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2016年2月14日 (日)

マーク・エヴァン・ボンズ『「聴くこと」の革命』(1)

第1章 想像力をもって聴くこと─美的関心の革命的変化

『聴くこと』の革命の第一は、聴く対象の変化です。その変化とは、端的に言えば音楽作品のヒエラルキーのなかで、声楽に替わって器楽が重視されるようになったということです。そして、ベートーヴェンこそが、器楽を中心に作曲をする、フロンティアのようなひとだったのです。

ここでは、主に哲学の美学思想の変化に、その表れを見ていこうとします。まず17世紀から18世紀にかけての近代のスタートを切った合理主義(啓蒙思想)においては合理的な明晰さが何よりも求められたと言えます。彼らの考え方の根拠は古代ギリシャやローマの古典であり、それを持って中世以来のキリスト教会による宗教支配に対抗しようとしたのです。そのギリシャ哲学の中でアリストテレスが芸術の本質はミメーシス(模倣)にあるという主張を、啓蒙主義は継承したと言います。例えば自然の事物をそのままに描写した絵画や彫刻、あるいは言葉に置き換えた詩などでそれに当たります。それに対して、音楽は自然の事物を直接描写することはできません。雷を描写しようとして、雷の音をそのままに再現することはできません。音楽ができるのは、その雷を受けた人々が受けたのと同じような刺激を思い出すような効果を与えることを行うということです。それは模倣ではないとして、単なる効果であるとして重視されませんでした。かろうじて、声楽は歌詞が詩に準ずるということで、つまり、音楽の要素ではなくて、歌詞の言葉の要素で尊重されたということだった。

それに対して、その同じ事態に対して評価が逆転するという変化が起こります。

そこに登場したのが、カントに始まる観念論哲学です。端的に言えば、カントは単に目の前にある自然を模倣するというのではなく、本質を表わすということを考えます。言ってみれば、目の前に1本の樹木があるとすれば、その樹木を写すのではなくて、樹木の理想の姿(古代ギリシャのプラトンの言ったイデアと重なるのでしょう)を表わすためには、構想力という、想像し理念化することが必要だといいます。

それをさらに進めれば、私たちの目の前にあるものは理想的な姿ではなく、言ってみれば不完全でかりそめのものでしかない。私たちの眼や耳などの感覚を通して入ってくるのは、そういった仮の姿であるので、芸術は、そういう仮の姿を模倣しても意味がない。むしろ、最初から理想を追求して、それを私たちの前に現出させるのが芸術ではないか。という逆転した方向に進みます。そこにロマン主義の無限への憧れとでもいう傾向が拍車をかけることになりました。例えば天国という理想郷は、私たちの眼に見える現実にあるのではなく、現実を超越したもので、私たちは、そこに辿りつくことができません。ただ天国を想って憧れるだけなのです。そして、その天国を表わそうとすれば、現実にないのですから、現実の風景や事物をあてがうわけにはいきません。そのとき、現実を描写しない音楽というのが、実は、現実にない天国に憧れると同じような、間接的な表現に適しているのではないか、ということになってきたのです。

そして、現実に形を持たない理想を体現するものこそが、近代的な思想がもっとも重視する精神なのです。精神と身体などと対比的に並置されますが、身体は現実に具体的に存在し、見ることも触って確認することも出来ます。これに対して精神は見ることも触れることもできない。さきほどの天国と同じなのです。その天国を表わすのに音楽、とりわけ器楽が適しているということになれば、精神を表わすのには、実は器楽が適しているのではないか、ということになってくるわけです。

ここでは、その主張を当時の哲学者や批評家が手を変え品を変え述べたことを紹介してくれて、情報とか話のネタを仕入れるという点でとても重宝しそうです。

しかし、そもそも、ここに私がまとめた議論には、ちょっと無理があるように思えます。だって、音楽がそうであるならば、程度の違いはあれ、言葉だってそうではないですか。言葉そのものは現実の姿そのものを反映しているわけではありません。「いぬ」という言葉が現実の犬を表わすというのは、単なるお約束でしかありません。話を少し戻して、声楽が言葉という明確に描写するものがあるから、という議論でも、音楽における歌詞というのは、単に読むとか、書く言葉と同列に扱ってよいものなのかどうか。これは現代の私の偏見かもしれませんが、音楽のメロディーとか、ハーモニーに乗った言葉から受け取る感じと、普通に話された言葉から受け取る感じは、違うと思っています。例えば、演歌で短調のメロディに乗って「みなと」という言葉を聞いたときと、普通に歌詞カードを読んでいてその中に「みなと」という言葉が出てきたときとで、「みなと」の意味内容が同じとは言えないのではないでしょうか。

ここでの私の要約は、ちょっと無理をしていますが、一番気にかかるのは、なぜに考察があまり及んでいないで、状況の推移の記述に終始していることです。17世紀に器楽が重視されていなかったのは、器楽が言葉のような明確さをもっていなかったまではいきますが、なぜ、明確な言葉があるほうが重視されたのかとか、18世紀後半になって、器楽が重視されますが、器楽の具体的な形を持たないところが逆に価値をもったと説明されていますが、そのような形のない超越的なものが重視されるようになった理由の説明が曖昧なまま突っ込まれていません。だから、結局のところ、全体がモヤモヤしているのです。

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