正月の雑煮とかお節とか
お正月には、お節料理とか雑煮とかというパターンは実際に、昔からみんなそうやっていたというのではなくて、多分、昭和初期とか、昭和30年代の高度成長期の社会変化のプロセスあたりで、そういうフィクションができて、マスコミなどを通じて全国的な情報となり、いつのまにか、みんなそうだという共同幻想ができたものではないかと思っています。多分、お節の由縁はどこかの地方とか、どこかの家の話をまことしやかに広められた(食品メーカーとか、作法や料理教室とかマスコミとか)ではないかと思います。
だから、私の場合、サラリーマンとして社会生活を営んでいることによる社会的な約束事を最低限おつきあいしている以外は、個人生活においては、年末年始のことは面倒臭いので、そんな無理をするのをやめています。例えば、年越しそばとか、正月のお節とか、お餅とか、お雑煮とか、初詣とか、帰省とか。
剝きになっているわけではありませんが、敢えて正月を否定するつもりはありませんが、年末年始をやっている人々は、私には無理をしているように見えてしまいます。
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