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2015年12月11日 (金)

些細な期待と肯定

江戸っ子は三代続いてはじめてホンモノなどと言われることがある。江戸というローカルでの生活が身体化されるには、それくらいのプロセスを経なければならないというなのだろう。私は江戸っ子ではないけれど、そういうローカルな(東京をローカルと言うのに、異を唱えるひともいるかもしれない)環境での生活に溶け込むには、それなりのルールやマナーを身に着けていないといけない。とはいっても、そういうルールやマナーはきまりというようなキッチリしているものではない。だいたいのところというファジーなところがあって、その頃合いを身体感覚で掴むというのが、意外と難しいのではないか、ということではないか。

それは、他方では、そういうマナーとかルールを守るという受け身ではなく、主体的にふるまうことができるという転換が難しいことなのではないか、と思っている。

具体的に言うと、ささいなことなのかもしれないが、こういう場合には、このようにしなければいけない、というのがルールであり、マナーだ。さまざまなケースでの事例を覚えて、自然に振る舞えるようにする。それがマナーを身に着けるということになろうか。ただし、これは、こうは考えられないだろうか。ルールとかマナーというのは、そもそも、実際の人々が生きている場面で、何らかの不都合があって、それを避けるとか、こうしたら、もっと良くなるという経験を固定化させたものだということ。つまり、本来は、あるルールやマナーに従って行動することは本来は、その場面でのトラブルを未然に防いだり、その場面に価値を付加するものであるはずなのだということ。だから、そこで人がルールやマナーに従った行動をするということには、その本来の働きを機能させることを期待されているということになる。些細なことなのかもしれないが、私が、その場面に遭遇した場合、その期待された機能を果たすということで、じつは、その場面で私の存在価値を、図らずも、その場面で認められることになると言える。そのときに、私はその場面に主体的なコミットしている。

そこには、例えば、思春期の青臭い“人生の目的”とか“生きる価値”といった議論が、実は、目の前の些細な日常の場面に、ゴロゴロと転がっているということにならないか。

ほんのささいな、狭い道で擦れ違うときに、道を譲るということ。その道を譲るという、私だけに期待されていることであり、私の、その時、その場の役割であると言えないか。何か、たいそうに聞こえるかもしれないが。そう考えれば、日常の生活の場面で、私に期待されている役割はたくさんある。それに気がつくか、気がつかないか、その差が、実は大きな分岐点になるのではないか。そんなことを考えたりしている。

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