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2015年11月21日 (土)

『日本映画について私が学んだ二、三の事柄─映画的な、あまりに映画的な』山田宏一著

コンサートの後で感想を語り合う際に、映画ファンの会話を羨ましく思うことがある。この著作にも、そういう会話が至るところに散りばめられている。例えば、黒沢明の有名な「羅生門」。ヴェネチア映画祭で金賞をとり、アカデミー外国映画賞に輝いた、日本映画を世界に知らしめた作品だが、三船敏郎、森雅之、京マチ子の三者がそれぞれの視点で、ひとつの事件を三様の全く異なるものとして表わす。それが、平安京の時代風景の中で幻想的に語られる。それを、著者は陽射しの映画だという。そう、たしかにそうなのだ。事の発端は、真夏の昼下がり、大木の木陰で暑を避けてうたた寝している盗賊(三船)の前を身分のある男女(森と京)が通りかかる。この時大木の梢を鳴らして涼しい風が吹きわたり、寝そべっている盗賊の顔に映る枝や葉の影が揺らぎ、木漏れ陽が射す。男は薄目を開けると、馬に乗った女の足が目に入り、市女笠のヴェールが風にひるがえる一瞬、美しい女の横顔がアップで画面をよぎる。しかも、見上げる男の視線の先には太陽が照り、女の顔は逆光に映える。男は目を瞠り、思わず刀の紐をつかみ、刀を引き寄せる。このとき、無意識のうちに連れの男を殺し、女を奪うことを決心していて、「あの風さえ吹かなければ…」という独白とともに、盗賊の回想の中に描かれる出会い。

そこでは、カメラは逆光を多用させられる。真夏の熱い陽を表わさなければならない。盗賊の顔に映る木漏れ陽を映さなければならない(これを映画史に残る木漏れ陽と称する映画ファンを何人も知っている)、また女の印象的な横顔を逆光に映えるように撮らなくてはならない。だから、この作品の本当の主役は太陽なのであって、フィルムというは光が当たった物体を映すものであるにもかかわらず、その光を発するものを撮ろうとしたという革命的な作品なのだ、という。

映画を語ることのすごさは、それが単に言説として独り歩きしてしまうのではなく、実際に、こういう場面で、このようになっていると、言っていることを、ちゃんと実証できることだ。それは、音楽を語るときに、この作品は宗教的だと評しても、どこがどのようにと具体的に語ることができないのとは対照的なのだ。

しかし、映画のこのような言説は、多分、日本では淀川長治という映画を具体的に語る天才がいたことに、大きく負っていると思う。彼は、徹頭徹尾作品を語りながら、結果として豊かな映画論になっていたという素晴らしい手本を示したからだ。

惜しむらくは、1950年代の人たち、森一生や三隅研二、中川信夫らについて触れられていなかったのが残念。

 

ちなみに、黒沢明の映画のエッセンスをまとめたこの動画を見るといい。「羅生門」「7人の侍」「生きる」「用心棒」「野良犬」といった黒沢明の映画を未だ見たことのない人でも、その特徴的な魅力をたった8分ちょっとで分かりやすく分析してみせた動画。その大きな特徴は、“動き” にあるとし、人物のアクションはもちろん、それを生かすためのカメラワークや編集の流れ、背景まで、あらゆる動きに意味があることをズバリと指摘する。「7人の侍」のあるシーンを、ハリウッドのヒット作「アベンジャーズ」を引き合いに出し、バッサリ切りながら説明する。カメラの動きだけでストーリーになっている黒澤映画の凄さが浮き彫りとなるという説明には、思わず納得してしまう。一部のシーンだけでは物足りなくなり、作品を見たいという欲望を抑えきれなくなってしまう。

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