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2016年4月12日 (火)

リバプール美術館蔵 英国の夢 ラファエル前派展(4)~Ⅰ.ヴィクトリア朝のロマン主義者たち(3)

River_prerasibyl ラファエル前派ではミレイと並ぶ看板であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの作品も展示されていました。「シビラ・パルミフェラ」という作品です。ロセッティの作品の展示は2点で、もう1点は紙にチョークで描いたものなので、油絵としては、これ1点で、ミレイに比べて少ないと思いました。しかし、ロセッティの作品は端的に言えばワン・パターンなので、これ1点でも、十分に画家の作風が分かってしまうともいえると思います。よい意味でも、悪い意味でも特徴的で個性が強いということでしょうか。ラファエル前派の画家の中でも、ロセッティは、ミレイやハントのように風景画や群像画を描くことはほとんどなく人物画、とりわけ女性のみを描いたように見えます。理屈をどうこう並び立てることは、いくらでもできるでしょうが、根本のところで、ロセッティという人は女性以外を描く気になれなかった人であったと思います。詰まるところ、女性にしか興味がなかったと考えられます。端的にいえば、単なるスケベオヤジであったというわけです。このような視点に立つと、ロセッティの画業はスケベ心を起こして好きな女性を好きなように描くために、紆余曲折を経た苦心の軌跡ということができます。
 未だ若いころは、つまり、ラファエル前派のころは、血気盛んであり、若さゆえの衒いもあって、自身をカッコよく見せたいがゆえに稚拙な理論武装を試みたりしました。そしてまた、未だ女性経験もなく、想像の中で理想の女性像を追い求めることになりがちで、それがラファエル前派の物語的な方法論や聖母マリアの純粋で処女性をまとった女性を追い求めたりしたということです。当時のロセッティを取り巻く社会環境はヴィクトリア朝の禁欲的な風潮にあって女性を描くとしても、数多くの制約に縛られていたことも、原因と考えられます。
 ロセッティはその中で、もともと素養のあった文学の世界で、自身の思いのたけを想像のなかで追求していったと考えられます。それがダンテの作品のベアトリーチェであったり、中世のアーサー王伝説であったり、ギリシャ神話の女神たちであったりと、ヴィクトリア朝の道徳的社会の中でも、ひとつの抜け道でもあったことから、これらの女性たちに仮託して、作品を制作していったと考えられます。
 その後、長ずるにあたって、ロセッティは結婚を経験し、生身の女性を現実に知ることになります。とくに、ロセッティの女性遍歴と、付き合った女性を作品のモデルにしたりとか、その女性たちを介した愛憎の人間関係とかはラファエル前派を解説した著作や文章に詳細に紹介されているので、ここでは採り上げませんが、そこでロセッティは、それまで想像の中でかきたてていた女性を、生身で知るわけです。そこで、ロセッティは付き合っていた当の女性を、そのまま、自らの彼女たちの思いをぶつけるように、彼女たちの肖像を、ロセッティ自身が彼女たちが一番美しく映えるように意匠を凝らして描いていくようになっていきます。そのときに、聖書のエピソードとか神話とか文学のものがたりとか、もっともらしい説明などは不要となっていきます。ロセッティにとっては、目の前に麗しい愛の対象がいるわけです。その愛の感触をそのまま表わすことが、ものがたりの場面を借りるというような面倒な回り道をする必要性を感じられなくなっていったというわけです。そんな回り道をする間に、愛の温もりが冷めてしまいます。ロセッティは、むしろ、そういう温もりを含めて作品として定着させたかったのではないか。それこそが、ロセッティの唯美主義といわれる作品であったと考えられます。
