『戀戀風塵』の感想
お正月の時間に、DVDを借りて見た映画。
台湾の侯孝賢の1987年監督作品。山中を縫うように、小さなトンネルを何度もくぐるローカル線の鉄道の車中で、並んで吊革につかまる少年と少女から物語は始まる。少年は学校の卒業と同時に台北に出て、働きながら夜間高校に通う。少女は、その後卒業を待って、後を追うように台北に出る。台北で働く2人は、強い絆で結ばれ、お互いに助け合いながら、お盆の里帰りを何よりも楽しみにしていた。やがて時がたち、お互いを意識し始めた2人だったが、少年は兵役につくことになる。少女は少年にたくさんの手紙を書く、彼も手紙を楽しみに待ち、返事をするが……。
このような粗筋を書くと、幼馴染の男女が恋心を抱く青春の淡い初恋と、そのほろ苦さということになってしまうのだけれど、引き気味のカメラアングルは若い二人を突き放すように遠目に映すので、細かな顔の表情をうかがわせることはない。空間の広がりのなかで二人の姿を捉える。カメラはずっと固定で、移動やパンのようなケレンは交えず、ほとんど常に正面から二人の姿を同じ画面の中に収める。しかも、二人は恋人同士が向き合うという位置関係でなく、志を同じくする同志のように同じ方向を向いて横に並ぶ位置関係でいることがほとんど。二人が向き合うときは、テーブルをはさんだり、窓ごしであったり、間に介在物をはさんでという。サイレント映画のような映像に語らせるところで、説明的になることなく、二人の(心理的あるいは物理的、社会的)距離を見せているので、沢山の表現がされているにも関わらず淡々とした、端正な印象を与える。二人の距離が一気に縮まるように各々の姿を正面から映す切り返しショットで向かい合うよう場面は、少年がオートバイを盗まれる直前と、病に倒れた時という不穏さと同居していて、このあとの不吉さを仄めかす。他にも、雲とか靄とか煙のようなたゆとうものの扱いもそう。たとえば、冒頭の緑の木々は心なしか微かな靄につつまれているようだし、少年の乗るオートバイが別れを告げた印刷工場の玄関口に残す排気煙、多くの人が吸う煙草の煙、線香や冥銭を燃やす煙、それらは風塵として画面に刻まれていく。中でも強い印象を残すのは少年が兵役に就くために駅に向かうのを見送る祖父が鳴らし続ける爆竹の白煙。少女が働く仕立て屋を少年が尋ねた時に隣が火事になる不穏な煙は、最後の雲を仄めかす。やがてカメラは再び上空の雲を捉える。少年が軍務に服する金門の林の梢を一面蔽う、その雲だ。少女の結婚を知り慟哭する少年をじっと見据えたのちに映し出されるこの雲は、それまで描かれてきたそれらとは明らかに違う様相を呈している。それはあたかも永遠に時を止めたかのように、重苦しくそこに停滞している。だが真に驚くのは次の瞬間だ。この不動の雲を捉えたカメラはやがて、カメラのほうが、横滑りに動いていくのだ。悲しみと悔恨で一処に滞り続ける彼の痛みを、まるでそっと押し流すように。単なる横移動に過ぎないこのオーソドックスなカメラワークなのだけれど、この移動は、それまでの固定していた画面を破り、見るものに大きな衝撃を与える。ラスト、分厚い雲間から洩れる陽光が山あいをゆっくりと移動しながら照らしていく。再び流れはじめたその雲と同じ速度で人物のセリフで口にしたり、感情をあらわにしたり、ストーリーでそれらしい決着をつけるわけでもない。しかし、この見る者を切なくゆさぶるのは、どうしてなのだろうか
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