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2016年2月15日 (月)

マーク・エヴァン・ボンズ『「聴くこと」の革命』(2)

第2章 思考としての聴取─修辞学から哲学へ

『聴くこと』の革命の第二は、音楽を聴くという行為のあり方、意味づけの変化です。その変化とは、端的に言えば、受動的な姿勢から能動時に想像力を働かせることへの変化です。

18世紀以前の「聴く」というのは、音楽をきいて、心を揺さぶられたり、動かされたりする、いわば受け身の姿勢です。これは、第1章の説明にもありましたように啓蒙主義による音楽が言葉の二次的な代用として捉えられてきたことによると考えられます。言語というのはメッセージを伝えたり、知識や情報を得たり、相手を説得することができます。音楽が、その言語に代わって機能するのであれば、言葉のような明確な情報やメッセージを伝えられないため、相手の感情に訴えかけて、心を揺さぶり動かすことに目的があると考えられることになりました。だから、音楽を作る側である作曲家は、聴き手に音楽が効果を及ぼすことを主眼とすると、考えることになります。音楽が効果を得るために、作曲家が心掛けなくてはならないことは分かりやすいということです。言葉が伝わるためには、言葉の意味を、伝える側と伝えられる側が共有していなければなりません。音楽を言葉に代わるものと捉えるならば、ある感情的な効果を聴き手に生じさせるためには、そういう感情と結びついていることを音楽を伝える側と伝えられる側で共有しているほうがいいということになります。それが分かりやすいということです。しかし、作曲家が新しいメロディを創作することと矛盾するのではないか、それは、作曲家の巧拙は、創作した新しいメロディに対して聴き手は、馴染んだものと受け取るように創り出す点に求められることで、解決されました。そういう作曲家として称揚されたのが、ハイドンです。だから、音楽がわかりやすい、つまり聴き手に効果を生じさせる音楽であるか否かは、ほとんど作曲家の双肩にかかっていたことになります。

これに対して、18世紀以降の新しい「聴く」というのは、聴き手が能動的な姿勢に変化します。聴き手が音楽に対して能動的に働きかける、例えば器楽曲の言葉のようなイメージが限定されない音の響きに対して想像力を働かせて内容を読み取っていくという作業です。いわば以前の音楽は言葉による演説のようなものとして捉えられていました。そこから聴き手が受け取るのはメッセージです。これに対して新しい「聴く」では、演説ではなく観照(瞑想)の対象となりました。聴き手はそこからメッセージではなくて啓示をうけとるのです。神さまから受ける啓示は、人間の言葉ではないので、それを解釈して言葉に置き換える、これは例えば聖書で預言者といわれる人たちが行っていたことです。これに似たようなことを音楽の聴き手が行う。その解釈の際に必要で、重要な働きをするのが想像力(構想力)です。

カントは、このような音楽の「聴く」べき対象を「美」といいました。神様の啓示が渾沌に規範を与えるように、天才的な芸術家によって、独創的な新しい規範が開けるというのです。この規範は、もともとあるものではなく、もとからある規範をなぞるものは模倣とみなされ、芸術的表現ではないとされました。このような、もともとあるのではない規範を見つけ出し、規範であるとするのは、聴き手の想像力によるということなのです。カントは、同じような自然現象の中から規範として法則を見つけ出す科学を芸術と比較して、科学は誰にでも理解し説明できるようになっていますが、芸術は、受け取る人が自身で考え、自分で規範を見つけ出さなければならないのです。カントは、そこに言葉では説明できないもの、限定できないものがあると言い出したのです。それを見つけ出すのが観照という行為です。

このカントの考えを、さらに推し進めたのがロマン主義者たちです。カントの言い出した、言葉では説明できないもの、限定できないものは、限定できない故に無限性となり、言葉では説明できないがゆえに、容易に手が届かないため、我々にとって遠い存在で、それに対して我々は憧れる。音楽の音の広がりは無限性に、言葉のようにメッセージが分からないのは不可知な憧れの対象として、深遠で高踏的な神秘的な真理と同じようなものになっていきました。芸術と哲学が同じものに近づいていったのです。ただし、芸術と哲学は目的地は同じでも、その目的へのアプローチが違うのです。そこで、音楽を「聴く」観照という行為は、哲学の思索と同じようなものになっていきました。むしろ、シェリングのような主観主義的な傾向のある哲学者は、哲学的な思索は理性によって為されるけれど、理性というのは全体があって、そこから論理によって推論していくわけだから、とどのつまりは堂々巡りで、新しいことは入ってこない。その行く先は退行するとかない。むしろ、芸術は、その理性が及ばないところで為されるものであるので、理性による退行の連鎖を打ち砕く、直観により絶対的な真理に触れる可能性がある、と哲学よりも上位に置こうとします。

そして、以前であれば、音楽の責任は作り手である作曲家が一方的に負わされていたのですが、こうなると、音楽から「聴く」ことによって、なにものかを読み取っていく聴き手のほうに責任が移されたということになるでしょう。

そして、さらに、「聴く」ということが変化したことによって、聴き手の側だけでなく、作り手である作曲家の側でも、以前のハイドンのような独創的ではあっても、聴き手に分かりやすいことを第一に作るということから、聴き手が想像力で読み取ろうとするのだから、分かりやすさを考慮しないで、また模倣は独創性と対立するものであるから、聴き手に馴染んだメロディを使うこととは反対に、従来にない聴き手の耳に新しく聴こえるもので、内容の濃いもの、端的に言えば何かがありそうな感じのもの、そこで、難解とか過激ということが価値をもってくることになっていくわけですが、そういうニーズに適合した作品を送り出すのを始めた一人が、しかも典型的だったのがベートーヴェンという作曲家だった、というわけです。

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