恩地孝四郎展(4)~Ⅲ.抽象への方途1945~1955年
時期としては、数年間の戦争による統制から開放されて、制作に精を出し、占領軍の評価を受けて、積極的に作品を生み出して行った時期ということでしょうか。しかし、それで作風が劇的に転換したとは見えません。そこで、恩地の、この時期の作品を見ていて興味深く思われるのは、技巧的な成熟への志向が見られないということです。「あるヴァイオリニストの印象(諏訪根自子像)」という作品に描かれているバイオリニストは具象的な肖像ですが、初期の自画像と比べても下手です。かといって、抽象化したデザインにしているわけでもありません。これは、恩地が意識的にそうしているのか、そのような志向がないのか、私には分かりません。話は変わりますが、日本のコメディアンは年齢が若いころはドタバタのギャグをかまして笑いをとろうとするのに、一定の年齢に達すると、芝居の分野で渋い傍役に転換してしまう人が多いようです。若い頃は無茶にことを散々やったというようなことを言って(最近は、若い頃にロックミュージックのバンドにいた人にも、そういう例が見られます)、それをいい経験として渋い風貌を作ってみせるという傾向で、それは成熟とか洗練という評価を受けることが多いです。これは、他の分野でもそうですが、恩地の作品の変遷を見ていると、そういう傾向とは無縁で、若い頃のドタバタをマイペースでコツコツと飽くことなく続けていると思われるふしがあります。それがゆえに、決して悪いことではありませんが、ひとつひとつの作品は軽味の作品と思われるのですが、展示を通して見ていくと、ボディーブローを細かく喰らって、次第に足が止まってしまうような、身体がジワジワ重くなってくるような疲れを覚えさせられるのです。端的に言えば、退屈してきたとも言えるのですが。
この「あるヴァイオリニストの印象(諏訪根自子像)」という作品をみても、今までの作品であげてきた特徴がそのまま当てはまり、それが整理されているわけでもなく、相変わらずといった中途半端さがあります。
「リリック No.6 孤独」という作品です。マルチブロックという葉や紐、木片などを用いる手法を駆使したということですが、正直に言って、だからどうしたです。恩地の作品を愛でるということは、あまり目立った効果が分からないような試みを面白く見ていくということではないか、と思いました。恩地の作品の愛好者には、見当はずれとの誹りを受けるかもしれませんが。
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