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2015年10月 2日 (金)

ヘレン・シャルフベック─魂のまなざし(6)~5.死に向かって:自画像と静物画

Schjerfbeckparette_2最愛の母親と死別し、フィンランドが第二次世界大戦に巻き込まれるような状況、あるいは自身の老境に入ったことによる衰えなどがあったことから、シャルフベックの自画像には死の影が漂い始めるとして、つぎのような解説がありました。“「私は新しいことを何も始められない。私は弱く、家庭もない。自分の人生で私が得たものは絵を描き続けることのみ!」。シャルフベックの自画像による自傷行為は、社会から隔絶した疎外感が根本にあるのだろう。骸骨のように、影のように消え去る自己の表現は、社会の中で自らのボディ・イメージ─それはアイデンティティの確立に繋がる─を築けなかったことも関係していよう。おそらくシャルフベックは、自分の姿を醜く描くことで、迫り来る死に対する不安感や、自分の人生を振り返ったときの空虚感から一時的にでも救済されることを願っていたのではないだろうか。”なるほど、“ものがたり”というは完結していますし、分かり易いです。それは、実際に作品を見て行きながら、確かめていきたいと思います。

Schjerfbeckself3_2『パレットを持つ自画像Ⅱ』という1937年の作品を見て行きましょう。以前のシャルフベックの自画像と比べて顔の左右の対称性がなくなってきているのが目に付きます。顔の左右を分けるように額に影の線が左上に向かって伸びていますが、その線が太くて実体があるように見えます、そのため、顔が痙攣して左上にひきつっているようにピンとハネ上がっているように見えます。下顎も左にむかって飛び出ているような感じのするし、まるで顔の左側は輪郭線が崩れてきているように見えます。眼の形も左側は崩れているよう感じです。

1913年から26年にかけて制作された『自画像』は、ここで見ている晩年の自画像の先駆的作品と言えるでしょうが、次のように解説されています。“確かに表現が強調されたとはいえ、私たちを強くとらえるのは、むしろえぐり取られたような頬をもつ顔の左半分である。右半分には若い頃の美しい自分の姿が残されているものの、左半分はピカソの『アゴニョンの娘たち』のような変形を見せている。灰色の背景に灰色で自分の顔を描いたのは、身体性を後退させる意識に他ならず、頭部はまるで透明になったようだ。13年という年月に彼女の身に起こったことは、ロイターへの失恋であり、パリのアートシーンの変化であった。そのどちらもが、顔の左半分に反映されている。まるで腐敗し変形している過程を記録したかのようなこの顔は、彼女が苦悩を絵画表現に昇華することに成功したことの証でもある。”また、同じ説明の中で、ムンクの『叫び』との類似にも触れています。

Schjerfbeckblackmou_2『黒い口の自画像』という作品では、顔の左半分の崩壊は進み、さらに肥大化しているようです。上で引用した解説を読んでいて気がついたのですが、シャルフベックは、類似の作品として挙げられていたピカソやムンクの作品との大きな違いは、肖像画という範囲にかろうじてとどまって、その一線を越えずに踏みとどまっているということです。そのことによって、解説で少しだけ触れられているような“ものがたり”を見る者に想い起こさせるものとなっていることです。例えば、ピカソの『アビニョンの娘たち』は純粋に絵画として“ものがたり”を生む余地がないように見えます。それよりも、何が描かれているのか、を追いかけるだけで精一杯なのではないでしょう。シャルフベックの晩年の自画像で左半分が、ここで見ているように変形し、肥大化してきたのは、そういう“ものがたり”を見る者に想い起こさせるという点で、作品全体で統一的な“ものがたり”を生んでいくということから、例えば、顔の左半分だけでも“ものがたり”を生み出すようになったというように、全体の構成が変ったと私は思います。ただし、顔の左半分は全体の中では部分でしかありませんから、そこから生まれる“ものがたり”は断片的にならざるを得ません。これに対して、顔の右半分は崩れていないでしっかりしているのです。これは左半分とは違った“ものがたり”が生まれてくる余地があります。ほかにも、もっと小さな断片かもしれませんが、“ものがたり”の断片が生まれてくる余地があるようです。それで、作品全体をみると、どうでしょう。そこでは、さまざまな“ものがたり”の断片を見る者が見つけられるようになっている、反面、全体としての統一的な“ものがたり”は、もはや見えてこなくなってしまった、ということになりそうです。それは、見る者の手に委ねられた、と言ってもいいのではないでしょうか。そこに、制作者であるシャルフベックすら意図していなかった断片を見る者が見出す可能性も生まれます。その結果、これらの作品を見る者は、画家の自画像でありながら、それぞれに隠された“ものがたり”を自分なりに発掘し、それらを自分なりに解釈しつなぎあわせて、自身に適った“ものがたり”をつくり出すことができるのです。そこに、見る者がコミットするという余地が生まれます。そして、このコミットは、別の言葉に置き換えれば、作品への没入と言えると思います。

