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2016年2月16日 (火)

マーク・エヴァン・ボンズ『「聴くこと」の革命』(3)

第3章 真理を聴く─ベートーヴェンの第5交響曲

前2章の分析をベースにホフマンが書いたベートーヴェンの第5交響曲に対する評論を読んでいきます。「聴く」という行為の変化や器楽の重視という音楽の捉え方の変化がベースにあって、芸術(音楽)を哲学の一様態と考え方のひとつの具体化として、ホフマンのベートーヴェンの第5交響曲に対する評論は書かれたと見ることができます。ホフマンが主に書いていた幻想的な文学は、当時の哲学の中心問題である現象とその背後にある本体(原因)の間にある隔たりに、例えば物質的なものと精神的なものの間に、どのように橋渡しをするかをテーマとして扱ったものでした。彼のベートーヴェンに対する評論も、その一環として捉えることができます。しかも、書き方についても論文というよりは、警句に満ちた、彼の小説作品に近い書き方がなされています。彼の評論の特徴は、崇高、無限なるもの、有機的形式、そして音楽史におけるベートーヴェンの位置などの点を強調しているところにあります。以下で見ていきましょう。

ホフマン自身は、「崇高なるもの」という言葉をたった一度しか用いていませんが、第5交響曲を表わす言葉としてもっとも中心的で重要な言葉であることは間違いありません。では、「崇高」とは、どのような意味内容なのでしょうか。当時の芸術に対する重要なキーワードであった「崇高なるもの」とは、壮大な大きさ、予期を超え出ていること、そして、感覚を圧倒する包容力をないようとするものでした。美しきものとは異なり、崇高なるものは、歓びよりもむしろ恐れや苦痛という反応を引き出すものであると受け取られていました。エドマンド・バークによれば、崇高なるものの源は、「何であれ苦痛や危険の観念を刺激するもの、すなわち、何であれ恐ろしいもの。または、恐ろしいものに通じるもの、あるいは、恐怖に類似した仕方で働くもの」に見出されたのです。ホフマンがこの評論での、「巨大なもの、測りがたいもの」と「戦慄、恐怖、驚愕、苦痛の梃子」がベートーヴェンの音楽によって動かされるという言及は、まさしくこの伝統のうちにあるのです。彼は、崇高なるものを交響曲という曲種の重要な要素として考えていました。

さきほど、崇高は美とは異なると述べましたが、美と異質というより、美を超えたものと、ホフマンを含めた当時の人々は考えていました。多くの人々が、崇高なるものを、有限なるものと無限なるものの統合のための認識論的な手段であると考えていたというのです。バークは、無限なるものがその大きさや果てしなさ自体を通じて、観る人のうちに畏怖と恐怖の感情を生み出し得ることを論じています。さらに、この恐怖の感覚は、理性の力を圧倒し得るものであって、それにより、精神を高い位置へと運び上げると言っています。

さらに、カントはバークを承けて、崇高なるものの超越性を指摘し、崇高な対象物の観照は、その大きさと規模自体(数学的崇高)、あるいは、力(力学的崇高)のいずれかによって、感覚を圧倒し得るものだからこそ、崇高なるものは、理性と感覚、客観的なるものと主観的なるものとを同一であるまでに統合するように、心を刺激すると言いました。つまり、崇高なるものは、人間の精神をいっそう高い段階の統合へと高める力があるというのです。そして、シラーは、この崇高なるものを感じる能力は、人間の本性の中の最も輝かしい素質だといいました。

従って、ホフマンがベートーヴェンの第5交響曲の特徴としてあげている崇高なるものや無限なるものへの憧れは、単に音楽を聴いて感情的に感動するということ以上に、超越的なもの、もっと言えば哲学的な思考が生まれてくる源泉、絶対精神のようなものを知ることを志向している、と言うことができます。では、哲学の抽象概念が、実際の音楽作品とどのように結びつくのでしょうか。そのために、ホフマンは音楽史におけるベートーヴェンの位置を、とくにハイドンとモーツァルトの交響曲との比較で説明しています。まず、第2章で考えた「聴く」ということの位置づけがこの二人とベートーヴェンの交響曲とでは異なってくるということ、ただしその違いだけでは十分な説明とはなりません。それは、彼らの交響曲には、無限なるものを喚起する力があるという共通点があるからです。そこで、ホフマンは、崇高さの度合いの違いということで、相違点を際立たせようとします。つまり、崇高さの度合いが高まるにつれて、絶対的なものに近づいていくというわけです。これにはヘーゲルが人間の理性について、歴史を通じて段階的に高めてきたのであり、その成長によって絶対的精神に向かっているという考え方とよく似ています。ベートーヴェンの交響曲についても、人間の意識が順次高い段階に過程の上に位置付けられるのです。ハイドンから、モーツァルトを経て、ベートーヴェンに至るのは、まさにそのようなプロセスとして捉えられるのです。

ホフマンは省察力(熟考性)ということを持ち出します。これは、ベートーヴェンの交響曲に対する批判、圧倒的に多様で対照的性格をもつ楽想について、そして、それに伴って、一度聴いただけで新しい作品を吸収する困難ということに対して、インスピレーションに従うだけで作られたのではなく、反省熟考によって深い認識を表わすものとなっているのだから、そこで難解であることが肯定されることになります。この難解さを伴う高度の熟考性という点で、ハイドンやモーツァルトの交響曲と一線を画すことになるのです。ここには、さきほど指摘したヘーゲルの有機的成長という考え方が反映しています。

音楽技法の観点からいえば、ホフマンは、彼の評論の全体を通じて、対照的に見える諸楽想間にある緊密な相互関係性を強調している。有名な冒頭の動機(短─短─短─長)のリズムは、時間の経過と共に変容して、交響曲全体にわたって重要な諸主題のほとんどすべてを生成している。終楽章の意気揚々とした主題でさえ、この冒頭楽想から派生したものとして聴くことができる。こうした関係性は、一般によくいわれているような「統一性における多様性」あるいは「多様性における統一性」への欲求といったこと以上の何かを表わしている。ホフマンにとって、全体のなかにおける諸部分の関係性は、単に芸術的簡潔さの問題ではなく、あるいは、芸術的一貫性の問題ですらなく、絶対的なるものを希求する努力であった。というのも、あらゆる構成要素が重要な役割を果たしているような包括的な全体によってのみ、相反するものの「無差別」が実現され得るからである。

このような有機的なとまり(→成長)という点で、ハイドンやモーツァルトと違いを強調します。このようなベートーヴェンの統一性、つまり、中心的なひとつの楽想の展開、対照的な動きの緊密な統合、葛藤から勝利へと導かれる軌道、それらすべては崇高なるものという全体的枠組みのうちにある、というのは「英雄的」様式と呼ばれるものです。

ただし、著者はホフマンに対する批判として、崇高なるものを強調するあまり、美ということを切り捨ててしまうことになったことを指摘します。実際に、ベートーヴェンの作品には、崇高とはいえない作品があります。例えば、第4交響曲、ヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲作品59の3といった作品です。

また、崇高なるものの強調は、また、初期のロマン主義に特徴的な移ろいやすさ、論理的な枠におさまらない微妙さ、これをアイロニーと著者は定義づけていますが、これは、真理へ途の多様さの表れであるはずなのですが、ややもすると、ホフマンの評論では、その多様さが一本の途に限られてしまう傾向になっている。そのように著者は批判しています。

この後は、当時の歴史的な政治・社会状況と関連させた説明にひろがりますが、音楽そのものの議論から離れるので、ここまでします。

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