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2015年11月12日 (木)

とりとめなく~述語と動詞

誰かが言ったことではないし、たまたま以前にそう思っただけのことで、確かなこととは言えないことだけれど、英語は文の構成要素として主語と動詞が必須だけれど、日本語はそうでもない。これだけでは、何を言いたいのか、なのだけれど。ひとつの現れとして形容詞のあり方が違う。「私は若い」に動詞はないが、“I am youg”にはbe動詞がある。日本語では動詞も形容詞も述語という文の構成要素として一括りに同じ機能をしている。英語では形容詞は動詞の補語として修飾語のような、それ自体として自立していない。例えば「静か」という形容詞を考えてみると、その状態のベースにはアクションがあるということなのではないかと思う。つまり、静かという状態は、静かにしているという行為の結果そうなっている、ということではないか。だから静かというのはポジティブなのだ。これに対して、日本語の静かというベースには行為がないのではないか、静かという状態がデフォルトなのではないか。と、デフォルトと述べたが英語ではデフォルトで何かしらの状態があるということが前提になっていないのではないか。動詞というアクションがないと何の状態も生じていない、ある種の虚無のようなことになっているのではないか、と思う。だから、静かという状態は作り出すもので、それが文として現われるのに、動詞がなくてはならないことになっている。

それは、日本語で静かというと、英語では考えられないような雑音が入ってくる。アメリカ人が日本に尺八を習いに来たとき、京都郊外の竹藪で尺八を吹こうとして風で竹藪がざわめくのがうるさくて集中できないといったという挿話に、現われていると思う。つまり、静かという状態を作るという行為をしていれば、その行為の結果と無関係な竹藪のざわめきは雑音であり、静けさをつくりだす邪魔になる。ところが、もともと竹藪という状態がデフォルトであれば、ざわめきを静けさというデフォルトの状態を壊すものではない。英語で前提のベースとなっているような虚無が日本語にはないのではないか。

だからこそ、日本画では空白を恐れない。西洋絵画ではキャンバスは何も描かれていない空白つまり虚無だからすべて描きこまなければならない。しかし、日本画では何も描かれていない白紙でも、虚無ではなく在るということなのではないか。

とりとめがなくなった。もうちょっと発展させてまとめてみないといけない。

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