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2015年12月

2015年12月31日 (木)

お正月

ニーチェは、同じような繰り返しが毎日続くことを永劫回帰として絶望的な状況とみなした。宮田登らの民俗学では、ハレの空間という祭りなどに代表される非日常に対して、日常をケとして、日常生活を営んでいくとエネルギーが枯渇してケガレ(ケ枯れ→汚れ)の状態となり、ケガレをはらす(ハレらす)祭りによってエネルギーを補充するということを言った。どちらにも共通しているのは、日常の繰り返しをマイナスのイメージとして捉えているということ。個人的には、そういう考え方に実感を持てない。ひとつ考えられるのは、淡々とした平穏な日々が続くのであれば、体制とか、もっというと支配とかいうものは必要ないということ。戦争になるとナショナリズムが盛り上がり、平和が続くと平和ボケとかいわれて愛国心が薄れるとコメントされる。そういうことから、支配したい人、そういう体制をつくって、その上に乗っかり甘い汁を吸いたい人には、そういう体制の必要性を支配される人に感じさせることが第一。そのときに、平穏な日常が続くのは退屈とか、堕落とかエネルギーが枯れるとか、思わせる方が都合がよい。政治の政はまつりごと、つまり、祭り。そういう視点で、正月という祭事を、たまには考えてみてもいいのではないか。偏屈かしらん。

2015年12月13日 (日)

地球温暖化に対する捻くれた議論

私は根性がひねくれて、捻じ曲がっているのもしれない。COP21が開催されて、合意に向けて議論が進められているというニュースに触れて、別のことを考えてしまう。地球温暖化という仮説に基づいて、それはよくないことで、その主要な原因ということになっている二酸化炭素の排出量を抑えることを、全世界でやりましょうと言うことだろうと思います。それが合意されると、地球環境の悪化に歯止めがかけられるかもしれない、ということでしょうか。それが、私には、そういう大義名分をかざして、正論ということで世界的な承認を獲得して、その美名のもとに、一種の貿易の非関税障壁のような、企業の競争に際しての自分に有利なルールをとくに西欧の国々が画策しているように見えてしまう。

例えば、ISOという品質とか環境とかそのた様々な規格があって、日本企業でもISO9000認証を取得して品質管理がしっかりしているとかISO14000が環境などといったことを掲げている会社が多いと思う。この認証を取得するために、企業は多額の費用と膨大な労力をかけて、しかも生産効率が落ちるということもやっている。そもそもは、この認証をうけていないと、当時のEC諸国に輸出できないというものだった。とくに、日本のメーカーの摺合せの生産スタイルを否定するような、日本の製品を欧州市場に入れるには大きな障害となっていた。自由と平等を標榜する西欧は保護関税をおおっぴらにできないので、品質という口実で防壁をかけていたと、考えることも可能。様々な工業製品や技術の国際規格などもそうだ。例えば新幹線の技術が高いと言っても、鉄道の技術の国際規格を踏んでいないときは、日本以外では相手にされなかったという。そこでは、西欧の鉄道会社との競争の土俵に上がらせてもらえなかった、らしい。

ところで、CO2排出を抑えるために規制を全世界で進めるということになれば、技術が進んでいる西欧の製品と、新興国の製品との競争で、価格競争では西欧が不利になるところを環境規制のクリアが条件としてうまれることで、西欧が圧倒的に有利になる、ということではないか。例えば、自動車の排出規制をクリアするような効率のよいエンジンとか、エコカーの技術とかでは、西欧の一部や日本のメーカーと新興国のメーカーとでは大きな差があって、地球環境のためには排ガスの多い自動車はダメと正論で批判することができる。

そういうことをひねくれて考えると、ヨーロッパってズルいと思うし、日本のメーカーにもメリット大きいなどと考えてしまう。正直にいえば、地球環境とか仮説の議論とか言われるよりも、こっちの経済メリットの方が、私には理解しやすいし、こっちの方が大事だ。

2015年12月11日 (金)

些細な期待と肯定

江戸っ子は三代続いてはじめてホンモノなどと言われることがある。江戸というローカルでの生活が身体化されるには、それくらいのプロセスを経なければならないというなのだろう。私は江戸っ子ではないけれど、そういうローカルな(東京をローカルと言うのに、異を唱えるひともいるかもしれない)環境での生活に溶け込むには、それなりのルールやマナーを身に着けていないといけない。とはいっても、そういうルールやマナーはきまりというようなキッチリしているものではない。だいたいのところというファジーなところがあって、その頃合いを身体感覚で掴むというのが、意外と難しいのではないか、ということではないか。

