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2016年4月16日 (土)

リバプール美術館蔵 英国の夢 ラファエル前派展(8)~Ⅱ.古代世界を描いた画家たち(4)

River_prerasummer アルバート・ジョセフ・ムーアの「夏の夜」という作品です。典型的なムーアの作品の傾向は、古代彫刻に見られるような襞のあるたっぷりした衣装を身に着けたギリシャ風の人物(主として女性)が心地よさげに娯楽に興じたり、何もせずに時の流れに身を任すようにしている、というものです。作品のタイトルも恣意的なのか、作品を説明するものでもなく、何かしらの暗示をするようなものでもなく、あえて無内容に徹しているというのか、そのようなもの、例えば絵の中で付随的に描き加えられたアクセサリーにちなんでタイトルにしてしまったりということもありました。多分、ムーアは、何かものがたりの場面をテーマとするとか、何かしらの主張を込めたということはまったくなくて、線と色彩のハーモニーとそれが生み出す造形に、さらに言えば、そこから醸し出される雰囲気のようなものにあったと思います。人物の衣装や背景の色が作品全体の雰囲気を作り出して、その作品を見る人は妙なる調べが聞こえてくるような錯覚にとらわれる、というような評があったということですが、そういうのをムーアは狙っていたと思います。唯美主義といっても、ラファエル前派のミレイのような人は、ものがたりの場面のような題材から、絵画という作品だけで完結した世界をつくって、ものがたりという言葉では表すことの出来ない、厳粛さとか宗教的な雰囲気とかようなものを直観的に感じ取ってもらうことを秘かに意図していたのとはムーアは異なります。ムーアの場合は、もっと表層的で感覚的な喜びに近いもので、ことばでいう内容をできるかぎり切り捨てたようなものだったと思います。
 そしてまた、この作品では女性のヌードを前方、後方、そして横側とさまざまな方向から描いて、今でいえば3D映像のような見せ方をしています。
 River_prerapel1 このあたりが唯美主義のなかで比較的知られている画家たちではないでしょう。チャールズ・エドワード・ペルジーニというルネサンス期の画家に似た名前の人がいましたが、イタリア系の人のようです。「ドルチェ・ファール・ニエンテ(甘美なる無為)」という作品は、タデマの「お気に入りの詩人」、ポインターの「テラスにて」あるいはムーアの「夏の夜」といった古代風の背景でくつろぐ女性像ということで共通性がある作品です。ペルジーニは、他の画家が写真でいうとソフトフォーカスのような幾分ぼんやりとさせて雰囲気を醸し出す画面作りをしているのに対して、くっきり、はっきりと明快に描き、全体にカラッとした明るい雰囲気になっています。このように比べて見てみると、これらの画家たちの作品が単独に独立した価値を主張しているというよりは、唯美主義というような一群のグループの中で、他の画家との差異によって相互に引き立て合っていくことで、価値を高めているように思えます。これは、例えば、ファッション・ブランドがそれひとつが単独で新市場を切り開くほどのパワーがないけれど、ファッションの中心地という評判のパリの一区画に集中することで、ライバルのブランドと表面的には競争しながら、実はその単独のブランドで客を吸引するのではなくて、ブランドが集まったというパリのブランドで客を吸引し、その集まった客を奪い合うのと、共通しているように思います。多分、このペルジーニにしても、ポインターにしても、レイトンにしても、一人画家の実力とかネームバリューよりも、画家があつまった唯美主義というブランドで価値を作っていたのではないかと思います。そのためなのか、その結果としてなのかは、分かりませんが、このような共通していながら、個々の画家の個性を差別化できるような諸作品を、画家たちが描いたということではないかと思います。このような言い方をすると、画家たちを否定的に扱っているように思われるかもしれません。しかし、ヴィクトリア朝時代に社会経済上の大きな変化が生まれ、効率的な経済とか大衆消費社会といった傾向がうまれ、伝統的な“ゲイジュツ”という権威が空洞化してしまったという状況で、画家たちは、生活していかなければならない。それまで、技量を磨くために投資をしてきたわけでしょうから、そのリターンを得ようと必死になって、時代の流れを追いかけ、顧客をみつけようと奮闘を続けたのではないかと思います。その暗闘と模索の末に、個々で展示されている作品たちが制作された。結果として、それまでの芸術というものとは意味合いが変容していったということでしょうが、そのプロセスをストーリーとして、私は、想像していました。展覧会主催者の意図とは、まったく離れたことですが、私が、この展覧会で興味を惹かれたのは、そういう点です。
 River_prerapel2 同じ画家の「シャクヤクの花」という作品です。よくできた作品で、キレイな作品であると思います。でも、この作品について、この展覧会で、もし間違って、ペルジーニではなく、他の画家の名前で展示されたとしても、見に来たお客さんのうちで間違いに気がつく人はどれだけいるでしょうか。それだけ、この作品もそうだし、ペルジーニという画家もそうだし、他の画家にしても、特筆すべき目立った個性がないということです。作品の価値がどうこう以前に、ひとやまいくらの林檎のようなものなのです。ただし、そのひとやまの価格が高いか安いかは別の議論になります。そして、個々で展示されている画家たちは、ひとやまの中の一個でもいいから、店頭に並ぶこと、売れることが、まず大事だったということではなかったのか。そう思います。私は、そのような妄想を止めることができませんでした。

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