お正月
ニーチェは、同じような繰り返しが毎日続くことを永劫回帰として絶望的な状況とみなした。宮田登らの民俗学では、ハレの空間という祭りなどに代表される非日常に対して、日常をケとして、日常生活を営んでいくとエネルギーが枯渇してケガレ(ケ枯れ→汚れ)の状態となり、ケガレをはらす(ハレらす)祭りによってエネルギーを補充するということを言った。どちらにも共通しているのは、日常の繰り返しをマイナスのイメージとして捉えているということ。個人的には、そういう考え方に実感を持てない。ひとつ考えられるのは、淡々とした平穏な日々が続くのであれば、体制とか、もっというと支配とかいうものは必要ないということ。戦争になるとナショナリズムが盛り上がり、平和が続くと平和ボケとかいわれて愛国心が薄れるとコメントされる。そういうことから、支配したい人、そういう体制をつくって、その上に乗っかり甘い汁を吸いたい人には、そういう体制の必要性を支配される人に感じさせることが第一。そのときに、平穏な日常が続くのは退屈とか、堕落とかエネルギーが枯れるとか、思わせる方が都合がよい。政治の政はまつりごと、つまり、祭り。そういう視点で、正月という祭事を、たまには考えてみてもいいのではないか。偏屈かしらん。
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