それは、他方では、そういうマナーとかルールを守るという受け身ではなく、主体的にふるまうことができるという転換が難しいことなのではないか、と思っている。

具体的に言うと、ささいなことなのかもしれないが、こういう場合には、このようにしなければいけない、というのがルールであり、マナーだ。さまざまなケースでの事例を覚えて、自然に振る舞えるようにする。それがマナーを身に着けるということになろうか。ただし、これは、こうは考えられないだろうか。ルールとかマナーというのは、そもそも、実際の人々が生きている場面で、何らかの不都合があって、それを避けるとか、こうしたら、もっと良くなるという経験を固定化させたものだということ。つまり、本来は、あるルールやマナーに従って行動することは本来は、その場面でのトラブルを未然に防いだり、その場面に価値を付加するものであるはずなのだということ。だから、そこで人がルールやマナーに従った行動をするということには、その本来の働きを機能させることを期待されているということになる。些細なことなのかもしれないが、私が、その場面に遭遇した場合、その期待された機能を果たすということで、じつは、その場面で私の存在価値を、図らずも、その場面で認められることになると言える。そのときに、私はその場面に主体的なコミットしている。

そこには、例えば、思春期の青臭い“人生の目的”とか“生きる価値”といった議論が、実は、目の前の些細な日常の場面に、ゴロゴロと転がっているということにならないか。

ほんのささいな、狭い道で擦れ違うときに、道を譲るということ。その道を譲るという、私だけに期待されていることであり、私の、その時、その場の役割であると言えないか。何か、たいそうに聞こえるかもしれないが。そう考えれば、日常の生活の場面で、私に期待されている役割はたくさんある。それに気がつくか、気がつかないか、その差が、実は大きな分岐点になるのではないか。そんなことを考えたりしている。

2015年12月 9日 (水)

借り物の言葉

この年齢になり、会話に際して、相手の話している言葉が借り物であることが、何となく分かるのではないか、と思うことがあるようになった。その相手が自分の言葉で話していない、何というか肚の底に落とし込んで、その底から言葉が出てくるのではなく、表面を舐めるだけの、その人の本音が込められていない話をしている、とでもいおうか。他人の言葉の受け売りが、その典型的なものだ。自分で考えたことではないので、安易に使うことができ、その内容に責任を持たない。日常の他愛のない会話でならかまわない。しかし、誠実でなければならない議論であるとか、状況を左右する影響を及ぼすような交渉の場で、そういう言葉を持ち出されると、後で痛い目をみることがある。しかも、ほとんどの場合、その当の話している相手自身も、そのことを自覚していない。

それは、なんとなく感じるというものなので、説明し辛いけれど、決まったパターンを踏むことが多い。例えば、官僚や政治家の証言で使う言葉づかいや不祥事を起こした企業の経営者が記者会見で発する言葉のような、リスクを踏まないように、過去に使われ安全であるという実績が重ねられているパターンのようなもの。よくよく考えてみると、そういう会話とそうでない会話を岐けるのは、次のような点ではないかと思う。

自分の言葉ではない借り物の言葉での会話というのは、

ひとつは、話している人が、その当人に言及しないで、すべて他人事になっている。それは、そこで話していることの対象に当人が入っていないのだ。みんなこうすべきだ、という議論で、話している当人が、それをやる気がない、というようなことだ。こんなこと、あり得るのかと思う人がいるかもしれないか。極論とか、タテマエの正論を押し通す人に、よくあるケースだ。

ふたつは、話している話題に筋が通っていない。議論や対話をしていると、話の流れは、あっちこっち様々な方向に飛んで行ってしまうことが多い。そのときに、議論の本筋があるはずなのだけれど、その本筋から、離れてしまって、見えなくなってしまうような話の進め方をするというようなことだ。例えば、セールスを受けていて、顧客のためと言いながら、実際には顧客のことは考慮されず売り込んでいる自身のみのためであることが明らかになってくるようなケース。

みっつめに、こちら側の話していることを、ちゃんと聞いていない、だから理解しようとしていない

さて、このように書いている私自身は、この書いている内容について自分のことは借り物の言葉を話すということから外しているのではないか。そうであるとすると、このように書いている、当の私の言葉が借り物であるかもしれない。そうでないという保証はない。話すということは、じつは大変なことなのだ。

2015年12月 4日 (金)

文語体は分かりにくい?

