野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(3)
第3章 40年体制の確立(2)
昭和初期の企業の資金調達は直接金融の比重が極めて高かった点が特徴的だ。これは財閥の力が強かったことにもよるが、金融市場には統制が稀薄であったこと、多額の資産を保有する資産階級が存在したことが要因といえる。他方、間接金融の方は金融恐慌により多くの銀行が休業に追い込まれていた。そのため、金融システムにたいする政府の介入(当初は安定化)が進み、戦時体制のなかで「時局金融」という動きがはじまる。日本興業銀行に強大な権限が付与され、軍需産業への集中的な資金投入が進められ、産業構造が変化していった。消費関係の軽工業の比率が低下し、重化学工業の比率が上昇していった。
企業が利潤を追求するのは株式で資金を調達するからであり、これにかわる資金調達手段があれば、利潤追求か゜なくなるだろうという考えがあり、他方で、企業の側においても、配当制限によって株式市場が低迷したため、市場からの資金調達が困難に成り、従来株式により調達していた長期資金を間接金融システムから供給してもらうニーズが高まった。それがメインバンク制に連なっていく。そして、最後の仕上げとして、日本銀行法が改正された。銀行はオーバーローンとなって日銀に依存する体質となった。各銀行には審査部門が設立された。それまでの銀行は長期金融の経験が乏しく、十分な審査能力を持っていなかったからである。これにより資本市場の役割はさらに低下した。
第3章 40年体制の確立(2)
欧米諸国に遅れて産業化に着手した日本では、産業化が国家の政策的介入によって進められた面が強かった。このため、官僚の力も強かった。明治期の殖産興業政策は、それをよく表わしている。しかし、だからといって、民間経済活動に対する政府の直接的で全般的な介入が行なわれていたわけではなく、その主な役割は民間資本の保護・育成あるいは救済にあり、基本的には営業の自由が貫徹するものであった。
1930年代に入って、昭和恐慌を背景に経済統制が始まった。事業法により石油、製鉄、造船、自動車、有機化学、重機械等の特定の業界で事業経営を許可制とし、事業計画を許可制にする一方で税制上の特典や助成金などの保護育成をするもので、企業の自治が原則とされていた。1940年代には統制会という業界ごとにカルテルを結成し、政府がカルテルを通じて、形式的には民間の自主規制と言う形で、会員企業を統制しようとしたものであった。これが、高度経済成長期の政府と業界団体の原型となったと考えられる。しかし、統制会は十分に機能したとは言えず、より直接的に政府の意向を反映させるべく、非営利の特殊法人であって政府の指導監督に服する営団が作られた。戦後の公団や公庫に引き継がれていく。
このようなプロセスにおいて、統制を進めようとする軍部・官僚とそれに反対する財界との間で、経済体制をめぐって激しい論争が行なわれた。軍部や官僚は、財界の営利主義を非難し、総合的な計画経済の遂行を主張した。これに対して、財界は官僚主義を批判し、民間の創意の尊重を要求した。この時期に重要な役割を果たしたのが革新官僚である。満州国の統制経済の実施や治安維持にあたった新官僚の系譜を引き継ぎ、さらに当時のヨーロッパのさまざまな理念、マルクス主義や国家社会主義などに感化された人々であったといえる。典型的な例が1937年の電力国家管理法案である。ここでは、古典的な私有財産制度を基本的には認めつつも、そこに問題点を指摘し、民有国営論という所有と経営の分離、つまり生産施設を国有化することはしないことで、経営効率の低下を防ぎ、しかし、その使用については公的に管理しようとしたのであった。そこに底流する、従来の法規による取り締まりや監督指導の枠を超えて、国家目的のために高度に組織化された社会への指向が、彼らの核心たるゆえんであったといえる。しかし、彼らは単に国家統制を強化しようというだけでなく、営業の自由や利潤原理の否定という、とくに、資本と経営を分離し、企業目的を利潤から生産に転換すべきというところまで行ってしまう。これに対しては財界から激しい反発が起きる。
明治以降の日本の税制は、地租や営業税という外形標準課税が中心で、産業部門への課税は間接税が中心であった。また、地方税も分権的であった。つまり、1940年以前の財政システム、分散化や分権化の点で、戦後よりもはるかに欧米型に近いものであった。1940年の税制改革により、所得税を基本として、財産税を補完税として、その一部を地方政府に配分することにより地方財政を統制するもので、さらに戦費調達のために給与所得の源泉徴収が導入された。また法人税が独立の税となり、所得税、法人税という直接税を中心に据えた税体系が形成された。以後、直接税中心の税体系は現在まで続いている。
中央集権的な財政の基礎も、この頃に築かれた。この大きなものは地方税制調整交付金制度である。現在の地方財政の基本的な仕組みがこのとき作られ、補助金、交付金などによって地方財政が中央に依存するようになった。まず所得課税を国に集中させて、所得税、法人税を基幹税とする国税の体系を作る。これを財源として、特定補助金を地方に支出し、それによって中央政府の決定した仕事を地方に執行させる。地方税は国税の付加税とされ、標準率が導入された。ここで重要なのは、制度の原点のみならず、運営理念の出発点もここに見られることである。財政調整の基本的な目的は、農村や貧困地方団体の救済である。その背景には農民の困窮への対応がある。このような分配制度、戦後財政の大きな特徴でもある。極めて社会民主主義的な傾向の強い制度であったといえる。一般に大規模な税制改革は政治的な抵抗のために、極めて困難な課題である。1940年の税制改革は戦時という異常な背景のもとで初めて可能になった大改革である。税体系の中心となった、所得税、法人税は所得弾性値の高い税である。これが戦後の高度経済成長のなかで多額の税収を生み出し、戦後の財政を支えることとなった。
社会保険制度も戦時体制として整備された。健康保険制度、厚生年金があまねく企業に普及した。これらの施策の直接的なねらいは、労働者の転職防止にあった。また徴収した保険料を戦費にあてる狙いもあった。しかし、社会保険本来の目的、国民に安心と希望を与えるという目的があったことも否定できない。これは、戦時において動員された大量の労働力に対する最低の生活保障を行なうという背景が指摘されている。
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