったと考えられる。なぜなら、財政は、規模の面では小さな政府であったが、質的側面をみると、けっして弱い存在ではなかったからである。この質的側面とは、高度成長に取り残される部門に対して断片的・後追い的補助を行なうことであった。つまり、高度成長に伴うひずみを矯正することによって社会経済の案手を保つことに財政の基本的な役割があった。その原因として、第一に、防衛費の負担が軽かったこと。第二に、社会保障制度の整備が立ち遅れ、年金保険を中心とする社会保障支出の負担が軽かったことだ。

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