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2016年1月18日 (月)

自由とかの普遍概念は普遍ではないかと議論してみてもいいのでは

同じ言葉や、それによって示される概念というのが、同じように使われ、同じ内容であるか、それが通時的(いつの時代でも)にも共時的(世界中のどこでも)にも同じであって、共通なのか。そしてまた、誰でもが使っている基本とも言える概念が、そのように誰にでも共通であること以上に、絶対的なように見えているのは、そうしたものとして、あまり考えず不用意に扱うことができるのか。

それを、例えば、「自由」という言葉を、ちょっとした思考実験のようなことで、それよりも妄想と言った方がいいかもしれません、ぶっちゃけたところではコジツケといったほうが当たっているかもしれません。自由と欲望とは切っても切れないのではないか、ということを。

18世紀の啓蒙思想でやったような自然状態を想定してみます。こういう想定をしてみましょう。現在でいえば、未開ジャングルの奥地で文明と隔絶された石器時代といったような狩猟によって生きている小集団があったとします。この人たちは、生き延びるために集団の男たちが獲った動物の肉や女たちが探した木の実を老人や子供もいる集団内で平等に分かち合っている、そういう集団です。『はじめ人間ギャートルズ』のような家族、村落の集団です。このような集団では、男たちで狩りが上手でも下手でも、また狩りができない者でも、皆で獲物を分け合うことで生きています。そこには、平等が、結果の平等が成立している、と考えてもいいでしょう。みんなで分け合わなければ生きていけません。そしてまた、腹が減らないように、無駄なエネルギー消費は抑える、というよりは、生きていくだけで、狩りをしていないときは、昼寝とかしてウダウダしています。このような集団の生活では、平等というのは、狩りが上手でより多くの獲物を獲ってきた男が集団内で価値があるということにはなりません。余計なエネルギーを使って、沢山狩りをして、食べきれなければ、無駄です。また、狩りをすることは危険に遭遇することでもありますから、余計な危険を招くことになります。だから、狩りが巧い人を、集団内で価値ある人として、能力に応じて分け前をより多く取ることにするとかすると、不平等の原因ということになります。また、獲物を獲った男が、自分が獲った獲物は自分の所有物として占有するということは考えられません。(ここで、自分のものだ、と所有を主張すれば、ルソーの『人間不平等起源論』と同じストーリーということになるでしょう。「これは俺のモノだ、と宣言したところから不平等が始まる」というフレーズです。)

ここで、現代のいわゆる資本主義的な考え方であれば、獲物を多く獲った男は、その獲物を自分のものとして、まず自分の空腹を満たした後、集団内の他のメンバーで獲物を獲れなかった者と、獲物以外の何かと交換して何らかの価値を得る、あるいは他の集団に出向いて交換を試み、価値を蓄積するのが正当ということになるでしよう。その次には、より多く獲るために労務の対価を獲物で払うことにして誰かを助手にして、より多くの獲物を獲ろうとするかもしれません。資本主義の経営でいう事業の考え方です。これは、この男が私有財産ということを、集団の平等な共有とは別の考え方に変わったこと、それに伴いより多く獲たいという欲望を発見したことになります。このときの、事業化を進めることは、集団の平等といういきかたに反抗することになります。このとき、欲望を満たし事業化を進めようとするとき、男が主張するのが自由の始まりということなのではないか。それが、発生論的な妄想です。

つまり、といってまとめてみましょう。未開のジャングルで獲物をメンバーで平等に分け合って飢えをしのいでいる小集団では、ギリギリの厳しい環境にあるけれど、メンバー共同で平等に苦しみに耐えて、助け合って生き延びようとしているわけです。メンバーの関係性は家族とか親族のような同質性の強いものでしょうから、集団内では些細な揉め事程度はあっても、争いや競争が起こることはなく、集団内では平穏な状態が保たれているはずです。諍いで集団が分裂することは、メンバーにとっては危険でもあります。そこには、旧約聖書のエデンの園のような貧しいけれど牧歌的な平和な状態のイメージが当てはまると言えるのではないでしょうか。ちょっと脱線しますが、日本人が「平和」という言葉から連想するのは、そういうイメージではないか、と思います(それは、競争や紛争が日常化しているグローバル・レベルからは、一般的とは言えないのではないでしょうか)。こういう集団は、別の視点からみれば停滞した社会と言うこともできます。メンバーの生存とか、そのために集団を維持することが第一で、危険を避けることが最優先ということになります。そういう社会では、実際には、これまでの先例通りにやっていくことが重視されています。新たなことを行うと、それはあらたな危険を招くことになるからです。つまり、行動は先例という決まりきったことに制限されることになります。そこに自由の生じる余地はありません。これは、歴史を顧みれば、このような状態に近い実例として、日本の江戸時代の停滞した社会を考えてもいいのではないか。この時代には戦争や内乱は起こらなかったけれど、経済的な成長はなく、社会的な変革は起こらなかった。武家の社会は先例の踏襲が日常的で、身分や役職は家柄が代々の踏襲となり、新しいことへの挑戦は、「出る釘は打たれる」でもないが、抑制された、という時代という見方もできます。(マルクスなんかの社会科学がアジア的停滞というのは、このようなイメージでしょう)これが幕末から明治維新の初期に内乱の暴力行使が噴出するが社会は活力を生み、トップダウンの秩序から、庶民が起業をするなどの新しいことへの挑戦が至るところで起こり、経済成長が、民主的な社会への移行が始まる、それが明治維新による近代化のスタートです。

例えば、仮にメンバーに行動の自由が認められたとすると、やりたいこと、例えば、狩りの方法の工夫とか、新しい猟場を探すとかに挑戦すると、それがうまくいくと当人のモチベーションは上がり、獲物は増えるということがあるかもしれません。しかし、それは同時に集団の先例に縛られた行動の秩序が崩れることを招きます。狩りの目的は集団の食物をとることから、狩りの獲物自体を多くすることに変質していきます。そのことによって、狩りの獲物は集団の飢えを満たす以上の分量となる。そこに余剰品がうまれる。一方、狩りの結果に個人差という認識が生まれる。働かざる者食うべからず、です。成果を得た者が、相応の配分を受けるという発想の転換がおこります。これによって集団内に競争が生まれる。それは、勝ち負けがうまれ、不平等という見方が生まれることになります。

このように考えると、自由ということが導入されることによって、獲物の増加による集団の生活の向上が成果として得ることができる一方で、集団内に競争が始まり、不平等して格差が生まれ、そのことによって集団のメンバーに軋轢が生じます。

この思考実験(妄想)の結論では、アダムとエヴァが知恵の実を食べて平和なエデンの園を追放された神話に擬えて、自由を獲得したことにより、楽園にいられなくなった、という考えに至ります。

自由と言うのは、そういう社会経済の条件と不可分であって、そのような考え方には、そのような体制を充実させ、促進させていくメリットの大きいものでありますが、その反面で不平等とか格差の原因ということもでき、の結果として諍いや争いを生むものです。そういう毒の要素もある。それは、誤解をおそれずに言えば麻薬のようなものです。

そう考えた時に、自由を求めて闘争する、時には生命をかけるということは、ある社会(西欧の自由主義社会?)では、誰も疑うことのないことかもしれませんが・・・。それを、無前提に無制限に受け入れるかのように疑いなく、そのようなものとして議論をしてもいいのでしょうか。

他にも、民主とか平和とかルールを守るとか、そういうことは、それぞれある条件のもとで成立していることであって、その違う条件のもとで、議論をして、どうしていこうということが、ということを考えてもいいのではないでしょうか。

 

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