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2015年11月24日 (火)

視覚オンチの妄言

19世紀から20世紀の初頭にかけて、芸術において音楽が憧れだったことがあった。例えば、象徴主義の詩人たちは、言葉はイメージを明確化しすぎてしまうことに限界を感じてしまった。言葉によってイメージに枠がはめられてしまい、そこから踏み出すことができなくなってしまう。言葉にならないイメージというけれど、それは「言葉にならない」という言葉によって枠づけられてしまう。それを超えようとして、マラルメの「骰子の一擲」のような意味を為さない字の連なりのような試みが為されたりした。一方、絵画では見たままの写実から離れ、ついには具体的なものを写すことを放棄した抽象という、本来なら視覚の本質的な要素である形を放棄する試みに至る。それらは、音楽という本質的に抽象的で、具体的な形とか実態を持たない、不定形なままであることへの憧れからだった(ここでの音楽は具体性を伴う歌詞を持った歌を除外する)と考える人も多い。

それは、今までにない全く新たなことを始めようとした際に、絵画であれば、その本質である形に縛られると従来の形を踏襲してしまうことが避けられない。また、文学では同じように言葉に縛られてしまう。その本質を、一度否定してみないと、新しいことが始められない、という切羽詰まった理由だったのではないか、と思う。

だから、というわけではないけれど、また、アナクロと言われるかもしれないが、今、どこもかしこも、スマホやデジカメで画像を記録している人々を見ていると、縛られることを好んでいるように見えることがある。とはいっても、私は視覚的想像力に欠けるから、僻んでいると言われても反論できないけれど。一度、そういうのないところで、白紙にしても、いいんじゃないの・・・とか。

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