野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(6)
第6章 高度成長と40年体制(1)
欧米的な企業と異質と言える日本の企業の仕組みの特徴として、次のような点を指摘できる。第一の特徴として、終身雇用と年功序列賃金を軸にした日本型の雇用慣行。第二の特徴として、企業別の労働組合。そして、第三の特徴として、資本と経営の分離が進み、株主代表としての外部取締役がほとんどいないことである。会社の経営陣は、内部出身者によって構成されていて、このシステムのしたでは、従業員が滅私奉公的に企業に忠誠を尽くすことによって、企業の中で昇進し、経営陣に入ることができる。この仕組みが勤労意欲を高めた。その上、企業は従業員に対して、様々な福利厚生サービスを提供している。こうして、日本の企業は、従業員の生活全体を覆う存在になっている。こうして日本的企業における企業と従業員との関係は、単なる一時的な労働契約ではなく、運命共同体的な性質を帯びている。個人の生活のすべてが、会社の盛衰に依存しているのである。このため、企業は株主のものという意識はほとんどなく、労使双方で企業を共同物として協調的に支えてゆこうとするシステムとなっている。
日本の高度成長をマクロ的に見れば、高い貯蓄率に支えなられた豊富な貯蓄が存在し、それが次々と投資されていく過程であった。ここで重要なのは、企業への資金供給が間接金融方式で行なわれたことである。40年体制によって確立された金融システムが、始源を成長分野に割り振る上で重要な役割を果たしたと考えられるのである。間接金融方式の下での資金の流れは、金融市場における統制によって強くコントロールされた。これによって、産業構造と経済成長のパターンが影響されたと考えられる。具体的には、第一に、人為的低金利政策によって信用割り当てを行い、基幹産業と輸出産業に資金を重点的に配分したこと、第二に金融鎖国体制を敷いて資金の国際的な流れをシャット・アウトしたことがあげられる。
人為的金利政策は、次の二つの規制によって支えられていた。第一は、金利規制である。1947年の臨時金利調整法により、金利が法的に規制された。第二は、大蔵省の行政指導による店舗規制である。金利を人為的に低く保つことによって生じる既存の金融機関の間での競争に対して、店舗行政によって競争を調整した。その際、経営基盤が比較的弱い中小金融機関が優遇された。この結果、いわゆる資金偏在現象が生じた。中小金融機関は店舗面では優遇されたために預金は集まったものの、金利規制のため一定以上のリスクをもつ中小企業あるいは個人に貸し出すことは難しかった。営業基盤が地域的に限定されているこれらの金融機関は、大企業を顧客に持つことはできず、必然的に余剰資金を抱えることになった。これがコール市場などの銀行間市場を通じて都市銀行に流れていったのである。都市銀行は基幹産業と強く結びついており、吸収した資金を重点的に基幹産業に流した。こうして、金融機関の間には、長期信用銀行・都市銀行を頂点とし、地方銀行・相互銀行・信用金庫・信用組合とつらなる整然たる秩序が形成されることとなった。大蔵省は、護送船団方式をとり、このハイアラーキーを保った。
この結果として、最低限、次のようなことは言えるだろう。第一に、金融鎖国体制がなければ、国際的水準から乖離した低金利政策を長期にわたって継続することは不可能であっただろう。また、もし自由化が早期に行われていたとすれば、発展途上国の一部に見られたように資本の海外逃避が起こり、貯蓄が国内資本の蓄積に向かわなかった可能性も十分ある。また、国内金融が完全な自由市場メカニズムで動いていたとすれば、資本が絶対的に少なく、労働か過剰であった戦後日本のような経済にあっては、資本は労働集約産業に集中し、重工業化は容易に進まなかった可能性が強い。さらに、不動産等への資本の不胎化を生み、生産的資本の蓄積が進まなかった可能性もある。金融コントロールによって、はじめて資本集約的戦略産業への重点的資金配分が可能になり、戦後日本の高度成長の柱となった重化学工業化が可能となったと考えられる。
