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2016年4月18日 (月)

リバプール美術館蔵 英国の夢 ラファエル前派展(10)~Ⅳ.19世紀後半の象徴主義者たち(1)

最後のコーナーは、バーン=ジョーンズのようなロセッティの影響を受けながら、唯美主義の作風も取り入れ、様式化された作品を制作していった画家たちの作品です。今まで見てきた画家たちは、現実的な写生ということを重視して作品の画面つくりをしてきたのに対して、ここの画家たちは、幻想的な画面をパターンで描こうとしている点で大きく異なっていると思います。
 River_prerawatt1 ジョージ・フリデリック・ワッツの「十字架下のマグダラのマリア」という作品です。今まで見た作品とは、ガラッと雰囲気が変わったのにお気づきでしょう。最初の主催者の説明にあった“1850年代と60年代における進歩的なイギリスの画家たちは、潜在意識の暗示もしくは連想によって鑑賞者たちを巧みに操る方法や、作品の持つ雰囲気に備わる抽象的な特性を喚起することで心理学的反応を引き起こす方法がわかるようになってきた。この時代における道徳的、精神的、また科学的不確かさから、画家たちは彼らの感情や不安に象徴的な表現を与える方法を探すことへと駆り立てられた。”というのをが、この作品をみると、典型的に当てはまるだろうと思います。この作品は、“マクダラのマリアが背後に聳え立つ十字架に磔にされたキリストの下に跪いている”姿を描いていて、“彼女の深い悲しみは、天を仰ぐように後ろに反らせた頭部と、力を失ってだらんと垂れ下がった両腕によって表現されている。ぎざぎざに重なった衣服の襞の線は、慰むべくもない彼女の悲しみを代弁しているかのようだ。このような表現は、聖書の挿絵という因習的なジャンルから逸脱したものであり、最も痛切な哀悼の感情という観点から人間を研究したものとなっている。”というような説明が附されていました。しかし、その説明には、少し無理があるように思えます。例えば、この作品を見る限りでは、女性が寄りかかっているのがキリストが磔にされている十字架であるとは分かりようがありません。それらしき、アトリビュートもありません。また、この作品のサイズ等から考えてみても教会に飾られるために描かれているのではないようです。それが分かるのは、作品タイトルから想像することくらいで、あとは、この作品についての説明が附されてはじめて分かるという類のものです。描く題材としては、ワッツはマクダラのマリアを描いたというのは確かでしょうが、描いているうちに、マクダラのマリアを題材にした作品から、マクダラのマリアを題材にして、何かを描く絵画になっていったのかもしれません。おそらく、ワッツはこのような作品を売ることは考えず、自分の好きなように描いたと考えてもいいかもしれません。そしてまた、上記の説明にあるような、この女性の深い悲しみというのが、私には見えてきません。この画面には、悲しみを連想させるものが何もないのです。天を仰ぐように上を向いている彼女の表情からは悲しんでいるようには見えません。両手をだらんと下げている姿勢も悲しんでいるというよりは、呆然としてように見えます。タイトル等の先入観なしにこの作品の画面を見ていると、暗い中でスポットライトのように光が射して、その光に映えるように浮かび上がってうつしだされる女性の姿です。力なく、何かに寄りかかるように、身体を預けて空ろに口をぽかんをあけて光を差す上方を見上げているような表情は呆けているようにみえるのは、一種の忘我のような状態にあるように見えます。作品タイトルのとおり聖書の人物を取り上げているのであれば、その忘我は、宗教的な法悦状態であるかもしれません。この作品が“潜在意識の暗示もしくは連想によって鑑賞者たちを巧みに操る方法や、作品の持つ雰囲気に備わる抽象的な特性を喚起することで心理学的反応を引き起こす”という作品であるとすれば、悲しみといった具体的な感情を描くのではなく、もっと抽象化させる方が理にかなっています。ですから、展示に附されていた説明には論理的に矛盾があるということだけ、断っておきます。まあ、展覧会の説明など、その程度の者でしかないと思いますが。
River_prerawatt2_2  同じ画家の「プシュケ(クヒドに置き去りにされたプシュケ)」という作品です。愛と欲望の神クピドの宮殿に運ばれたプシュケが、毎夜、彼女のベッドに通う者の正体を暴こうと、ランプを手にし、恐ろしい怪物と思って、その求婚者の息の根を止めようとして短剣をもって、見たのはクピドの姿だった。クピドは彼女をひとり残して、立ち去ってしまう。この作品は、“クピドから肉体的な愛の喜びの手ほどきを受けたベッドの傍らに立ち尽くすプシュケが、彼の翼から落ちた一枚の羽根と、運命を決したランプのある床に目を落とす姿を描いている。”という説明があります。私には、この説明をできる人の絵を読み取る力に感嘆します。この作品からは、私には、そこまで想像することはできません。ここで描かれているのは、ロリータ・ヌードとも言ってもいい、未成熟な体型の女性の裸体と、その姿勢の恣意的で不自然なところです。あきらかに首の下の胴体と頭部がちぐはぐで、それがぎこちなさを印象付けます。この女性について、首を境にして上と下は別の画家が描いたのかと疑いなくなるほど、描かれ方も色調もが違っているように見えます。そして、顔には表情がなく、まるで死体のようです。
 River_prerawatt3 このような解説的な説明よりも、的外れなこじつけかもしれませんが、このプシュケにしてもマグダラのマリアにしても、ワッツの作品からは、画家が意図しているかどうかは別として(多分、そんなことは意図していないと思いますが)人の意識下の領域を想像させるところがあると思えるところがあります。それが、“1850年代と60年代における進歩的なイギリスの画家たちは、潜在意識の暗示もしくは連想によって鑑賞者たちを巧みに操る方法や、作品の持つ雰囲気に備わる抽象的な特性を喚起することで心理学的反応を引き起こす方法がわかるようになってきた。この時代における道徳的、精神的、また科学的不確かさから、画家たちは彼らの感情や不安に象徴的な表現を与える方法を探すことへと駆り立てられた。”ものとして効果を生んでいるのではないかと思えるのです。というのも、ワッツの作品で見た人物には表情とか意思といった、人を起動させるものがありません。というよりも、死んでいるのか、意識がないのか、そんな人物たちです。しかし、それが見ている側に何らかの心理的な効果を生む雰囲気を作り出しているように見える。そこで考えられるのは、ちょうどヴィクトリア朝時代に降霊会とかオカルトといった心霊的なものがブームになり、理性で測れないようなものへの興味が高まったことと、そのなかで催眠術のような心理的なものの興味も同時に生まれ、フロイトが人間の無意識の領域についての論説を学問化するのは、このすぐ後の時代です。全体として、理性とか感情といった意識から生み出されるもののベースに無意識という意識では測れない、不可思議な領域があるが、それが人を突き動かしているらしいということが考えられるようになってきた時代でもあったと考えられます。ワッツの作品に描かれた人物たちの意識がないような状態であるのは、結果として、そのような無意識を想像させることもできたという、画家は思わぬ結果を見る者に生んだように見えてきます。それは、人が意識を持たないように描かれていたということ。それ以外に、その人がおかれている状況が、現実か夢のような幻想か非常に曖昧で(フロイトは無意識を知るために夢を用いたことは有名です)あるかのように描かれていたことにもよっています。ここで展示されていた、ワッツの有名な「希望」のスケッチも、そういう想像を掻き立てさせるものであったのではないかと思いました。

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