Schjerfbeckself4『黒とピンクの自画像』は1945年制作で、油彩による最後の自画像だそうです。“生命が消え行くのに同調するかのように、絵画は透明性を帯びている。イエスの顔から汗が拭きとられ、その尊顔が布に写った「ヴェラ・ウコン」のように、カンヴァスという人工物の存在が失われ、その表面は皮膚そのものと化した。それはもはや再現ではなく、行き場を失った彼女の顔が浮かび上がっているようなのだ。”という見事な“ものがたり”が解説されています。これは、作品としてまめられたものなのか、未完ではないか、ちょっと私には分からないので、何ともいえません。しかし、引用した解説のような、私には過剰ともいえる“ものがたり”になっているのをみると、ここに至って、画家本人の意図とか意識は、ある意味どうでもよくなってしまって、作品を見る者が自由勝手に、自分の“ものがたり”をそこに作り出してしまうことをするようになった作品ということができると思います。これは、シャルフベック本人の、そういう描き方というところもあるのでしょうけれど、個々にいたって、環境の勢いがついて、まわりが煽るように、見る者の側に自発的に、そのような接し方をするような環境が作品を育てることになったということなのではないかと思います、シャルフベック晩年の作品は、そういう点から見ることができると、私は思います。

Schjerfbeckgreen_2また、ここで静物画が数点まとまって展示されていました。今までの印象からは、あまり静物画や風景画を書きそうにないように思われました。初期の習作期は別にして、それらは“ものがたり”ともっとも離れたところにある題材に思われたからです。かといって、物体の存在感や形態といった外形に注目する眼の画家ではありえません。『緑の静物』という1930年制作の作品を見てみましょう。白い皿の上に数個の果物が乗せられているのでしょうか。それにしても、平面的で奥行きがなく、とくに、皿の上の果物は同じような色のため輪郭線でかろうじて、それぞれが分別できるのみです。また、背景も乱雑に彩色されているだけで、静物がどこに置いてあるのか分かりません。かといって、静物だけを取り出して描いてみせたという意図も感じられません。そうであれば、静物をとりたてて注目すべきものとして描くはずでしょうに、ベタッと絵の具を塗ったというにしか、私には見えません。

Schjerfbeckpump『かぼちゃ』という1937年制作の作品では、皿の上の野菜が色違いのため、それぞれが判別できることはできます。シャルフベックは自画像のように、配色を人工的に実際にモデルの色と変えてしまうことも、静物画では施さなかったのでしょうか。これらの作品を見ている限りでは、どういう物なのか、シャルフベックが何をしようとしていたのか、分かりません。という言い方では不正確ですね。これらについては、見ている私は、相応しい“ものがたり”をみつけることができないでいます。少なくても、自画像を見た“ものがたり”は、これらの静物画では当てはまらないことだけは確かです。自画像の晩年の諦念というのでしょうか死を間近にした、というよりは、これらの静物画には、別の方向性があるように、私には感じられます。それは、画家の死にとって途中で投げ出されてしまった、新たな方向性だったかもしれません。そうであれば、自画像を中心とした人物画に行き詰まりを感じて、静物画という別の方向への転換を試みようとしていたと考えられなくもありません。私としては、そう考えた方が、作品を面白く眺めることができます。

 

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