数年前、商法が大改正になって、会社編が会社法として独立した新たな法律となった。明治以来の漢文調のカタカナまじりの文章から、現代語に表現が一新した。読みやすくなったということだけれど、私には、かえってわかりにくくなったと言える。というのも、商法にしろ、民法(親族法以外)にしろ、刑法にしろ、明治時代の近代化政策のなかで、お雇い外国人の監修というか、原案を外国人につくらせて、ドイツ語なんかの外国語を日本語に直訳のように訳した。その際に、元武士の官僚の人たちの教養と身に着いていた漢文の文体で条文を作った、ということなのだろう。その漢文の構造は、主語があって動詞とで文章をつくるという、実に英語やドイツ語と構造はよく似ていたものだった。だから、論理的な分析は、現代語の口語体の日本語の述語主体の文章にふにゃふにゃして構造的でない文章よりも、機械的にできてしまう。実際、条文が求めている要件を確認する際に、現代語は新しい会社法では、条文を読み込んで意味を追いかけていかなければならないけれど、旧商法の漢文調の文語体では、構造上、動詞に続く位置に列記された数語を機械的にピックアップできてしまう。どちらが労力を要しないかというと、圧倒的に旧法なのだ、と思っている。

最近、企業の情報開示について、英文での開示を企業に求めるケースが出てきている。慥かに、英文に翻訳するのは専門的な文章で、誤解を招くと虚偽表示に見なされてしまうリスクはあるので、労力とコストが大きいので、外国人株主がたくさんいるとか、海外で株式を上場している等の事情がなければ、コストや労力に見合わない。だけれど、英文に置き換えることを前提に開示の文章を作っていくと、曖昧さのない、論理的にカッチリした文章を作らなくてはならなくなる。また、そのために曖昧な状況認識では文章を作れなくなる。作る側が真摯にならざるを得ない。そうも考えられると思うのだけれど。

2015年12月 1日 (火)

水木しげる が亡くなった

今はもう読みこなす力が失せてしまって、まんが(かつて平仮名で“まんが”と表記することが思想信条の表明だった時代の端くれにいた名残を捨てきれずにいる)を読むこともなくなってしまったが、かつてリアルタイムで読んでいたまんがは、ひとつには少女マンガも含めて手塚治虫の丸ペンの幾何学的なスマートさを持ちながら柔らかな温みを帯びた曲線で構成された、リアリズムをベースに丸っこいデフォルメを施してまんが的な空間をつくるメインストリームと、劇画と一括されるGペンによる太さが極端に変化する、ゴツゴツし、角張ったとげとげしい直線で構成された表現主義的な突出したカウンターパワーの二つの大きな潮流があった。私の知る限り、その潮流から全く無縁なところで、孤高ともいえる作風を貫いたのは、杉浦茂と水木しげるだったのではないかと思う。

私の思う水木の特徴は、背景と人物の異常なギャップだ。とくに、その背景の偏執的といえるほど執拗に細かく、まるで磯江毅かアントニオ・ロペス(ちょっと言い過ぎか)かと思わせるほどのリアルに描きこまれて、それだけで強烈に存在感を放つコマの中に、まるで場違いのようにバランス欠くほどリアルさを欠いたまんが的な人物を同じ画面に同居させてしまったところにある。虚心坦懐に彼の描くコマをみれば分裂症ではないかと感じさせるほど統合さを欠いている。しかも、リアルに描きこんだ背景の強烈さは、それ自体で生きているような錯覚を起こさせるほどで、現実の風景が、何か超現実の呪術的に見えてくる。それが、怪奇ものというジャンルと結果的に結びついていったのではないか、と彼の絵が、そうさせていると思わせるほど強い個性を持っていたと思う。だから、彼の作品の物語とかキャラクターは、ほとんど覚えていない。そして、水木の数少ないフォロワーたち、つげ義春や宮谷一彦、そして石井隆は、ある時期、熱中して読んだ人たちだった。水木しげるという作家は、まんがの毒のある一面を代表していたと思う。合掌

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