生命を賭しての訴えはその内容を保証するのか つづき
個人が自己の立場を主張し、よりよいものにしていくことを大前提とするのは、個人の自立、自力救済がベースになっている。自分の身は自分で守るということが、骨身にしみついている、ということか。その帰結のひとつとして、アメリカでは自分の身を守る銃を規制できない、ということにも、なりうる。それが他方では、自らの生命をかけて何事かを訴えるということを、自殺のタブーに触れるとして否定的にみることにもなりうる。
でも、これだと強者の論理ではないか、自分の身を十分守ることのできない弱い者は、どうなるのか。日本の戦国時代は、個人が実力でのし上がる自力救済の風潮がもっとも強かったと言える。その時代、伊達氏といえば東北の有力大名で、その伊達氏によって制定された分国法「塵芥集」に、自害をした者が題目(自害の理由)を書き残したならば、その“遺言の敵”には、伊達氏が自害した当人に代わって成敗するということが書かれているという。生命の重さを云々する議論もあるだろうけれど、ここには力を持たない者が強者に対する、字の通り起死回生の手段として公権力も配慮していたということがあったらしい。それは、個人の思いを他人が共感できるという、一種の絆の強さのようなものもあったのかもしれない。また、他方では死者の持つ霊力が信じられていたこともあったと思う。そこに通しているのは、思いというのが、個人の身体を離れて強く存在しているという認識であるかもしれない。だから、強く思うことで、思いが実現するということを吹聴することが、現代の日本では見られるけれど、思っているだけではだめで、外に実現するように行動なければ思ったことにならない、というのが、ヨーロッパ近代社会の思想ということの捉え方だったりする。
昨日の続きのようになってしまうが、今でも、日本では、「死をもって潔白を訴える」とか「抗議の自殺」「憤死」といったことが価値を失っていない。それは、一面では強者の論理を押し通さないということでもあめのだけれど、反面、どこか息が詰まるような同質性の圧力も感じられる。
それは、ちょっと前に『絆』ととう言葉が流行語のようになったことがあるが、そこにある息苦しさを感じざるを得ず、それを手放しで肯定することもできない。
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