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2015年9月18日 (金)

坂井豊貴「多数決を疑う─社会的選択理論とは何か」(2)

だが自分で決めることと自分たちで決めることには大きな違いがある。一と多の違いだ。自分だけのことではなく、自分たちの決定を行なうためには、異なる多数の意思を一つに集約せねばならない。具体的にどう集約するかというと、多数決がよく使われる。むろん単に意思を集約してもしょうがない。まともな情報がないなかで、また深く考えずに投票するのでは、自分たちでうまく決められていることにほかならない。だからこそ政府は情報を公開すべきだし、表現の自由は大切だし、知ろうとすることや熟慮することも大事なわけだ。だがこれらの諸条件がすべて満たされたとして、多数決は人々の意思を適切に集約できるのだろうか。

さて、この自分で決めるということが自由であるということで、原則であるのを、自分たちで決めるにしたのが民主制ということですが、各個人が自分で決めることをまとめても、自分辰で決めるということにはならない。それは各個人の多様性ということです。自分が他人に行動を強制されないことが自由でそれが原則ということは、他人が自分に行動を強制する可能性があるということです。しかし、他人から強制されても、自分がそれをすべきと考えていれば、自分はそれを強制されたとは考えません。従って、この場合は自分と他人がすべきと考えていることが違うという前提がなければ成り立ちません。

多様性ということは、自分と他人とは違うということです。それが前提としてある。だから、自分で決めるということと自分たちで決めるということは一致しません。自分たちというのは複数の人間が含まれることになりますが、それぞれが自分でないわけで、それぞれが違う自分なわけです。当然、それぞれの自分で決めたことは違います。その場合、自分たちで決める、結果をひとつにまとめることはできるのか、そのときに意見の集約(ひとつにまとめる)方法として多数決という方法が使われるということです。ただ、単にそれぞれの人の言っていることについて、似ている言い分を括ってまとめるなどして集計しても、それで決定ということにはならないでしょう。そんなことでは、自分の言い分が通らない人は納得しません。そこで、多数決の結果が決定として認められて成立するためには条件があるということになります。それは、投票する人たち全員が平等に十分な情報を得ていること、異なる意見とも議論をしたりして、自分だけのためでなく全体のためということを十分考えて出てきた結論を投票するということです。しかし、著者はそれでも、投票の方法によっては結果が異なってくるというおそれを指摘します。

 

2000年のアメリカ大統領選挙を例に挙げよう。当初の世論調査では、民主党の候補ゴアが共和党の候補ブッシュに勝っていた。だが途中で泡沫候補のラルフ・ネーダーが立候補を表明、最終的に支持層が重なるゴアの票を喰い、ブッシュが漁夫の利を得て当選することとなった。多数決は「票の割れ」にひどく弱いわけだ。

多数決という語の字面を見ると、いかにも多数派に有利そうだが、かならずしもそう働くわけではない。とはいえそれは少数意見を汲み取る方式でもない。おそらく多くの人は、多数決に対するそのような違和感を、どこかで感じたことがあるのではないか。それができれば、より優れた意思集約の方式を作れるはずである。またそうした方式作りの可能性を追求することで、何が不可能なのかも見えてくるだろう。多数決を含むあらゆる意思集約の方式は、多を一に結びつける関数として数学的に表わすことができる。であれば「違和感」や「優れた」などの主観的な感覚をも、関数の性質として定式化し扱ってしまえばよい。

 

2000年のアメリカ大統領選挙は、この人に大統領になって欲しいという突出した候補がいなくて、実質的にこの人だけにはなって欲しくない人を落としていくという選挙になるべきであったのが、予定外の第三の候補者がでてきたことにより、一番なってほしくない候補者が当選するという結果になってしまった。それは、本当にみんなの意志を反映しているのか、そこに投票の方法が意志と食い違っていたのではないか、と著者は問題提起します。この大統領選挙が間違っていたとはいえないでしょうが、少なくとも多数決の投票という制度を自明のものだとして、何の疑いも持たずに、その結果を見て、民意などと錯覚してしまう政治家もいることなので、それがみんなの意志と食い違うようであれば、それは問題ですから、ここで多数決のシステムを一度考えてみましょうということです。

著者は統計にずっと携わっている人なのではないかと思われるところが見受けられます。それは多数決の集約の方法に対しては問題意識を持っているのはわたるのですが、それは方法論の試みのような問いかけとしてです。そもそも、人間と言うのは多様なもので、それを、どんな方法にせよ多数決という集計の対象にするということは、数という抽象的なあり方に置き換えることを意味します。そのプロセス自体は自明として、何のアプローチもしていません。そこにある疎外の事実を棚上げしている、と私には考えられます。それは、新書というスペースの制約のためなのか、わかりませんが。全く触れられていないのが、解せないところです。

 

民主的でない投票はあるが、投票のない民主制はない。投票でどの方式を用いるかは、民主制の出来具合を左右する重大要素である。複数の候補者から一人の政治家を背移出する選挙を例に、多数決という投票方式についてさらに考えてみよう。多数決のもとで有権者は、自分の判断のうちごく一部に過ぎない「どの候補者を一番に支持するか」しか表明できない。二番や三番への意思表明は一切できないわけだ。だから勝つのは「一番」を最も多く集めた候補者である。そのような候補者は広い層の支持を受けたものとは限らない。極端な話ある候補者が全有権者から「二番」の支持を受けても、彼らが「一番」に投票するのであればその候補者には1票も入らない。ゼロ票である。これは多数決に問題があるのではないだろうか。しかし多数決を採用しているのは人間である。多数決を自明視する固定観念が悪い。ではいったい私たちは多数決の何を知っているのだろうか。それはいつ、何を対象として、何のために使われるべきものなのか。利用上の注意点は何か。どんな時に他の手法に取って代わられるべきなのか。多数決をするとしても、重要な物事を決めるときは、何%の賛成が必要とされるべきなのか。家電製品のように説明書が要るのではなかろうか。

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