 だから、ロセッティと同時期に唯美主義といわれた画家たちとは、その点でロセッティは大きく異なっていたと考えられます。他の唯美主義の画家たちはヨーロッパ大陸に留学しで古代ギリシャやイタリアの美術に触れて、その理想を追いかけたのと本質的に違います。つまり、この作品のような女性像を盛んに描いた1860年以降の作品は、女性の半身あるいは四分の三を、ほぼ等身大の大きさのキャンバスに、女性が画面に収まりきれずに、画面からはみ出してくるようにいっぱい描かれます。それは、背景とか空間といったものは、もはや描くのが面倒で、女性とそれを飾る付属物、たとえば花や装飾を描いていきます。そして、タイトルについて、神話や文学のタイトルを意味深につけてあげることで、象徴性の飾りをするとともに、それなりの意味づけをしています。そのなかで、描かれている女性はロセッティの好みのタイプの女性であり、彼自身が髪の毛フェチであるかのように、そのほとんどが豊かな髪を結い上げることなく(当時のヴィクトリア朝では一般に女性の髪は結うものであったにもかかわらず)、あえて髪を流して描いて、唇を毒々しいほどに真っ赤に塗って強調しているといえます。
 この作品でも、象徴的な意味のあるアトリビュートを画面に入れているようです。例えば、女性が手に持っているのは勝利のヤシの葉であるとか、背後の両脇には愛(キューピット)と死(骸骨)のシンボルが彫刻されているとか、あるようです。しかし、見る者の視線はそんなところには行かず、この作品が赤で埋め尽くされているところではないでしょうか。女性の着ているロープの光沢のある赤が画面の下半分で映えて、画面上方の左右には真紅の薔薇の花束が飾られ、中央には黒い覆いから女性の豊かな赤毛が溢れて流れ出るように広がっています。そして、真ん中に女性の肉厚の赤い唇が鎮座している。そのような赤に囲まれて対照的に映し出されるのが女性の白く柔らかな肌というわけです。つまり、この作品は、いろいろに理屈をつけられますが、真ん中の顔を中心にして、様々な意匠が取り囲んでいる。これをロセッティの側から言えば、女性の顔を際立たせるために、あれこれ細工を施しているということになります。それは、別の見方をすれば、そのような工夫を凝らす必要があったということに他なりません。それは、描かれている女性に存在感がないということです。そこにロセッティという画家の画家としての退廃が見えてきます。これだけ、色々なものを画面にぶち込んでも、迫力がない。画面から溢れんばかりに見る者に迫ってくるようなところがない。全体として、それなりにおさまっている。そのような作品は、ブルジョワの住宅の居間を飾るとか、中でもスノッブな人々の集まりの中でアクセサリーとして飾るという目的には、最適なものだったかもしれません。もともと、そのような狭いサークルの中でカルト的に愛玩されるような性格の作品だったというような気がします。今回の展示で、他の画家たちの作品で並べられているのを見て、そう思いました。
 River_preratroy_3 そのようなロセッティの性格を考える契機となったのがアントニー・オーガスタス・フレデリック・サンズの「トロイアのヘレネ」という作品です。ここで描かれている女性は、ロセッティ風の顔立ちで、しかも「シビラ・パルミフェラ」の女性と同じように豊かな赤毛が流れ出るように画面に溢れています。言ってみればロセッティの亜流というところでしょうか。ロセッティは剽窃というようなことで責めたらしいです。しかし、同じ赤毛の女性を描いているにしても、このサンズの作品は、ロセッティのような意匠を凝らしたところが見られません。画面いっぱいに女性のふくよかな顔と豊満さを想像させる肉体、そして赤い髪で埋め尽くされています。しかも、女性の顔をしかめたような不機嫌な表情が生き生きと感じられます。それだけでも、この女性の生身の存在が見えてくるようです。しかも、赤い髪の生え際の一本一本が精緻に、それこそ偏執的なほど描きこまれているのに圧倒されるように思います。その赤い髪が画面からはみ出してくるような錯覚を覚えます。このサンズの作品は顔や髪の描き込みに比べて首や片から上半身が明らかに緊張が途切れたように、お座なりにも見えてしまうほどバランスを欠いていますが、そんなことはお構いなく、迫真的なリアリティかを感じます。好き嫌いは別にして、訴えるものがある。それは、今回の展示された作品が、唯美主義というのでしょうか、ある種キレイゴトに終始しているのに対して、その枠を飛び越えようとしているものに感じられました。

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