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2015年11月 6日 (金)

生命を賭しての訴えはその内容を保証するのか

中国古代の楚辞を残した屈原は戦国時代の末期に楚の国が秦に滅ぼされたのに際して、その楚を詠んで身を投げた。数年前、北アフリカのチュニジアでは一人の青年が無許可の露店を開いていのを摘発されたことに抗議して焼身自殺を図った。それが、いわゆるジャスミン革命と呼ばれる民主化運動の契機となったと言われる。ここに見られるのは、激情にかられる、とでもいうのかある種の思いが肉体の生命さえも優先させている、と言うあり方ではないか。敢えて言えば、このある種の思いというのは、プライドの一種ではないかと思う。

このような行為は、キリスト教社会では自殺というタブーを犯すことになり、犯罪ということになる。そんなことをしても何の解決にもならない。上記の場合では、現実的な解決をめざして頭を絞って勝利を勝ち取る努力を怠っている、ベストを尽くしていないで、逃げ出したというように捉えるのだろうと思う。

ここには、個人の捉え方の違いが関係しているのではないか。集団が強い共通の感覚や感情でつながっている場合、個人の痛みはその集団の痛みとして共有される。そこで、ある個人が強い思いを抱いて亡くなった場合に、集団ではそれが増幅されて共有されることになる。これは感覚や感情のようなもので理屈抜きになっている。かりに、その思いが、根拠に誤りがあったり、理不尽であっても、無条件に受け入れられる。だから、たとえある人が亡くなっても、集団ではその人が生きているかのように思いが生きて、現実にコミット、いや、その人が自殺したときのその激しさをもつて増幅される。これに対して、自律した独立の個人が主体的に関係を持つということであれば、無条件に思いが共有されるというのではなく、ある人の思いに対して、別の人はその人の主体で、ある人の思いを評価した上で、正しいとかメリットということになることが多いのだろう。だから、思いはある人と不可分なので、その人が死ねば、思いも消失するということ。極論で、こんなにシロクロがつけられるものではないが、傾向としてあると思う。このどちらが正しいとかまちがいとか言いたいのではなく、それぞれに必然性があり、生き残るためにそうせざるを得なかった、ということなのだろう。

それで、最近、子供が自殺するニュースをよく耳にするのだけれど、日本には、さきほどの思いの共通化の伝統が、少し残されているという幻想があるのではないかと思う。その証拠に、自殺した子供の訴えは決して疑われることはない。生命をかけた訴えに嘘があるはずがない、ということなのだろうか、むしろ、疑いを差し挟むようであれば、不謹慎とでも言われかねない。

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