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2015年9月 8日 (火)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(2)

第2章 40年体制の確立(1)

40年以前の日本の企業は、教科書の描く古典的な企業像にかなり近いものであった。まず、資金調達面を見ると、株式による資金調達が産業資金の中で大きな比重を知る、自己資本比率は、戦後よりもはるかに高かった。従って企業の支配構造も株主中心で、株式保有は大株主に集中し、その大株主が企業の取締役となり、直接経営陣に参加していた。そのため、配当性向は非常に高く、企業は獲得した利益の大部分を株主に直ちに分配していた。

しかし、日中戦争が長期化し、経済は戦時インフレに陥った。このため、政府は統制経済の採用を迫られ、国家総動員体制の確立へと突き進んだ。国民生活が圧迫される中で高い配当性向は、所得分配の観点から望ましくないとして配当が規制された。さらに、企業は利潤動機に従って行動すべきでないとして、利潤動機の根底にある株主の権利を制限する商法改正を実施し、経営者が株主に誓約されないで増産に専念できるようなシステムの構築が目指された。さらに役員賞与に対しても規制が加えられ、役員の構成も内部昇進役員の比率が高まるような変化が生じた。

このように企業における株主の権限が制限され、企業は従業員の共同体的な性格のものとなった。それをさらに強めたのが、雇用慣行の変化であった。長期雇用契約や年功的賃金は、それまで一部の重化学工業の大企業で徐々に導入されていたものが全国的な制度して普及した。以前のような職能や生産性を反映した賃金体系から、勤続年数を重視した生活給的なものに変質した。1939年には、賃上げを建前として認めないという賃金統制が行われた。このとき、従業員全員を対象にして一斉に昇給させるのは例外とされたため、現在で言う定期昇給の仕組みが定着した。このようなプロセスにより、年功序列賃金と勤続による昇給が一気に普及した。

当時の労使関係は労働者のインセンティブを低め、不安定なものであるとして、産業報告会が制度化された。これは事業所別に労使双方が参加して、労使の懇談と福利厚生を目的としたもので、この背後には従業員を企業の正規メンバーとして位置づけるという、新しい企業理念があった。従来は職員と職工の身分格差が非常に大きかったため、両者を従業員として一括すること自体が大きな変化であった。これが、後の企業別労働組合となっていく。

下請け制度も戦時経済下で広まったという説もある。もともと大企業は部品に至るまで内製で自家生産する方式をとっていたが、戦時期の増産に対応するための緊急措置として下請け方式を採用した。これにより中小企業の技術水準を向上させ、中小企業が安定した受注を得られるようになっていった。

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