無料ブログはココログ

« ルーチンはクリエティブ | トップページ | 歴史と解釈? »

2015年10月19日 (月)

憲法内のヒエラルキー?

日本国憲法を見ていて、基本的人権に関する条文は第3章にまとめられ、第4章以下は統治機構に関する条文が続いている。この順番はより前の章の方が基本的なもので、統治機構は基本的人権を尊重するために規定されているという重要度の違いを表しているのではないか。とすると、戦争の放棄は第2章で基本的人権よりも、より基本的で優先させるということなのか。であれば、極端な場合、戦争放棄のためなら人々の基本的人権が犠牲になってしょうがない、ということになる。もしそうであれば、今回の法案が違憲であるということは明白だけれど、そうであれば自衛隊の存在も違憲ということになる。でも、自衛隊の違憲を明確に主張する声は聞こえてこない。

また、そもそも憲法とか立憲制とはどういうものか、とか原則論に立ち帰れば、基本的人権を尊重し、そのために戦争の放棄ということをするというストーリーになると思う。ただし、そう考える根拠は憲法の条文を読む限りない。ただし、憲法学者の人たちの話を聞く限りでは自衛のためになら戦争をしてもいいということらしい。しかし、そんなことは第9条には一言も書かれていない。憲法学者の人たちが言う自衛というのは何を守るのか、ちゃんと説明してくれていないので、昨日の自衛隊の人のように悩むことになってしまうが。基本的人権というか、日本の人々の生存と社会生活が保障されるためにその体制を守るということであれば、そのためにどのように守るかは、それこそ時代や状況が目まぐるしく変化しているわけだから、金科玉条に縛ることが有効なのかと常識で思う。自衛ということに、個別とか集団とか、果たして明確に分けられるのか、そうであれば、集団はいけないのであれば、日米安保条約や国連への加盟は違憲ではないのかという疑問が湧いてくる。

企業の戦略と一緒にするのはおかしいのかもしれないが、基本戦略を変更して新たなことをしようとする場合には、かならずチャレンジする場合としない場合のメリットとリスクを分析して定量的な検証を必ずするはず。だから、新たな政策に対する危惧が個別に出されているけれど、それらが全体してどの程度のリスクを生むのか、と現状継続のリスク、そしてそれぞれのメリットを全体として分析して全体としての較量をしないのはなぜなのだろうか。安保法案について、どちらの側の議論も全体が見えないけれど、ビジネスの場の会議の議論では、たいていの場合、反安保のような性格の議論は負けてしまう可能性が高いのではないか。それとこれとは違うと言われそうだけれど。自分も関わる問題なのだけれど、他人事のように喋ってしまった。

« ルーチンはクリエティブ | トップページ | 歴史と解釈? »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/62510437

この記事へのトラックバック一覧です: 憲法内のヒエラルキー?:

« ルーチンはクリエティブ | トップページ | 歴史と解釈? »

最近聴いたCD