敗戦によって荒廃の極にあった経済を再建する過程で、財政は主役的な役割を演じた。財政は主役的な役割を演じた。財政を通じて巨額の資金が産業に供給され、それが復興のキイ・ファクターになった。当初は、産業活動のベースを支える銀行部門が損失を補償され救済された。次のステップは、46年から47年の傾斜生産方式によって基幹産業の再建が図られた。これは、乏しい資金を石炭・鉄鋼を中心とする重点産業に傾斜的に配分し、それを踏み台として次々に生産を拡大させようとする政策である。復興の初期段階における財政の役割は、国民大衆に耐乏生活を強制し、その犠牲によって調達した資金を基幹産業に供給するためのパイプであったといえる。
しかし、1949年を境として財政の性格は変貌し、高度経済成長の財政の基本的な性格が形成されていく。1948年の占領軍による、ドッジ・ラインは補助金を切って国内需要を圧縮させ、それによって一挙にインフレを収束させようとするものであった。このため、一般会計のみにとどまらない総合的な収支の均衡化が図られた。いわゆる超緊縮予算である。この後、1960年まで、一般会計は、国債に依存しない均衡予算主義を貫いた。
ドッジ・ラインはインフレの収束を目的とし、その成果を果たしたが、このときの緊縮予算の政策が、それ以降の財政・金融構造に基本的な性格付けを与えることになった。それは、財政の規模を最小限に維持することによって、家計の貯蓄を財政が吸収せず、企業が大幅な資金不足部門となることを可能としたことである。こうして、家計部門で発生する貯蓄を民間の設備投資に振り向けることを可能にした。つま、高度経済成長を可能としたマクロ経済的な条件は、貯蓄・投資のバランス上、財政部門が大幅な資金不足部門とはならなかったことである。一般会計を中心とする財政の機能は、成長分野をリードすることではなく、成長から取り残される部分に補助を与えることによって、高度成長の摩擦を調整することに移行した。こうして財政は主役から傍役に後退し、それに代わって金融が主役として登場することとなった。
日本型企業、経済成長、間接金融という三者の間には密接な関係がある。日本型経営システムにおいては、年功序列賃金と終身雇用を同時に実行しなければならない。年功序列賃金と言うのは、最初に低い賃金で我慢して、後でそれを取り戻すという意味で、ネズミ講と同じ原理なので、これを継続するには、中高年労働者の比率を維持しなければならない。そのためには、企業は常に成長していなければならない。こうして日本型経営の企業は、成長を余儀なくされる。逆に、企業規模が拡大すると若年労働者の比率が高まり、年功序列賃金の下では平均賃金は低下する。このため、競争力が強化される。このように、日本型経営システムが円滑に運営されるためには、高い経済成長が必要であり、逆に日本型経営システムは高い経済成長を生む原動力ともなった。企業の目的は、利潤追求ではなく、成長そのものとなる。そのためには、資金を借り入れで調達することが必要であり、また、有利でもある。こうして、日本型経営システムと間接金融は、密接に結びつくことになる。
このようなメカニズムに組み込まれた主体を整理すれば、基幹産業における大企業と金融機関である。ここには、重要な主体が欠落している。それは、貯蓄の供給者たる家計である。これは、国民の零細貯蓄がより有利な収益を得る機会を奪われたことを意味する。しかし、同時に、つぎのことに注意する必要があろう。第一は、高度成長によって賃金水準が極めで急速に上昇したことである。高度経済成長期において卸売物価がきわめて安定していたにもかかわらず消費者物価が上昇した原因は、主としてこのような二順構造に伴う相対価格の変化である。第二は財政を通じて後進部分への所得移転が行なわれたことである。このように、高度成長のシステムは、家計をその中に含まないシステムであったものの、高度成長の成果は、確実に彼らに還元されていたのである。
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