デビット・ボウイ『ロウ』
ロック・ミュージックではデビュー作で瑞々しい作品を提供したバンドが、それに続く作品がそれほどでなく、しりすぼみとなって、いつの間にか消えてしまうケースが多い。ロックの初期衝動とか言われる、表現衝動とか、ある場合には怒りとか感情の発露とか、とくに思春期の世代にはフラストレーションが鬱積したものが表現として噴出するとかうると思う。ただ、それは、ある種の排泄物のようなもので、一度排出してしまうとスッキリとしてしまって、後は続かないということだろうと思う。その後、さらに表現が進化するのが才能ということになるのかもしれない。そんな中でも、ロック・ミュージックは、その衝動を特徴としている音楽でもある。そこで、衝動を保つということに真剣に取り組んだ、さまざまな試行錯誤をしてきている。例えば、キング・クリムゾンというバンドは、自分たちの衝動をパロディ化させ客観性を持たせようとした。また、レッド・ツェッペリンは衝動のコアの部分を抽出しスタイルとして固定化しようとした。
そして、ここで紹介するデヴィット・ボウィは自身が様々なキャラクターを演じることによって、その様々な演じた対象、それはSFの世界のスペース・オデッセイだったり地球に落ちてきたスターのジギー・スターダストだったり、それぞれの衝動をフィクションとして提出して見せようとした。そのために舞台で俳優が演技をするのに扮装するように、衣装や舞台化粧のようなことが、グラム・ロックと名づけられ、今でいえばビジュアル系の元祖のように言われてしまった。
そんなボウィが、演じることをやめて、化粧を落とした素面で提供したアルバムが『ロウ』という作品。あまり、セールスは良くなかったのだけれど、一方でパンク・ニューウェイブ、また、ドイツあたりからテクノ・ポップが台頭し始めたころで、ボウィなどのメジャーなロック・ミュージシャンはオールド・ウェイブなどと揶揄され色褪せた存在と見られ始めたころ。ボウィ自身も『ジギ・スター・ダスト』の前衛性と大衆性を微妙に均衡させていたという位置づけが、もはや認められなくなり、試行錯誤の中で制作された作品だったと思う。そういう時代の状況が他人を演じるということが通用しなくなったのかもしれない。ブライアン・イーノとかロバート・フリップ(キング・クリムゾン)といった環境音楽とかプログレッシブ・ロックの、彼とは異質の人と共演した「ワルシャワの幻想」という、およそ彼のイメージからすると異質なナンバーが一番印象に残っている。地味で陰鬱な曲なんだけれど。だからといって、ボウィが他人を演ずることをやめて、自身をさらけ出したというのとは違う。敢えて言えば、自身を演じることを試みようとしたものと、言えるかもしれない。そのような『ロウ』で提示されたのは、環境音楽という、いわば無内容の音楽っぽいとこもあり、瞑想をさそう精神性を思わせる後期ロマン派っぽい響きところもある、すごく重層的で多面的に響いてくるのだった。
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