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2015年9月23日 (水)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(7)

第4章 可能性の境界へ

実際には、一国の法案を審議するのに直接民主制では多大な労力と時間がかかる。そうであれば、代表を選出して彼らに決めてもらう代表制にするということになる。

コンドルセは代表制に特有のメリットとして議場における熟議の可能性を挙げていた。それによれば、ある問いに対して論点が明確になるにつれ、最初はバラバラであった議員たちの意見が収斂していき、また意見の差異はどの原則を尊重するかの差異として明らかになってゆく。これは、コンドルセが代表制に一般意志を見付けようとする積極的な意義付けを与えた。そのためには代表たちは議場で、支持者の意向ではなく、一般意志が意志するものを努めねばならない。この場合、代表は有権者が候補者の諸問題への判断力を基準として信託される形と言える。しかし、この場合でも満場一致は期待できない。争点が明確な問いであれば、ダンカン・ブラックが発見した中位ルールという集約ルールが有効だという。そのあと、集約ルールの吟味が続く。

 

集約ルールがさまざまあって、その吟味が続きますが、何か肝心なところを素通りしてしまったような感じがします。著者は多数決ルールが単純な集約ルールでいいのかという問題意識しかなかったような印象で、多数決ルールそのものがはたして妥当なのかという視点に広がることはなかったようです。最近の日本の例で言えば、議員選挙で多数派になったことで“民意”を得たと豪語する政党の代表者の勘違いか詐術的なアピールかに対する反論の意味合いをかねているのだろうか、と思わせられるくらいでしょうか。

たとえば、多数決の結果が妥当(私は著者のように正しいという言葉を用いる勇気はありません)であるかどうか、という議論を始めてはいますが、結局話は展開せずに、導入ネタのような扱いで、私にはそちらの方が本論として議論してほしかったと思います。そこから、多数決についての様々な問題点が出てくるはずですが、その全てが無視されてしまっています。例えば、一般意志についての議論でルソーは一般意志に熟議で達するには個人がそれぞれに努力することが必須で他人に頼って徒党を組むようなこと、つまり政党というのは民主制に反するものだと言っていまする。しかし、選挙や国会の議決は政党単位で動いています。また、ここでいう熟議が実際に行なわれているか。そのためには、議員が政党に縛られず、また、選挙の選出母体である地域や団体の利害関係から切り離されることが条件となるはずです。そういう、実態を見て、どうなっているのかということに全く触れられていいません。そんなこともあって、かなり欲求不満になりました。

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