野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(4)
第4章 40年体制の確立(3) 現在の日本では、持ち家率が極めて高いが、1940年以前は、むしろ借家住まいが一般的であり、住居の流動性は高かった。1889年に制定された民法では、借地借家契約は、契約自由の原則に委ねられていた。1921年の借地法は地上権と賃借権を借地権として一体化させ、短期間の借地契約を禁止することで、建物を保護、つまり、投下資本の回収を保障することを図った。この背後には、東京下町の商工業者の保護、つまり、第一次世界大戦後の経済発展の中で、地主階級に対する新興の産業家階級の勢力増大という意味である。都市への人口集中が進み、住宅問題が表面化し始めたが、政府は市場の需給関係によるものとみて、家賃統制には反対の立場であった。それが1941年の借地法・借家法の改正で政策が転換する。この改正の焦点は、地主・家主の解約権の制限にあった。そして、借家法では家賃統制を徹底させた。家主の解約権を制限することで、借家人を追い出して闇価格で新しい借家人を入れることをできなくした。これは、すでに賃貸している住宅について、世帯主が戦地に応集した後に残された留守家族が、借家から追い出されることを防ぐ目的もあった。このように法改正は戦時体制の一環であり、社会政策立法として大きな役割を果たした。 戦時期の農政官僚は、小作貧農の救済に使命感を持っていたと思われる。農地調整法により小作権を物権化して地主により土地の取り上げを実質的に禁止し、国家総動員法の一環として小作料統制令を制定し小作料の引き上げが禁止となった。そして、1942年の食糧管理法により米は国家管理の下に置かれた。江戸時代以来、小作人は地主に収穫の半分程度の小作料収めていたが、これにより小作人は原則として地主ではなく政府に米を供出し、その代金を地主に払うこととなった。小作人は政府から直接収入を得ることとなり、さらに政府は増産奨励金を交付して高く買い上げる一方で、地主には交付しなかった。そして、地主に払う小作料は据え置いた。これにより小作制度は事実上形骸化していった。これは、小作農の負担を軽くして、彼らの増産意欲を高めることにあった。
« 学問って、胡散臭い? | トップページ | 野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(5) »
「ビジネス関係読書メモ」カテゴリの記事
- 琴坂将広「経営戦略原論」の感想(2019.06.28)
- 水口剛「ESG投資 新しい資本主義のかたち」(2018.05.25)
- 宮川壽夫「企業価値の神秘」(2018.05.13)
- 野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(10)(2015.09.16)
- 野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(9)(2015.09.16)
コメント