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2015年10月16日 (金)

軽薄な外来文化吸収?

中国文化が一般レベルでブームと言えるほど多数の人が受容しようとしたのは江戸時代からではないだろうか。武家の階級が中心ではあったが漢文の素読が日本国中の至るところで、子供から老人まで。武家以外でも伊藤仁斎は町人の出ではあったというし、かなり広く普及したと言えるのではないか。その漢文とりわけ漢語にあって日本語にはなかった観念的な概念というツールは、それまで仏教以外ではほとんどできなかった学問的な議論ができるようになったという点で、実は中国文化に激しく反発した本居宣長のような国学も漢語による概念なくしては成り立ちえなかった、といえる。しかし、それほどまでに熱狂的に中国の文献が学習されたにもかかわらず、本場に留学しようとする人がほとんどいなかったようなのは、なぜなのだろうか。鎖国と言う理由もあるが、幕末に西洋に密航を試みた人がいたのだから、それより近い中国ならば、もっと行くのは容易だったろうに。それだけ、中国の文化を深く正面から理解しようというものではなかったということだろうか。それは漢文の書き下しという便利な言い換えで文献を読んだことにも表われている。さっきの概念について、その意味内容を突き詰めて追求すれば、文化的なベースに遡らざるをえない。しかし、書き下し(いわゆるレ点などをつけて漢文を、そのまま日本語で読んでしまう)によって漢文を日本語として読んでしまうことで文化的な軋轢は生じない。それゆえ深い理解にまでは至らない。スムーズに日本語に置き換えてしまうので、表面的な理解に限られる。それは例えば、実践的なところの終始する、技術面とか、今でいえば理系の面。だから、当時はたくさんの人が漢文を日本語としてスラスラ読めた人がたくさんいたとしても、中国語のニュアンスとか語感を感じ取れる人は、ほとんどいなかった。その証拠として当時の日本人の作った漢詩は、中国人には稚拙で評価に値しないとされていた、という。それが、明治以降、こんどは西洋の学問を、中国語である漢語を使って日本語に置き換える、ということにつながる、という。そこに、異文化と交流し、理解するのではなく、使えるものをパクろうという、ある意味ユニークな学習姿勢があったのではないか。それを軽薄というか、したたかというかはよく見るか悪く見るかの違いでしかない。日本人は、巧みに外国の文化を吸収し、自分のものとしていまうというのは、このような表面的なレベル、つまりは軽薄さのゆえではないか。

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