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2016年4月19日 (火)

リバプール美術館蔵 英国の夢 ラファエル前派展(11)~Ⅳ.19世紀後半の象徴主義者たち(2)

River_preraburn1_2 次にバーン=ジョーンズの作品を見ていきましょう。バーン=ジョーンズはロセッティに見出され、ラファエル前派の後期を代表する画家という説明でいいのではないでしょうか。「フラジオレットを吹く天使」という水彩画です。この展覧会で、最初にラファエル前派のミレイの平面的で、事物の輪郭を明確な線で描いていた図面のような絵画から、唯美主義の画家たちの奥行きのある空間を画面に導入し、事物の表層の感触を細密になぞるように描写して、科学的思考に沿うようなリアルさ美をわかり易く呈示してきたことから、また、平面的で図式的な絵画にひと回りして戻ってきたような印象です。しかし、そこにはただ戻ってきたのではなくて、表層的でリアルを感じさせるのでは物足りなさを感じたのであろう人々の欲求を充たすべく、幻想性をまじえたものを、現実とは一線を画させるように中世から初期ルネサンスのころのイコンのような図式のような形にしてみせた作品ということができます。ワッツのように現実と幻想が曖昧なものであるのに対して、バーン=ジョーンズは現実と幻想の区別を明確にしてみせます。幻想の無意識の世界は、もはや人々にとってリアルに在るということが前提になっていたら、それが現実に今、生活を営んでいる、その裏に無意識の世界が広がっていることになります。それをリアルに感じてしまったとしたら、人は不安に苛まれることになるのではないでしょうか。
 この作品を見れば、タデマやレイトンといった画家たちの写真をおもわせる一見写実的な人の描き方をしているのに対して、バーン=ジョーンズは写真よりも図案の方を向いたような画風で大きく印象が異なります。画家の伝記的な事実として、中世や初期ネルサンス絵画を勉強したことから、その影響を受けたと言えるかもしれません。しかし、それだけでは、なぜ彼が、このような画風になって、しかも当時の人々が、それを受け容れたのかは分かりません。ひとつには、バーン=ジョーンズは画家だけでなくステンドグラスやタピスリーの図案のデザインをしていたことが、大きく影響しているかもしれません。当時の人々にとって写真よりも、そのような壁掛けや教会のステンドグラスの方が身近に接することができるものだっただろうことから、図案の親しみ易さはあったと思います。バーン=ジョーンズは、それにうまく乗ったと言えないでしょうか。彼が題材として取り上げたのは伝説や神話のエピソードです。そして、当時の人は、その図案のような作品の中に、リアルな現実生活とは一線を画するように幻想とか、その下に潜む潜在的な無意識の象徴を弄ぶことを可能にしたといえるのです。つまり、現実とは表裏の関係で、今、自分がいる一枚皮を剝いだ下に悪夢が広がっているとは、さすがに、そこまで切迫感があると日常生活をあまりに重くなってしまいます。それよりも、現実に隙間に、はるかに垣間見える程度であれば心悩ますほどにはなりません。バーン=ジョーンズの作品は、その絶妙なバランスを保っているのが、魅力となっているのではないかと思います。そこでこそ、イラストのような平面的、というよりは二次元性を強く感じさせるところや、色彩が明るく透明な絵の具の色が映えているところ、この作品であれば登場する人物がいつも同じようになっていてキャラクター化していること、などといったバーン=ジョーンズの特徴が活きてくると思います。
 River_preraburn2 同じ画家の大作「スポンサ・デ・レバノ(レバノンの花嫁)」はどうでしょうか。3.3×1.mという水彩の大作です。「旧約聖書」の「雅歌」の一節ということですが、森の中へ続く小径を歩む花嫁が画面真ん中右で、彼女の両側には白いユリの花(純潔の象徴だそうです)が咲いていて、そして、彼女の左上に、擬人化された北風と南風の女性像が渦巻く衣を身にまとい、手を頭の両側にかざしています。この二人の女性像についてはルネサンス初期のボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」でヴィーナスの左側で風を吹きかけるゼフィロスを参考したと解説されています。例えば、二人の女性が口から花を吹いているようにみえるのは、ボッティチェリから持ってきたもののようです。また、二人の女性の顔の形についてもボッティチェリの形を持ってきているように見えます。ボッティチェリという画家は中世の様式的な絵画のティストを大きく残して、リアリズムとは一線を画した画風のひとでしたが、バーン=ジョーンズはそのような性格をうまく使って、当時の人々の好みに合わせて、リアリズムのスパイスをまぶして呈示して見せた、という作品ではないかと思います。例えば、二人の風の擬人化した女性の着ている衣装の襞が、装飾的な文様のようになっていて、衣装の襞から、派生した流れが、彼女たちの背後まで続いて長く伸びて、まるで渦を巻くような文様を形作っています。これは、つむじ風とか風をシンボライズしているのでしょう。ここでは、それをあからさまに風として描くことをしていません。例えば、風が吹いているのであれば、真ん中右の、こちらに歩いてきる女性の衣服や髪の毛が風に吹かれていないし、あしもとのユリの花が風に揺れていません。これは、バーン=ジョーンズが影響を受けた「ヴィーナスの誕生」で、風が吹いて、誕生したばかりのヴィーナスに掛けられようとして衣が煽られている様とは対照的です。バーン=ジョーンズのこの作品では、風は二人のところで吹いているのです。しかし、それがもう一人の女性に届いているかどうか。その雰囲気が、二人の女性の衣装の襞と風の様式化されたデザインのような描き方に表われていると思います。現代でいえば、さしずめ、サブリミナルのような効果を狙っているのではないかと、私には思えます。
 River_prerastoradu このような様式化してデザインのようにして、意識下にシンボルを植えつけるような手法は、バーン=ジョーンズのフォロワーとも言うべき画家たちによって積極的に展開されたと思います。ジョン・メリッシュ・ストラドウィックの「聖セシリア」では、中世のイコンのようなデザインを幻想絵画のように描いています。細密画のように衣装や天使の羽根を描き、天使と聖セシリアの顔の皮膚の柔らかさは唯美主義の画家たちの描くような肌触りの柔らかさを印象付けます。その対比を明るく透明な彩色で描いています。これを見ていると、現代ではない時代、中世的な幻想の世界に誘い込まれるような印象を見る者に与えていると思います。
 また、ジョン・ロダム・スペンサー・スタナップの「楽園追放」という作品。まるで、タペストリーの図案のような画面で、細かく花が散りばめられ左手の人物の甲冑や、追放されるイブの髪の毛など、細密画のように、全体が過剰なほど細かく描きこまれています。しかし、全体は図案のようなリアルとは一線を画したもので、バヘーン=ジョーンズの手法を過激に突き詰めた作品と言えるのではないかと思います。それが自然主義のリアリズムを跳び越えて、幻想絵画になってしまっている。後の象徴主義とか、その影響を受けたシュルレアリスムの画家たちに連なる傾向を可能性を持っている作品であると思います。
 River_prerastanap そして、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの「エコーとナルキッソス」を見ていきましょう。耽美的な画家というイメージを持っていましたが、実際に作品を見ると、描き方が粗いので驚きました。それをある程度のサイズでドカッと呈示してみせることで、そのスケール感と題材とで、繊細とか幻想的とか耽美といった印象を与えている巧みさに感じ入ったというところです。しかし、それでどうしたというところで、これまで様々に見てきた連続性で見ていくと、名声はあるようだけれど、私としては、いささか拍子抜けという感じでした。最後のところが、こんなだったので、画竜点睛を欠くというのが、展覧会全体の印象でした。
Caravaggionarcisowater

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