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2016年4月21日 (木)

鳥は自由に空を飛ぶのか?

この青空に翼をひろげ
 飛んでゆきたいよ
  悲しみのない自由な空へ
  翼はためかせゆきたい (「翼をください」)

赤い鳥というグループが歌う「翼をください」を聞いたのは、中学生のころでした。
 学校の文化祭などで、みんなで声を合わせて歌ったりして、たんに流行した歌という以上に何かしら支持し、多くの人が共感するところがあったということだろうと思います。
 ただ、私には、この歌詞にあるような翼をひろげた鳥が自由に空を飛ぶということが実感できなかった。ことを覚えていて、その違和感は今も残っています。
 鳥が空を飛んでいるのは、重力の強い制約に縛られていながら、微かな気流をつかまえた浮力によって辛うじて飛んでいるように、私には見えていました。つまり、この歌のような自由にひろがる空というイメージは持てなくて、鳥にとっては、ピアノ線が張り巡らされ、飛ぶというのは、それらの間を縫うような綱渡りのようなイメージでした。誤れば、即、墜落してしまう。鳥が翼をひろげる姿には、恐怖と束縛が私には、強く印象づけられていたと思います。
 この歌に見え隠れするのは、この歌を歌う人物が束縛を受けていると感じていて、そこから逃げたいという願望を空を飛ぶ鳥に仮託して、自由なイメージを、いわばフィクションとして創り上げて、憧れるということではなかったと思います。それは、私には、むしろ逆説で、そう感じている自分と同じ境遇、いやそれ以上に束縛されているのに、そうでないような外見で、制約されていても、そのことを表にすることもできない絶望的な歌に聞こえたのです。
 何か暗い話になってきました。制約という言い方は、多分に、それを傍観している外野から、偏った価値観の色眼鏡を投影しているにすぎず、自由なひろがりもがんじがらめの束縛も質的にはたいして変わるものではないかもしれません。このような場が鳥の生きる世界であり、そのように鳥は世界を形成し、そこでいきるように自身を形成している、ということではないでしょうか。
 キルケゴールが『死に至る病』の冒頭で、“人間とは精神であり、精神とは関係である・・・”と述べているように、個人というのは独立して自存している啓蒙主義の人間観は、むしろ、人は様々な関係の結節点の方が近いのではないかと言うこともできると思います。(キルケゴールの場合には関係の究極的な行き着く先である神との関係に向き合わさせられるというのは、私にはレトリックに思える)具体的には、関係という無数に張り巡らされた糸の交叉する点が重なり実体化したということではないでしょうか。それは、対自的存在とキルケゴールの思想を受け継いだ人が人間の実存を形容したことではないか、ということです。つまり、絶対ではありえず、どこまでも相対なのだ。だから、究極的な根拠がない。鳥であれば、墜落してしまう恐怖は、ここで、同じように人にもある、実存という考え方が不安という心理を近しいものとしてのは、そのためではないか、などと考えたりもします。

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